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差し出されたその手を、私は信じた

 




「レオ……?」


 名前を呼んだ声に、彼ははっきりと笑った。


「大丈夫」


 ——違う。


 その“大丈夫”は、今まで聞いたものと、まったく違う。


「すぐ、分かるから」


 その瞬間。


 夜の空気が、完全に、こちら側を向いた。


「…あぁ……可哀想に」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 冷たい、というより。

 どこか、決めつけるような響き。


「どういう、意味……?」


 問いかけると、レオは肩をすくめた。


「そのままだよ。

 あんな家に閉じ込められて、飾られて」


 視線が、私のドレスをなぞる。


「守られてるつもりでいるみたいだけどさ。

 あれ、ただの檻だろ」


 胸が、ぴくりと跳ねた。


「……違う」


 思ったより、はっきり声が出た。


「お父様も、お母様も、私を大事にしてくれてる」


「はは」


 短く、乾いた笑い。


「本当にそう思ってる?」


 レオは一歩、距離を詰める。


「社交界に出すのも、着飾らせるのも、

 全部“価値があるから”だ」


「……」


「君自身じゃない。

 君が持ってる“もの”の話」


 その瞬間、胸の奥が、かすかに冷えた。


「そんな言い方……」


「現実だよ」


 被せるように言われて、言葉が途切れる。


 でも。


 次に続いた言葉で、私は、はっきりと分かった。


「特に、あの兄」


 声の温度が、変わる。


「気味が悪いくらいだ。お前をあんなに大事にして」


 ——だめ。


 それ以上、聞かせてはいけない。


「やめて」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。


「ルカお兄様を、そんなふうに言わないで」


 レオの目が、わずかに見開かれる。


「……ああ?」


 低く、地を這うような声。


「なんで、そこまで庇うんだよ」


「庇ってない」


 息が、少しだけ荒くなる。


「事実を言ってるだけ。あの人は私の大切な、家族だから」


 一拍。


 空気が、音を失った。


 レオの表情から、

 最後の“人の皮”が剥がれ落ちる。


「……あっそ」


 笑った。


 今までで一番、はっきりと。


「じゃあ、いい」


 次の瞬間。


 距離が、消えた。


 消えたのではない。下に落ちた。


 水音に紛れるような、かすかな金属音。

 噴水の縁に当たって、冷たく響く音。


 遅れて、理解する。


 ——ナイフ。


「……え?」


 問いかけるよりも先に、

 胸の奥に、熱が走った。


 最初は、痛みじゃなかった。


 じわり、と。

 内側から、燃えるみたいな感覚。


 まるで、身体の芯に火を落とされたみたいに。


 視線を落とす。


 淡いアイボリーのドレス。

 ルビーの装飾の間に——


 赤が、咲いていた。


 じわり。

 じわり、と。


 布が色を変えていく。


「……綺麗だろ」


 耳元で、囁かれる。


「稀血の色だ」


 燃えるような痛みが、ようやく現実として追いついてくる。


 レオは、私を見下ろしていた。


 さっきまでの歪んだ笑み。

 それが、完全に剥がれ落ちている。


 そこにあったのは、

 むき出しの——憎悪だった。



「……はは」


 低い、乾いた笑い。


「…甘い。甘すぎる。」


 喉が鳴る。

 彼の呼吸が、荒くなる。


「こんな、匂い……消えてしまえばいい……」


 空気がざわめき、甘い香りが溢れ出す。

 それは、隠されていたものが、一気に解き放たれる感覚だった。


 数多もの気配が、視線が一斉に向かってくる。


 レオが、嗤った。


「ほら」


 楽しそうに。


「みんな、気づいた」


 彼の声は、もう、隠そうともしていない。


「君のせいだよ」


 一歩、近づく。


「君みたいなのがいるから——」


 胸が、痛い。息が、苦しい。


 怖くなかったわけじゃない。

 痛くなかったわけでもない。

 それでも。私は、泣かなかった。


 私は、顔を上げた。


「……レオ」


 声は、震えていなかった。


 自分でも、驚くほど。


「……そんな顔、できるんだね」


 それを聞いた瞬間、

 レオの表情が、歪んだ。


「……最低」


 心臓の鼓動が聞こえる。


「黙れ」


 吐き捨てるような声。


「黙れ、お前らなんかに」


 ナイフを、握り直す。


「泣けよ」


 怒りに、混じった焦燥。


「苦しめよ」


 私は、泣かなかった。

 ゆっくりと、身体が後へと倒れる。冷たい床。広がる赤。視界の端で、人影が、ざわめいている。叫び声。足音。


 そして。


 ——ああ。


 来る。


 この匂いを、この血を。絶対に、見逃さない人が。最後に、私は思った。


 ——ルカお兄様。




 ——最初に動いたのは、空気だった。


 ざわめきが、悲鳴に変わる、その一瞬前。

 夜会場の奥、影の濃い場所から、冷たい圧が押し寄せた。


 足音は、ひとつ。


 それなのに、まるで大勢が一斉に息を止めたみたいに、ホールの音が、急激に削ぎ落とされる。


 身体が、先に理解する。血の匂いが、濃くなり、世界が一変していく。


 視界の端で、誰かが、崩れ落ちる。重く、冷たく、鋭い。息をすることそのものが、許されていないみたいな圧。


 膝をつく音。

 グラスが割れる音。


 そして。


 ——足音。


 ゆっくりと。

 確実に。


 この場の中心へ向かってくる足音。

 私は、分かった。

 考えるより先に、胸の奥が、安堵に近いものを覚えた。


 ——お兄様。


 赤い視界の向こうで、黒い影が立ち上がる。


 見慣れた外套。

 見慣れた背中。


 でも。


 今まで一度も見たことのない気配。


 そこにいたのは、

 私の知っている“ルカお兄様”ではなかった。


 人の形をしているだけの、

 もっと、古くて、深いもの。


「……触れたな」


 声は、低く。

 感情のない、水の底みたいな響きだった。


 レオが、喉を鳴らす音がした。


「は、はは……来たか」


 震えているのに、笑おうとしている。


「噂通りだよ……ヴァルシュタインの化け物」


 その言葉が、終わるより早く。

 距離が、消えた。

 次の瞬間、レオの身体が、床に叩き伏せられていた。


 音が、遅れて追いつく。

 悲鳴すら、上がらない。


「——許可した覚えはない」


 淡々とした声。


 片手で、レオの首を掴み上げている。

 まるで、壊れた人形を持ち上げるみたいに。


「俺のものに、刃を向けることを」


 赤い瞳が、静かに光る。


 怒りはない。

 激情もない。


 あるのは、断定だけだった。


「……っ、は……」


 レオの喉から、掠れた音が漏れる。


 ナイフが、床に落ちた。


 その刃先に、私の血が、まだ残っている。


 それを見た瞬間。


 空気が、さらに沈んだ。


 ——あ、だめだ。


 本能が、そう告げた。

 これは、止まらない。


 ルカお兄様が、ゆっくりと振り返る。


 その視線が、私を捉えた瞬間。


 すべてが、変わった。

 世界が、反転したみたいに。


「……アリア」


 その声だけが、今までと、同じだった。


 低くて、

 優しくて、

 壊れそうなくらい、必死で。


 私は、抱き上げられていた。

 血に濡れたドレスごと、壊れ物みたいに。


「見ないで」


 耳元で、囁かれる。


「君は知らなくていい」


 腕が、震えている。

 初めて感じるほど。


「俺が、全部、終わらせる」


 それは、約束でも、宣言でもなく。

 当然の前提だった。


 意識が、遠のく。


 最後に見えたのは。床に伏したまま、恐怖に歪んだ顔でこちらを見るレオと。


 その上に落ちる、

 影。


 ——ああ。


 私の世界は、最初から、こうなる運命だったのかもしれない。


 でも。


 この腕の中は、あたたかかった。


 だから私は、安心して、目を閉じた。




 ◇





 意識が、浮いたり沈んだりしていた。


 深い水の中にいるみたいに、音が歪んで聞こえる。

 遠くで、何かが落ちる音がした。

 ガラスが割れたのか、膝が床についたのか、分からない。


 ただ、空気が重い。


 息をするたびに、胸の奥がじくじくと痛んで、

 そのたびに、誰かの腕が、私を強く抱き寄せる。


 ——あたたかい。


 それだけが、はっきり分かった。




「……動くな」


 低い声。


 怒っているようには、聞こえなかった。

 苛立ちも、焦りもない。


 ただ、「決まっていること」を告げる声。




 視界の端で、影が揺れる。


 人の気配が、たくさんある。でも、誰一人として、立っていない気がした。


 ——ひれ伏している。


 そんな言葉が、頭の中に浮かぶ。




「……誰の許可で」


 声が、続く。


 淡々と。

 感情を削ぎ落としたまま。


「この子に、触れた」




 その一言で、空気が、さらに沈んだ。


 何かが、後ずさる音。

 押し殺した嗚咽。

 喉を鳴らす音。


 誰かが、泣いている。


「……っ、ち、違……息子は…」

「違う…アイツのせいで…姉上は…」

「…もうやめて…貴方まで狂わないで…」


 掠れた声が聞こえた。


 それが誰のものか、考える前に、その声は、途中で途切れた。



「……片付けろ」


 淡々とした声。


 それだけ。


 何を、どうするのか。

 説明は、一切ない。


 でも、誰も逆らわない。


 足音が、静かに動き出す。

 何かが引きずられる音。

 布が、床を擦る音。


 私は、ぎゅっと抱きしめられる。


 血の匂いと、外套の匂いが混じる。

 その中に、いつも知っている香りがあった。


 ——お兄様。



「お前たちも、わかったな」


 声は、変わらない。

 最初から最後まで、同じ温度。



「ああいう連中は、生かしておく理由もない」



 それ以上は、聞き取れなかった。


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。

 でも、怖くはなかった。



 だって。


 この腕の中だけは、

 どこよりも、安全だったから。


「……おやすみ、アリア」


 その声に、逆らう理由は、なかった。



『彼女が選ばなかった世界』

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