表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/36

紅い夜は、終わらない

 



 最初に異変を感じたのは、音でも、揺れでもなかった。

 胸の奥が、急に熱を持った。


 理由もなく、呼吸が浅くなる。さっきまで重く垂れていた身体が、内側から引き上げられるみたいに、微かに震えた。


 ——来た。


 そう思った瞬間、説明のつかない確信が胸に落ちる。

 血が、騒いでいる。


 怖さとは違う。

 逃げたいとも違う。


 もっと原始的で、もっと近い感覚。

 名前を呼ばれているみたいな——それも、声ではなく、存在そのものに。


「……ルカお兄様……?」


 掠れた声が、自然と零れた。


 そのとき。


 重い衝撃音が、どこかで響いた。

 壁の向こうか、床の下か。距離は分からない。

 でも、その一撃で、空気が一変したのが分かった。


 血の匂いが、濃くなる。


 甘くて、鉄っぽくて、でも——

 夜会場で感じたものとは、比べものにならないほど、生々しい。


 胸が、きゅっと締めつけられた。


 ——戦っている。


 それも、ひとりじゃない。

 複数の“同じ存在”に囲まれて。


 それなのに。


 その中心にいるのが、誰なのか。

 私は、考える前から分かっていた。


 床に手をつく。立ち上がろうとして、ふらつく身体を必死で支える。視界が一瞬、白くなったけれど、それでも——止まれなかった。


「……っ」


 次に聞こえたのは、低い衝突音。

 肉と肉がぶつかるような、鈍い音。

 続いて、何かが砕ける音。


 そして——


「……はは……」


 嗤うような、掠れた声。


「やっぱりな……」


 それは、苦痛に歪みながらも、確かに嘲りを含んだ声だった。


「忌々しい……先祖返りめ……」


 息をするたびに、血が喉に絡んでいるのが分かる。


「まだ……誰の血も、吸ってない……」


 その言葉に、胸が跳ねた。


「だから……その程度だ……」


 濡れた床を引きずる音。

 誰かが倒れ伏す気配。


「……本来の力は……こんなものじゃ、ないだろ……」


 最後の言葉は、咳に遮られて、はっきりとは聞き取れなかった。


 けれど。

 次の瞬間。


 重たい音と一緒に、何かが、完全に止まった。

 ——死。

 それが、はっきり分かる沈黙。


 その直後だった。


 息が、詰まる。

 胸の奥が、強く、強く、引き攣れた。


「……っ、お兄様……!」


 衝動的に叫んだ、その声に。


 返事はなかった。


 代わりに、感じたのは——

 急激に弱まる“気配”。

 それでも、消えない。

 暗闇の中で、なお際立つ存在。


 人の形をしているのに、人ではない。血に濡れているはずなのに、どこか冷たい光を帯びた輪郭。


 それなのに。


 ——綺麗だ。


 そんな感想が、胸に浮かんでしまうことが、怖かった。


 赤い瞳は、鈍く光っている。でも、その奥にあるのは、怒りでも、勝利でもない。


 痛みだ。


 深い、致命的な痛み。


「……アリア……?」


 ようやく届いた声は、掠れていた。

 立っているのが、奇跡みたいに。

 私は、考えるより先に、駆け寄っていた。


「……ごめんなさい」


 意味もなく、そう言ってしまう。


 私のせいだ。

 私が、ここにいるから。


「……来るな……」


 弱い拒絶。

 それが、胸を締めつけた。


「見せたく、なかった……」


 血に濡れた外套。

 肩口から、はっきりと分かるほどの深い傷。


 それでも、私を見る瞳は、まだ優しいままだった。


 ——そんな顔、しないで。


 そう言いたかった。


 死ぬことなんて、考えていなかった。

 先のことなんて、どうでもよかった。


 ただ。


 この人が、ここで消えてしまうかもしれない。

 その事実だけが、怖かった。


「……私が」


 声が、震える。


「今度は私があなたを助ける」


 ルカお兄様の瞳が、わずかに揺れた。


「……それは……」


 言いかけて、言葉が続かない。


 躊躇。

 恐れ。


 私を壊してしまうかもしれないという、恐怖。

 私は、一歩、距離を詰めた。


「……私、全部知っているんです。」


 吸血鬼のことも。稀血のことも。

 残された時間と正しい血の使い方も。

 はっきりと、言う。


「お兄様を」


 私が死ぬことになってもいい。

 この人が苦しむくらいなら。

 死んだほうがマシだ。


「……私を、見て」


 赤い瞳が、まっすぐに私を捉える。


 その中にあるのは、化け物じゃない。

 ただ、ひとりの存在が、必死に抑え込んでいる渇き。


「……後悔、する……」


「しません」


 即答だった。


「だって……」


 私は、そっと、首元に触れる。


「私の世界は、もう、とっくに——」


 あなたに、変えられている。


 言葉にしなかったその続きを、彼は理解したみたいだった。


 喉が、鳴る。


 彼の。


 それは、もう抑えきれない音だった。


「……アリア……」


 その声が、名前を呼ぶ最後の理性だった。


 次の瞬間。

 冷たい息が、首元に落ちる。

 歯が、触れる。


 ——月が紅い。


 心地よい腕の中で、私は甘い痛みに溺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ