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触れられるたび、怖くなる

 



 長い眠りについても、時間だけは過ぎていく。


 あの日から、静かに時間が流れていた。

 私の生活も、それに合わせて、少しずつ形を変えていった。


 正確に言えば、

「起きている時間が、少しずつ増えてきた」というほうが近い。


 まだ長くは起きていられないし、

 胸の奥には、相変わらず鈍い痛みが残っている。


 刺された場所は、触れなければ気にならない。

 けれど、呼吸を深くすると、そこに“何かがあった”という事実だけが、静かに主張してくる。


 それでも。


 こうしてベッドから起き上がって、窓辺の椅子に腰かけられるようになっただけで、私はずいぶん回復したらしい。


「……秋、ですね」


 窓の外の庭は、ほんの少しだけ色を変えていた。


 数日前から、私の部屋に使用人が出入りするようになった。数は多くないし、関わる頻度も少ない。


「お加減、いかがですか」


 いつもと同じ声。

 いつもと同じ仕草。


 なのに。


 ——あれ?


 胸の奥が、わずかにざわついた。


 何が違うのか、言葉にしようとすると、するりと逃げてしまう。


「……大丈夫です」


 そう答えながら、私は無意識に鼻先を動かしていた。

 空気を、確かめるみたいに。


 この部屋の匂い。


 リネンの清潔な香り。

 磨かれた床の、ほのかな木の匂い。

 窓から入る、冷たい外気。


 全部、知っているはずのものなのに。


 ——前と、違う。


 はっきりと「変だ」と言えるほどじゃない。

 でも、確実に。

 この家の空気は、以前よりも、重く、濃くなっている。


「……?」


 使用人が下がったあとも、

 私はしばらく、その場に座ったままだった。


「……お兄様」


 名前を口に出すと、胸の奥が、すとんと落ち着いた。


 それも、前より強く。


 目を覚ましてから、お兄様は、ほとんど私のそばを離れていない。昼も、夜も。仕事があるはずなのに、長く席を外すことはなくて、いつも部屋のどこかに気配がある。


 眠っているあいだも、

 きっと、そうだったのだろう。


「……」


 ふと、気づく。

 この家の匂いが変わった、と思ったけれど。


 正確には、“重なった”のかもしれない。


 誰かの匂いが、もともとあったものの上に、静かに、覆いかぶさっている。


 鉄の匂い。

 夜の匂い。

 血の気配。


 でも、それは不快じゃない。

 むしろ——

 懐かしい、に近い。


「……変なの」


 小さく呟いて、首を振る。


 お兄様は、たぶん、人じゃない。


 それは、もう、分かっている。


 あの夜。

 血の匂いと、沈黙と、ひれ伏す空気の中で。


 思い返してみれば、夜になると、お兄様だけではなく、お父様やお母様の姿を見ないことが多かった。食事の席にいないこともあれば、気づけば屋敷の気配そのものが薄くなっている夜もある。


 公爵家の仕事なのだと思っていた。けれど、いなくなるのは日が沈んでから。夜だけだった。


 抱いた疑問も私は胸の奥にしまった。


 この家の匂いが変わったのは、きっと、私を守るためだ。そう思うと、胸の奥が、少しだけ、温かくなった。


 抱いた疑問を問えば答えは返ってくるだろう。

 でも、その答えを知ってしまったら、

 何かが、はっきりしてしまう気がした。



 だから私は、蓋をする。


 疑問も、不安も、

 ここでは、必要ない。


 だって。


 この家は、

 私が安心して息をしていい場所だから。

 たとえ、それが檻だとしても。




 夜は、部屋の輪郭を曖昧にする。


 昼のあいだは窓の外の色で時間を測れるのに、灯りを落とすと、世界はただ同じ濃さのまま続いているように見えた。寝台の天蓋も、壁の刺繍も、机の角も――見慣れたはずなのに、闇の中ではどれも少しだけ“よそよそしい”。


 それでも私は、眠っていた。眠れるようになっていた。


 二週間の深い眠りのあと、目を覚ましては沈み、沈んでは目を覚まし、そうやって身体がゆっくり現実へ戻ってきた。胸の痛みも、息を吸うたびに鈍く主張するけれど、もう、世界がひっくり返るほどではない。


 ……はずだった。


 ふいに、夢の底から引き上げられる。


 喉の奥がひりついて、息が短くなる。目を開けるより先に、胸の奥がぎゅっと固まって、身体が勝手に身を縮めた。


 怖い、というより先に、“終わっていない”という感覚が来る。


 夜会場の眩しさと、噴水の音と、赤い花が咲くみたいに広がった血。笑う声。嘲る声。刃の冷たさ。――そして、あの手袋が外れた瞬間の、空気の変化。


 私は反射的に胸元へ手を伸ばして、包帯の下を確かめる。


 そこにある硬さに触れた瞬間、遅れて鈍い痛みが返ってきて、息がつまった。


「……っ」


 声が漏れそうになって、唇を噛む。


 泣きたくないのに、胸の奥が勝手に震えた。怖いのではなく、ただ、身体が“覚えている”のだ。あの夜のことを。刃が入った瞬間の熱を。血が流れたときの、甘いような匂いを。


 私は布団の端を握りしめたまま、目を凝らす。


 部屋は暗い。なのに、ひどく鮮明に感じる。


 ――鍵。


 鍵のかかった場所。この場所は安全だ。窓も扉も、きっと閉じている。外の気配は遠い。ここには、私しかいない。……本当は、違うけれど。


 その証拠に。


 扉の向こうの気配が、最初から消えていなかった。


 静かな足音が近づく気配も、扉の蝶番が鳴るかすかな音もない。ただ、ある瞬間、部屋の空気に“別の密度”が混じる。


 私は、分かってしまう。


「……ルカお兄様」


 自分で呼んだ声の、小ささに驚いた。夜の静けさに吸われて消えてしまいそうなのに、次の瞬間、その声を拾うように返事が落ちてくる。


「起きたの?」


 低くて、柔らかい。


 寝台の縁が、ほんの少し沈む。布が擦れる音、外套ではない、屋敷用の服の気配。闇の中でも、彼の赤い瞳だけは、はっきりと分かった。


「……悪い夢?」


 そう問われて、私はうまく頷けなかった。頷いたら、それが“本当”になってしまう気がした。夢ではなく、現実だったのだと、自分に認めさせるみたいで。


 お兄様は、答えを急かさない。


 代わりに、私の手を探すみたいに、ゆっくりと指先を滑らせた。


 私は布団の端を握りしめていたのに、その指がほどかれて、そっと包まれる。


 あたたかい。


 それだけで、胸の奥の冷たいものが一段ほど溶けた気がした。


「痛む?」


 そう言われて、私はようやく小さく息を吐く。


「……少しだけ。胸が……」


 言い終えた途端、恥ずかしさが遅れてきた。刺された場所の話なんて、口に出すだけで現実に引き戻される。けれど、お兄様の手は離れない。


「見せて」


 命令ではなかった。お願いでもなかった。ただ当然のように言われて、私は迷ったのに、結局、頷いてしまう。


 寝間着の襟元をほんの少しだけずらす。包帯が見える程度。それでも心臓が跳ねたのは、痛みのせいじゃない。


 お兄様の視線が、そこに落ちる。


 闇の中でも分かるくらい、瞳の色が深くなる。


 ――いやだ。


 何が、とは言えない。でも、今その目で見られるのが、怖い。怖いのに、目を逸らしたくない。


「……痕が」


 独り言みたいな声。


 指先が、包帯の上をかすめる。触れたというより、確かめたというより、――撫でた、と言うほうが近い。


 ぞくり、と背中が震えた。


「痛い?」


「いえ……」


 痛いはずなのに、違う場所が熱い。胸ではなく、喉の奥。耳の裏。頬。


 お兄様は、ふっと息を吐く。


 それが、ため息に似ていた。


「……ごめん」


 何に対する謝罪なのか分からなくて、私は咄嗟に首を振った。


「謝らないでください。あの日、私を救ってくれたのはルカお兄様です。」


 口にした瞬間、胸がきゅっとなる。助けられた。守られた。そう言うと、あの夜の“地獄”まで肯定してしまう気がした。でも私は、否定できなかった。だって――あの腕の中は、たしかに安全だったから。


 お兄様は、私の頬に触れた。


 親指が、涙の跡を探すみたいに、ほんの少しだけ肌をなぞる。


「……泣いた?」


「……わかりません」


 本当は、泣いたのかもしれない。眠っている間に、夢の中で。声を出せない場所で。誰にも見られない場所で。


 その答えに、お兄様の瞳が一瞬だけ揺れた。


 そして、次の瞬間――


 彼は、私を引き寄せた。


 抱きしめる、というより、囲う。


 逃げ道を残さないほど強くはないのに、離れるという選択肢が最初から存在しないみたいに、自然に、当然に、私を自分の胸の内側へしまい込む。


 私の頬が、彼の肩に触れる。


 彼の体温と、夜の匂いと、鉄の気配。あの“家の匂い”の正体が、ここに全部ある気がした。


「……君は、いつも1人きりで泣く

 夜が、怖いの…?」


 耳元に落ちてくる声は、甘い。だけど、甘いだけじゃない。底に何か、硬いものが沈んでいる。


 私は、正直に言った。


「……怖いです。でも」


 でも、が続かなかった。


 言葉にしてしまえば、この箱庭が割れる。私はそれを、もう知っている。


 けれどお兄様は、続きを待たなかった。


「俺がいるよ」


 囁くように言い切って、首筋に息が落ちる。


 その一瞬、私は息を止めた。


 ――ここ。


 首の付け根。薄い皮膚。脈。温度。


 触れられたわけじゃないのに、そこだけが鮮明になる。身体の奥が、甘い熱を持ってざわめく。怖い、が来る前に、違う感覚が来る。


「……っ」


 小さく震えた私に気づいたのか、お兄様が低く笑った。


「もしかして、緊張している?」


 からかうようなのに、声は優しい。


「……してません」


 嘘だった。心臓が、ずっと早い。


「してるよ」


 即答されて、私は言い返せなくなる。


 彼の指が、私の顎をほんの少しだけ持ち上げた。顔が近い。赤い瞳が、夜の中で濡れて見える。


 ――この距離は、危ない。


 本能が、そう言っている。なのに私は、逃げようとしない。


「……大丈夫」


 それは、慰めの言葉のはずなのに、なぜか誓いみたいに聞こえた。


「怖いものは、俺が全部、遠ざける。君は、ここにいればいい」


 ここ、というのは場所のことじゃない。

 この腕の中のことだ。


 私は頷いてしまう。頷くことしかできない。


 そのとき、お兄様の視線が、ふと私の首筋に落ちた。


 ――見られている。


 さっきの夜会で感じた“視線”とは違う。値踏みでも、好奇でもない。もっと近くて、もっと深い。私の内側にまで届くみたいな視線。


 喉が鳴る。


 私のではない。


 お兄様の喉が、かすかに、音を立てた。


 一瞬、空気が張り詰める。


 彼の指が、私の髪を梳きながら、首の後ろの肌をかすめる。触れたところだけが、熱い。熱いのに、嫌じゃない。怖くない。


「……アリア」


 呼ばれた名が、甘くて、怖い。


「少しだけ……近くにいさせて」


 意味が分からないふりをすることもできた。聞き返すこともできた。けれど私は、何も言えなかった。口を開いたら、震える。


 お兄様が顔を寄せる。


 唇が触れたのは、肌ではなく、髪の生え際――首の上の、ぎりぎりのところだった。


 ほんの一瞬。


 でも、その一瞬で、私の中の何かがふわりとほどける。


 怖いはずなのに、世界が柔らかくなる。


「……俺は」


 お兄様が、そこで止まる。


 彼は自分の額を私のこめかみに押し当てて、深く息を吐いた。まるで、自分の中の衝動を押し戻すみたいに。


「……俺は、君を傷つけたくない」


 声が、ほんの少し掠れていた。


 私は、やっと言葉を見つける。


「お兄様は、私を守ってくれます」


 お兄様だけは絶対に守ってくれる。そう言った瞬間、胸の奥がじんとした。言葉の意味が、ただの優しさではなく、もっと大きなものに変わってしまう。


 お兄様の腕が、少しだけ強くなる。


 そして、私の耳元に低く落ちた。


「守るよ。……だから、俺を見ないで」


 さっきの夜会場で言ったのと、同じ言い方。

 でも、今のそれは、もっと弱かった。


 隠したいのだ。血生臭い部分を。自分が“人ではない”部分を。私の前だけでは、理想の兄でいたいのだ。


 私は、頷いた。


「見ません」


 嘘じゃない。私は見たくない。知りたくない。知ってしまえば、今のこの温度が壊れる。


 でも――心の奥で、もう一つの声がした。


 それでも、あなたが好き。


 口には出さない。まだ出せない。


 私は、彼の服を小さく掴んだ。


 昔の私は生き残りたくて、孤独と恐怖から逃れたくて、誰かの手を必死に掴んでいた。けれど今のこれは、恐怖からではない。安心したいから。離れたくないから。


 お兄様の身体が、ほんの少し硬くなる。


 それから、ゆっくりと撫でる手が、私の背中に落ちた。


 一定のリズム。夜泣きをあやすみたいな――あの夜の続きのような。


「……眠れる?」


「……はい」


 そう答えたのに、目を閉じるのが惜しかった。


 彼の気配が、ここにある。その事実だけで、私の中の恐怖が薄れていく。怖いはずの夜が、少しずつ、怖くなくなっていく。


 それが、きっと、いちばん危ない。


 でも私は、危なさに気づかないふりをした。


 だって、この腕の中は――


 どこよりも、優しい夜だったから。

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