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大丈夫、が言えなくなりました

 



 それから、私は何度も目を覚ました。

 正確に言えば、目を覚ましていた、つもりだった。


 朝なのか、夜なのか、分からない時間。目を開けているのに、まだ夢の中にいるような感覚が続く。


 天蓋の影が、ゆっくりと揺れる。

 風は吹いていないのに、布が動く気がした。


「……」


 喉が鳴る。


 息を吸うと、胸の奥が、きし、と音を立てる。あの鈍い痛みは、もう“傷”というより、合図みたいになっていた。


 ——思い出すな。

 そう言われている気がして。


 でも、思い出す。

 目を閉じるたびに。


 ⸻


 夢の中で、私は歩いている。


 夜会場の床。

 あの噴水の縁。

 濡れた石の冷たさ。


 人がいるのに、誰も顔をしていない。

 口だけが動いて、声だけが聞こえる。


「——大丈夫?」

「——怖くないよね?」

「——泣かないで」


 その言葉が、どれも、少しずつ違う形で、同じ意味をしている。——逃げられない。


 足元を見ると、ドレスの裾が赤い。

 花みたいに広がっている。


 綺麗だと思ってしまう自分に、ぞっとする。


「……っ」


 そこで、目が覚める。


 息が、浅い。

 指先が、冷たい。


 私は、無意識に胸を押さえた。包帯は、もう薄くなっているのに、そこだけ、現実に引き戻される。


 ——ここに、刃が入った。

 そう思うと、喉の奥が詰まった。


「……大丈夫」


 言おうとして、声が、途中で止まる。唇は動いたのに、音にならなかった。代わりに出たのは、小さく頼りない息だけだった。その言葉を口にすれば、少しだけ、本当になる気がしていた。でも、今は、口に出すことができない。「大丈夫ですか」と聞かれるたび、喉の奥で言葉が止まる。


 昼間は平気だ。光があって、庭が見えて、時計の音が聞こえるあいだは、ちゃんと笑えるし、頷ける。胸の痛みも、鈍くはあるけれど、耐えられないほどじゃない。


 問題は、夜だった。


 夜になると、世界がまた曖昧になる。部屋の境界が溶けて、時間の感覚がなくなって、何も起きていないのに、胸の奥だけが勝手にざわつく。夢を見ているわけじゃない。思い出しているわけでもない。誰かの声が聞こえる。私を嫌う声がする。その声が私の世界を否定する。死が迫る感覚が、静かに居座っている。


「……大丈夫?」


 ある夜、ベッドの脇に腰掛けたお兄様が、そう聞いた。


 いつもの低い声。穏やかで、静かで、私を揺らさない声。


 私は、反射的に口を開きかけた。


 大丈夫です、と。


 いつも通りの答えを返そうとして――止まった。


 言葉が、出てこなかった。


「……」


 沈黙が落ちる。気まずさはない。ただ、私の中で何かが引っかかっているのが、自分でもはっきり分かった。


「……言えない?」


 責めるでもなく、確認するみたいな声音。


 私は、小さく頷いた。


「……よく、分からないんです」


 正直に言うと、胸の奥が少し軽くなった。


「平気な気もするし……でも、急に、だめになる気もして」


 自分でも曖昧だと思う。こんな説明じゃ、誰も納得しないだろう。でも、お兄様は、何も言わなかった。ただ、私の手を取って、指先を包む。


 あたたかい。


 それだけで、心臓の速さが少し落ちる。


「それでいい」


 低く、静かな声。


「無理に“大丈夫”って言わなくていい」


 その言葉に、胸の奥がきゅっとなった。


 言わなくていい。言えなくてもいい。そんな選択肢があるなんて、今まで考えたこともなかった。


「……前は、言えてたのに」


 ぽつりと零すと、お兄様の指が、ほんの一瞬だけ止まった。


「前と、同じじゃなくていい」


 それは、慰めというより、許可に近かった。


 私は、ゆっくり息を吐く。


「……夜になると、変なんです」


 そう言った瞬間、自分でも驚くほど、言葉が続いた。


「音がなくなる感じがして。誰もいないはずなのに、見られている気がして。声がして。何も起きてないのに、身体が先に、怖がるんです」


 話しながら、指先がわずかに震える。


「だから……大丈夫、って言うのが、嘘になる気がして」


 最後の一言は、ほとんど囁きだった。


 ルカお兄様は、少し考えるように黙ってから、私の額にそっと唇を触れさせた。キスというより、確認みたいな仕草。


「それなら」


 低く、はっきりと言う。


「“大丈夫じゃない”って言えばいい」


 私は、目を瞬いた。


 そんな簡単なことなのに、思いつきもしなかった。


「俺は、そう言われる方がいい」


 腕が伸びて、自然に抱き寄せられる。囲われる距離。逃げ道がないのに、苦しくない。


「君が苦しんでいるのに、平気なふりをされるほうが、ずっと嫌だ」


 その声に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「……じゃあ」


 私は、小さく息を吸って。


「今は……大丈夫じゃない、です」


 声にした瞬間、何かがほどけた。


 怖さが消えたわけじゃない。夜が終わったわけでもない。でも、嘘をつかなくていい場所が、確かにここにある。


 ルカお兄様の腕が、少しだけ強くなる。


「それでいい」


 その一言が、今夜の答えだった。

 私は、ようやく目を閉じる。


 大丈夫、と言えなくなった夜は、深く沈んでいった。



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