遠くで、名前を呼ばれた気がした
あの日を境に私は朝が来てもすぐには起き上がれなくなっていた。
目を開ければ、部屋は静かで、光もやわらかい。
それなのに、身体が動かない。
「……ルカお兄様」
名前を呼ぶと、返事はすぐにあった。
「どうしたの」
いつも、同じ距離。
近すぎて、安心する距離。
お兄様は、椅子に座るのをやめて、いつからか、ベッドの縁に腰を下ろすようになった。私が起きているあいだも、眠っているあいだも。その気配が、部屋から消えることはない。
「……今日も、……来ていました?」
声に出してから、少しだけ後悔した。
聞きたいわけじゃない。
ただ、来ていないといいな、と思っただけ。
「来ていないよ」
即答だった。
「必要なことは、俺がやった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がゆるむ。
――よかった。
そう思ってしまう自分に、薄く罪悪感が生まれる。
でも、それ以上に、安堵のほうが大きかった。
あの日以来、知らない足音が、怖い。
視線を向けられるのが、怖い。
笑われるのも、丁寧な声も、全部、信用できない。
人の形をした“何か”が、また近づいてくる気がして。
そうしているうちに、小さい頃から慣れ親しんだ使用人も、お父様も、お母様も。私は、他人の存在そのものが恐ろしくなった。
——この人以外は。
「……私、変ですよね」
ぽつりと零すと、お兄様の指が、私の髪に触れた。
撫でる、というより、整えるみたいな仕草。
逃がさないけれど、縛らない。
「変じゃないよ」
低く、静かな声。
「正しい反応だ」
正しい、という言葉に、少しだけ驚く。
「……正しい?」
「傷ついたあとで、人を怖がるのも
信用できる相手だけを選ぶのも」
彼の指が、私の耳の後ろをかすめる。
その一瞬だけ、身体が強張るのに、すぐに力が抜けた。
「全部、正しい」
正しい。
そう言われると、胸の奥が、すっと落ち着く。
私は、自然と身体を寄せていた。
肩に額を預ける距離。
呼吸が混ざるほど近いのに、不思議と息苦しくない。
「……ルカお兄様だけは、平気です」
言葉にすると、少し怖かった。
重すぎるかもしれない、と思ったから。
でも、お兄様は否定しなかった。
「それでいいよ」
ただ、それだけ。
腕が回される。
抱きしめる、というより、囲う。
世界と私のあいだに、境界線を引くみたいに。
「君は、ここにいればいい」
囁く声が、すぐ耳元に落ちる。
「外のことは、考えなくていい。
他人のことも、信じなくていい」
それは、優しい言葉だった。
同時に、逃げ場を塞ぐ言葉でもあった。
――でも。
私は、それを、恐ろしいとは思わなかった。
「……ルカお兄様が、いれば」
続きは、声にならなかった。
いれば、生きられる。
いれば、夜を越えられる。
いれば、世界は壊れない。
そんな考えが、自然に浮かんでしまう。
お兄様の腕に、わずかに力が入る。
「……まだ不安?」
からかうようでも、責めるようでもない声音。
私は、少し考えてから、首を振った。
「分かりません」
正直だった。
「でも……離れたくないです」
それだけは、はっきりしている。
お兄様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、一定のリズムで、私の背中を撫でている。
あの夜と同じ。
夜泣きをあやすみたいな、動き。
「……アリア」
名前を呼ばれる。
「俺以外のものが、怖くなってもいいよ」
低く、確かな声。
「その代わり、俺だけは、信じて」
信じる、という言葉に、胸が小さく鳴った。
でも私は、頷いた。
「……はい」
疑わない。
問い詰めない。
知ろうとしない。
この人が、人でなくても。
この優しさの裏に、何があっても。
今は。
今だけは。
私は、彼の腕の中に、顔を埋めた。
外の世界が、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、ひとつの存在だけが、くっきりと大きくなる。
「……お兄様」
呼ぶたびに、その言葉は、
“兄”以上の意味を帯びていく。
それに気づきながら、
私は、目を閉じた。
眠っていたのか、起きていたのか、分からない。
まぶたの裏は暗いのに、意識だけが浅いところを漂っていて、身体の感覚だけが、ぼんやりと残っている。
お兄様の腕の中。呼吸の音。規則正しい鼓動。そこが“世界の中心”みたいに感じられて、私は目を閉じたまま、動かなかった。
——このままでいい。
そう思った、はずだった。
けれど。
「……ア」
どこからか、声がした。
すぐ近くじゃない。
お兄様の声でもない。
もっと、遠く。
壁の向こうか、廊下の先か、それとも——夢の中か。
私は、眉をひそめた。
「……?」
気のせいだと思おうとした。
今までだって、悪夢の中で、何度も名前を呼ばれてきた。
それはいつも、意味を持たない残響で、目を覚ませば消えるものだった。
でも。
「……アリア」
また、聞こえた。
今度は、少しだけ、はっきりと。
喉の奥が、ひやりとする。
胸の奥で、鈍い痛みが、きし、と音を立てた。
——違う。
これは、夢じゃない。
私は、無意識に指先がお兄様を探す。
掴んだ指先に伝わる体温に、すがるみたいに。
「……お兄様」
小さく呼ぶと、すぐに、腕の力が強まる。
「どうした?」
声は、低くて、穏やかで。
でも、その奥に、ほんのわずかな緊張が混じっているのを、私は感じ取ってしまった。
「……今、声が」
言いかけて、言葉が止まる。
言っていいのか、分からなかった。
ここは安全だと、信じていたから。
この人の腕の中にいれば、外は届かないはずだから。
それなのに。
「……気にしなくていい」
ルカお兄様は、そう言って、私の髪に顔を埋めるようにした。守る仕草。隠す仕草。
「君は、何も聞かなくていい」
その言葉に、少しだけ、胸がざわつく。
私だけじゃない。
この人も、外の気配に気づいている。
「……でも」
続きを言う前に、空気が変わった。
部屋の奥。
扉の向こう。
ほんの、わずか。
“何か”が、触れた感覚。
足音じゃない。
気配だけが、滑り込んでくるみたいな、不自然さ。
私の背中に、冷たいものが走る。
「……っ」
反射的に、身を強張らせた瞬間、ルカお兄様の腕が、はっきりと私を引き寄せた。
「大丈夫」
低く、強い声。
さっきまでの優しさとは、違う。
揺らがない、断定の声。
「そばを離れないで」
それは、命令だった。
私は、頷いた。理由を聞く余裕もなかった。
遠くで、また、声がする。
「……アリア」
今度は、はっきりと、名前だけ。
「アリア」
低く、抑えた声。
「俺を見て」
赤い瞳が、すぐそこにある。
夜の中で、異様なほど鮮やかに。
「……そこは、君の世界じゃない」
その言い方は、あまりにも自然で。
私は、疑う前に、視線を逸らしてしまった。
遠くの声は、まだ続いている。
呼ばれている。
確かに、私の名前を。
でも、その声は、だんだんと遠ざかっていく。
厚い壁の向こうへ、夜の底へ、沈んでいくみたいに。
ルカお兄様の額が、私の額に触れた。
「……大丈夫」
今度の“大丈夫”は、私に向けたものじゃない。
外に向けたものだ。
「君は、渡さない」
その言葉に私はなぜか、ぞっとするより先に——安心してしまった。
外の声が、完全に消える。
代わりに、部屋の中の静けさが、いっそう濃くなる。
私は、彼の胸に顔を埋めた。
聞こえなかったことにする。
呼ばれなかったことにする。
この腕の中が、すべてだと、思い込む。
——だって。
遠くで名前を呼ばれた気がしただけで、
私は、こんなにも、怖くなったのだから。
そうして私は、
また一歩、箱庭の奥へと、足を踏み入れた。
夜は、まだ、終わらない。




