名前を呼ばれない夜
風はなく、雲も動いていない。
屋敷を包んでいた夜と、外の夜は、まるで別のもののように感じられた。
ルカは、屋敷の外に立っていた。
誰も声をかけない。
誰も近づかない。
それが命令でなくても、この屋敷に住む者全てが理解していた。
――今の彼に、触れてはいけないと。
窓から逃げた風の流れ。
割れたガラスの匂い。
血ではない、だが確実に“同族”の残り香。
追跡は、難しくなかった。
問題は、どこまで抑えられるかだけだった。
「……」
喉の奥が、わずかに熱を持つ。
今まで、こんな感覚はなかった。
血の匂いに反応したことは、ある。
だがこれは、もっと深い。
――引き寄せられている。
彼女の血に。
稀血という存在そのものに。
「……まだだ」
小さく呟いた声は、自分に向けたものだった。
吸血していない。
契約も、刻んでいない。
それでも、彼女は彼の内側を揺さぶっている。
普通ならあり得ない。
稀血は、ただの“資源”だ。
価値があり、力を与え、短く燃え尽きる存在。
――そう扱われるのが普通だった。
だが、彼女は違った。
ルカは、足を止める。
胸の奥に、別の記憶が浮かぶ。
怯えた目で、それでも逃げずに掴んできた、小さな手。
血の匂いよりも先に、体温を思い出してしまった夜。
恐怖の中で、彼を見上げて名前を呼んだ声。
彼女を守るには、先祖返りとしての力はまだ不完全だった。本来の力は、その先にある。
選べるのは、たった一人。
もし、彼女が拒んだら?
もし、恐怖だけを残したら?
もし、俺の世界を“地獄”だと思ったら?
——それでも、そばに置くのか。
答えを出せずにいた、その隙を。
奴らは、逃さなかった。
「……選ばせたかった」
それは、今になっても本心だった。
消費される稀血としてではなく。
永遠を生きる吸血鬼の伴侶としてでもなく。
ただ、彼女自身の意志で。
――だが。
「そんな猶予は、なかった」
彼女の身体は、限界に近づいている。
吸血されなければ、短く終わる。
吸血されても、耐えられなければ、終わる。
寿命を伸ばすための方法はひとつ。
選択肢は、最初からなかった。
それでもルカは、選ばせようとした。
守り、隠し、閉じて。
世界の汚れから切り離せば、時間を稼げると信じて。
――結果が、これだ。
彼女は奪われた。
血の匂いを餌に、平穏を壊されて。
「……愚かだな」
自嘲は、短く終わった。
怒りが、ようやく形を持つ。
彼女を奪った者たちへの怒り。
稀血を“扱えるモノ”だと思っている一族への怒り。
そして――
自分自身への怒り。
嫌われる覚悟がなかった。
恐れられる覚悟がなかった。
だから、こうなった。
「……もう、戻れない」
声は、低く、静かだった。
夜の奥で、何かが応える。
遠くで、獣が息を潜める気配。
同族たちは、本能で察していた。
――吸血鬼の王。先祖返りが、動き出したと。
ルカは、目を閉じる。
そして、はっきりと決めた。
彼女が、拒んでも。
恐れても。
泣いても。
今度こそ、離さない。
「……アリア」
名を呼ぶだけで、喉が熱くなる。
次に会うとき。
彼女の血に触れるとき。
もう、戻れない場所へ行く。
それでも――
「それでも、俺は」
夜が、確実に赤みを帯び始めていた。
次の夜は、
終わらない。




