平穏
その日は、少しだけ調子がよかった。
胸の奥の鈍い痛みも、朝から大人しくて、息を吸っても、きしむ感じがない。窓から入る光が柔らかくて、ベッドの中で目を閉じているだけなのに、久しぶりに「今日は起きていられるかもしれない」と思えた。
「……ルカお兄様」
呼ぶと、すぐそばで本を閉じる気配がした。
「おはよう、アリア」
「おはようございます、ルカお兄様。
今日は……少し、大丈夫です」
“少し”をつけるのを忘れなかった。
それでもお兄様は、私の言葉をそのまま受け取ってくれる。
小さく、情けない音が腹の奥で鳴った。その音に私は顔を赤く染める。お兄様は優しく笑いを堪えて私に近づいた。
「何か食べようか」
低い声が、穏やかに落ちる。
「無理なら、すぐやめる」
「……平気です」
言葉にすると、本当に平気な気がしてくる。
そのことが、少しだけ、嬉しかった。
お兄様は、扉のほうを見てから、静かに立ち上がった。
「使用人を呼ぶ」
そう言って、私のほうを振り返る。
「すぐ戻るから」
その“すぐ”を、私は疑わなかった。
「はい」
短く答えて、ベッドに背を預ける。
扉が閉まる音は、ひどく静かだった。
部屋には、暖炉の火の音だけが残る。
ぱち、ぱち、と、一定の間隔で薪がはぜる。
炎の赤が、やけに濃い。
見つめていると、ぼんやりと目が慣れてきて、胸の奥が、また少しだけ温かくなる。
——静かすぎる。
ふと、そんなことを思った。
でも、怖いわけじゃない。
むしろ、落ち着いている。
「……」
私は、ベッドを降りて、窓のほうへ歩いた。
お兄様がいないあいだ、部屋を歩くのは久しぶりだった。
足元の絨毯は柔らかくて、音を立てない。
窓辺に立つと、ガラス越しに、曇った空が見えた。
少し、空気が重い。
暖炉のせいだろうか。
それとも、季節が変わったからだろうか。
外の空気をいれようかと、窓にそっと指先を触れた、その瞬間。
——ガシャン。
鋭い音が、部屋を裂いた。
「……っ?」
思考が追いつく前に、視界が砕ける。
ガラスが割れる音。冷たい風。火の粉が一瞬揺れる。
誰かの腕が、背後から私を掴んだ。
「——!」
声を上げる暇もなかった。
口元を塞がれ、身体が宙に浮く。
力の入らない腕。踏ん張れない足。
「——静かに」
耳元で、低い声が囁いた。
人の声。
でも、人じゃない。
胸の奥が、一気に冷える。
「……お兄、さ……」
名前を呼ぼうとして、息が詰まる。
肺が、言うことをきかない。
視界の端で、暖炉の火が遠ざかる。
私の部屋。
私の箱庭。
そのすべてが、一瞬で、外へ引き剥がされていく。
——いや。
助けて、と思ったのかどうかも分からない。
ただ、次の瞬間には、私はもう、夜の中にいた。
◇
ほんの、わずか。
けれど、聞き間違えるはずのない音。
その表情が、はっきりと変わる。
「……くそ」
声は低く、抑えられている。
怒りより先に、後悔が滲んだ。
——油断した。
ほんの一瞬。
ほんの数歩。
それだけで、世界は壊れる。
彼は、走り出した。
吐き出されたその声は届かない。




