紅い夜は、終わらない
最初に異変を感じたのは、音でも、揺れでもなかった。
胸の奥が、急に熱を持った。
理由もなく、呼吸が浅くなる。さっきまで重く垂れていた身体が、内側から引き上げられるみたいに、微かに震えた。
——来た。
そう思った瞬間、説明のつかない確信が胸に落ちる。
血が、騒いでいる。
怖さとは違う。
逃げたいとも違う。
もっと原始的で、もっと近い感覚。
名前を呼ばれているみたいな——それも、声ではなく、存在そのものに。
「……ルカお兄様……?」
掠れた声が、自然と零れた。
そのとき。
重い衝撃音が、どこかで響いた。
壁の向こうか、床の下か。距離は分からない。
でも、その一撃で、空気が一変したのが分かった。
血の匂いが、濃くなる。
甘くて、鉄っぽくて、でも——
夜会場で感じたものとは、比べものにならないほど、生々しい。
胸が、きゅっと締めつけられた。
——戦っている。
それも、ひとりじゃない。
複数の“同じ存在”に囲まれて。
それなのに。
その中心にいるのが、誰なのか。
私は、考える前から分かっていた。
床に手をつく。立ち上がろうとして、ふらつく身体を必死で支える。視界が一瞬、白くなったけれど、それでも——止まれなかった。
「……っ」
次に聞こえたのは、低い衝突音。
肉と肉がぶつかるような、鈍い音。
続いて、何かが砕ける音。
そして——
「……はは……」
嗤うような、掠れた声。
「やっぱりな……」
それは、苦痛に歪みながらも、確かに嘲りを含んだ声だった。
「忌々しい……先祖返りめ……」
息をするたびに、血が喉に絡んでいるのが分かる。
「まだ……誰の血も、吸ってない……」
その言葉に、胸が跳ねた。
「だから……その程度だ……」
濡れた床を引きずる音。
誰かが倒れ伏す気配。
「……本来の力は……こんなものじゃ、ないだろ……」
最後の言葉は、咳に遮られて、はっきりとは聞き取れなかった。
けれど。
次の瞬間。
重たい音と一緒に、何かが、完全に止まった。
——死。
それが、はっきり分かる沈黙。
その直後だった。
息が、詰まる。
胸の奥が、強く、強く、引き攣れた。
「……っ、お兄様……!」
衝動的に叫んだ、その声に。
返事はなかった。
代わりに、感じたのは——
急激に弱まる“気配”。
それでも、消えない。
暗闇の中で、なお際立つ存在。
人の形をしているのに、人ではない。血に濡れているはずなのに、どこか冷たい光を帯びた輪郭。
それなのに。
——綺麗だ。
そんな感想が、胸に浮かんでしまうことが、怖かった。
赤い瞳は、鈍く光っている。でも、その奥にあるのは、怒りでも、勝利でもない。
痛みだ。
深い、致命的な痛み。
「……アリア……?」
ようやく届いた声は、掠れていた。
立っているのが、奇跡みたいに。
私は、考えるより先に、駆け寄っていた。
「……ごめんなさい」
意味もなく、そう言ってしまう。
私のせいだ。
私が、ここにいるから。
「……来るな……」
弱い拒絶。
それが、胸を締めつけた。
「見せたく、なかった……」
血に濡れた外套。
肩口から、はっきりと分かるほどの深い傷。
それでも、私を見る瞳は、まだ優しいままだった。
——そんな顔、しないで。
そう言いたかった。
死ぬことなんて、考えていなかった。
先のことなんて、どうでもよかった。
ただ。
この人が、ここで消えてしまうかもしれない。
その事実だけが、怖かった。
「……私が」
声が、震える。
「今度は私があなたを助ける」
ルカお兄様の瞳が、わずかに揺れた。
「……それは……」
言いかけて、言葉が続かない。
躊躇。
恐れ。
私を壊してしまうかもしれないという、恐怖。
私は、一歩、距離を詰めた。
「……私、全部知っているんです。」
吸血鬼のことも。稀血のことも。
残された時間と正しい血の使い方も。
はっきりと、言う。
「お兄様を」
私が死ぬことになってもいい。
この人が苦しむくらいなら。
死んだほうがマシだ。
「……私を、見て」
赤い瞳が、まっすぐに私を捉える。
その中にあるのは、化け物じゃない。
ただ、ひとりの存在が、必死に抑え込んでいる渇き。
「……後悔、する……」
「しません」
即答だった。
「だって……」
私は、そっと、首元に触れる。
「私の世界は、もう、とっくに——」
あなたに、変えられている。
言葉にしなかったその続きを、彼は理解したみたいだった。
喉が、鳴る。
彼の。
それは、もう抑えきれない音だった。
「……アリア……」
その声が、名前を呼ぶ最後の理性だった。
次の瞬間。
冷たい息が、首元に落ちる。
歯が、触れる。
——月が紅い。
心地よい腕の中で、私は甘い痛みに溺れた。




