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壊れたおもちゃ

 


 暗闇は、思っていたよりも静かだった。


 揺れはない。走る振動も、風の音もなく、ただ、どこか湿った空気が、ゆっくりと肺に入ってくる。


 私は、意識の底で、それを感じていた。


 目は、開かない。

 開けられない、のかもしれない。


 身体が、まだ、私のものじゃない。


「……気絶は、していないな」


 低い声が、すぐ近くで響いた。


「さすがだ。稀血は、こういうところが厄介だ」


 別の声が、鼻で笑う。


「いや、むしろ都合がいい。

 完全に落とすと、匂いが鈍る」


 ……におい?


 意味を掴もうとした瞬間、頭の奥が、じくりと痛んだ。


「しかし……」


 最初の声が、楽しそうに続ける。


「笑える話だよな。あの夜会の騒ぎ」


「例のガキか?」


「ああ。レオとか言ったか。哀れなもんだ」


 短い沈黙。

 それから、はっきりとした嘲笑。


「稀血のせいで姉を失って

 その腹いせに、あんな真似をした」


「しかも相手が、ヴァルシュタインの“箱庭”とは」


「姉も馬鹿だが、弟も馬鹿だよな」


 吐き捨てるような声。


「感情に任せて刃を向ければ、

 どうなるかも分からないとは」


「結果、本人は塵。

 残ったのは、甘くなりきった稀血だけだ」


 ……あね。


 言葉が、頭の中で、引っかかる。

 でも、考えるより先に、

 別の声が、それを遮った。


「稀血はな、」


 低く、確信に満ちた声。


「頭を使って活用しないと」


 指先が、私の顎に触れる。


 乱暴ではない。

 けれど、逃がさない触れ方。


「ずっと、あの家は閉じすぎていた」


「公爵も、奥方も、あの先祖返りも」

「大事に囲いすぎた」


 軽い舌打ち。


「子供のおもちゃは、いつかは壊れる」


「……で?」


 別の声が問う。


「稀血への恨みか?

 それとも、あの化け物への当てつけか?」


「両方だ。金は弾むよ。」


 即答だった。


「ヴァルシュタインに、

 “触れられる”と教える」


「同時に、あの化け物に思い知らせる」


 声が、低く沈む。


「稀血が、あれだけ無防備に生きているなんて」


 指が、私の頬をなぞる。


 冷たい。

 けれど、覚えのある冷たさではない。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「……起きてるんじゃないか?」


 急に、近くで言われる。


 私は、反射的に、呼吸を止めた。


「いや、まだだ。顔色が死体みたいだ」


「はは。まぁいい」


 布が、少しだけ引き上げられる気配。

 冷たい視線が、まぶたの上をなぞる。


「どうせ、すぐ目を覚ます」


「そのときゃ、ちゃんと教えてやるさ」


 何を、とは言わない。


 でも。


「箱庭の外が、どんな夜か」


 その言葉だけで、十分だった。


 私は、ぎゅっと、何もない空間を掴む。


 そこにあるはずの腕は、もうない。

 あの体温も、呼吸も、ない。


 ——お兄様。


 名前を呼びたかった。

 でも、声は出なかった。


 代わりに、胸の奥で、何かが軋む。


 遠くで。

 とても遠くで。


 怒りに似た気配が、確かに動き出しているのを、

 私は、まだ知らない。


 夜の外側は、冷たくて、騒がしくて。


 そして。


 とても、血の匂いが濃かった。



 次に気がついたとき、最初に感じたのは——匂いだった。


 血の匂いではない。

 夜会場の、あの甘くて鉄っぽい匂いでもない。


 もっと乾いていて、冷たい。

 石と薬草と、古い布の匂いが混ざったような、知らない空気。でも、同じ存在の匂いがある。


「……」


 声を出そうとして、喉が動かなかった。

 口の中が苦くて、舌が痺れている。


 ——眠らされていた。


 そう理解するより先に、身体が強張る。


 私は、横になっていた。

 硬い寝台。天蓋はなく、天井は低い。

 視界の端に、結界の紋様が、ぼんやりと光っている。


 ここは、私の部屋じゃない。


「目を覚ましたか」


 落ち着いた声が、すぐ近くから聞こえた。


 反射的に身を起こそうとして、胸に鈍い痛みが走る。

 息が詰まり、動きが止まる。


「苦しいだろう?

 連れ出す前に、多少痛めつけたからな」


 視線を向けると、男が一人、椅子に腰掛けていた。


 黒に近い濃紺の礼服。

 赤い瞳。——吸血鬼。


 でも。

 お兄様とは、違う。


 あの人の赤は、深くて、静かで、夜みたいだった。

 この人の赤は、もっと軽くて、乾いていて、人を値踏みする色をしている。


「……ここは」


 掠れた声でそう言うと、男は小さく笑った。


「ヴァルシュタイン家の分家だ。

 正確には、“本家に近い側”」


 その言い方に、胸の奥が冷たくなる。


「殺しはしない。君は“客人”だ」


 客人。


 その言葉が、逆に怖かった。


 縛られていない。

 乱暴に扱われてもいない。

 布団も、清潔。


 だからこそ。


「……ルカお兄様は」


 名前を出した瞬間、男の目が細くなる。


「やはり、最初にそれを聞くか」


 感心したように、どこか楽しそうに。


「彼は、今ごろ必死だろうね」


 胸が、ぎゅっと縮む。


「でも、ここは“彼のおもちゃ”じゃない」


 男は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいた。

 距離は保っているのに、圧だけが強い。


「君は知らないだろうが……

 先祖返りが、稀血を独占するのは、好まれない」


 独占。


 その言葉が、妙に耳に残る。


「君は、存在としても、危うすぎる。残された時間は短い。化け物の元ではなく、きちんと管理されるべきだ」 


「……私は」


 言い返そうとして、言葉が見つからない。


 私は、ただの養女だ。

 お兄様に守られていただけで。


「君は“選ばれていない”」


 男は、はっきりと言った。


「彼が、勝手に囲っていただけだ」


 その瞬間。


 胸の奥で、何かが、ぱきりと音を立てた。

 怖い、より先に、腹が立った。


「……違います」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


「お兄様は、私を——」


「守っていた?」


 被せるように、男が言う。


「それとも、隠していた?」


 言葉が、刺さる。

 私は、答えられなかった。


 守られていた。

 確かに、そう思っている。


 でも。


 あの箱庭は、外を知らないまま閉じられていた場所でもあった。


「君は、選び直すべきだ。君に猶予はない」


 男は、囁くように言う。


「彼ではなく、稀血として“正しい側”を」


 その瞬間、はっきりと分かった。

 ——この人たちは、私を奪おうとしている。


 お兄様のやり方とは、違う。

 でも、同じくらい、息苦しい。

 私は、唇を噛みしめた。


「……私は」


 震えそうになる声を、必死で抑える。


「ルカお兄様のところに、帰ります」


 男は、一瞬だけ目を見開き——そして、笑った。


「言うと思った」


 その笑みは、楽しそうで、冷たい。


「頭の中まで洗脳済みか」


 背後で、何か強まる気配がした。

 逃げ場はない。


 でも。

 胸の奥で、別の感情が、静かに燃え始めていた。


 怖い。

 苦しい。


 それでも。

 ——私は、あの人の名前を、まだ信じている。


 壊れた世界の中で、

 唯一、形を失っていないものとして。



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