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懐かしい顔は、夜会に紛れて

 



 ホールの中央から離れた途端、ふっと肩の力が抜けた。


 まだ胸の奥が熱いままなのに、拍手や視線が遠ざかると、急に現実が戻ってくる。

 息を整えようとした、そのときだった。


「アリアちゃん!」


 明るい声とともに、ふわりと香りが近づく。


 振り向くよりも先に、両腕で包まれた。

 お母様が、目を輝かせたまま私を見つめている。


「とっても綺麗だったわ。ねえ、お父様?」


「あぁ。……驚いたよ」


 少し遅れて、お父様も歩み寄ってくる。

 その表情は穏やかだけれど、どこか緊張を含んでいた。


「デビュタントとは思えない。立派だ、アリア」


「そ、そんな……」


 褒められて、胸がくすぐったくなる。


 家族に囲まれているこの空間は、さっきまでのざわめきが嘘みたいに、やさしい。


「喉、乾いたでしょう?」


 お母様がそう言って、近くにいたウェイターに視線を向けた。


「この子に、軽いものを」


「かしこまりました」


 すぐに、淡い色の飲み物が差し出される。

 小さな花が浮かべられた、可愛らしいグラスだった。


「わ……」


「安心なものよ。果実を少しだけ」


 受け取って口をつけると、ほのかに甘くて、冷たい。


「美味しい……」


「でしょう?」


 お母様が満足そうに笑う。


 そのやりとりを、少し離れた位置から見ていたお兄様の視線が、ふと鋭くなった。


 気づいた瞬間、お兄様はお父様と短く目を交わす。


「……お母様」


 低く呼びかける声。


「少し、確認してくる。アリアを頼む」


「ええ。大丈夫よ」


 そう答えたお母様に向けて、お兄様は一歩近づいた。


 そして――


 人目も憚らず、私の額ではなく、髪にそっと唇を落とす。


「……すぐ戻る」


 耳元で囁かれた声に、心臓が跳ねる。


 見られている。

 たくさんの人が、確実に見ている。


 それなのに。


 何も言えなかった。


 ただ、頷くことしかできなかった。


 そのまま、お父様と並んで人混みの中へ消えていく背中を、ぼんやりと見送る。


「ふふ……」


 お母様が、どこか含みのある笑みを浮かべた。


「大事にされているのね、本当に」


「……はい」


 少し照れながら答えた。


「アリアちゃん、一息つきましょう。

 疲れたでしょう?」


 そう言って、壁際へと導かれる。


 音楽も、人の声も、少しだけ遠くなる場所。


 そのときだった。


 人の流れの向こうに、見覚えのある髪色を見つけた。


 ——オレンジ色。


 胸が、わずかに跳ねる。


 まさか、と思いながら、目を凝らす。


 そこに立っていたのは、確かに——レオだった。


 でも。


 学校で見ていた姿とは、まるで違う。


 仕立てのいい礼服。

 髪は整えられ、所作は洗練されている。


 笑顔も、あの頃の無邪気さではなく、

 どこか計算されたものに見えた。


「……え」


 思わず声が漏れたのだろう。


 お母様が、私の視線を追って、はっとする。


「あら……」


 小さく息を吸い、そして、すぐに表情を整えた。


「まあ、懐かしいわ」


 そう言って、向こうに立つ女性へ手を振る。

 上品なドレスをまとった伯爵夫人だった。


「お久しぶりです、夫人」


「リリアーナ様……!」


 夫人は、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「本当にお久しぶりね。変わらないわ」


「そちらこそ」


 ふたりは、短く挨拶を交わし合う。

 それから、お母様が、少しだけ誇らしげに私を見た。


「こちらが、私の娘のアリアよ」


 娘。


 その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「今夜が、デビュタントなの」


 そう言いながら、私の肩にそっと手を置く。


「とても可愛いでしょう?

 昔から大事に育ててきた子なのよ」


 伯爵夫人は、目を細めて私を見る。


「まあ……なんて綺麗なお嬢さん」


 その視線が、すぐ隣に立つ青年へと向く。


「こちらは、私の息子。伯爵家の跡取りです」


 そう言って紹介されたレオは、一歩前へ出て、優雅に一礼した。


「お初にお目にかかります。レオと申します」


 その声音は、低く落ち着いていて。学校で聞いていたものとは、まるで別人みたいだった。


 私は、少し戸惑いながらも、同じように礼を返す。


「……アリアです」


 そのとき。


 レオの視線が、一瞬だけ、私の手元に落ちた。


 白い手袋。


 ほんの一瞬。

 でも、確かに——見られた。


 彼はすぐに微笑みを作り、何事もなかったように続ける。


「素晴らしい夜ですね」


 その言葉に、私は小さく頷いた。


 それからしばらくは、穏やかな時間が流れていた。お母様と伯爵夫人は、昔話に花を咲かせている。庭園の改修のこと、社交界の顔ぶれの変化、互いの近況。どれも楽しそうで、聞いているだけで微笑ましくなる話題だった。


 私はその隣で、グラスを両手で持ちながら、相槌を打っていた。


「アリアちゃん、本当に落ち着いているわね

 初夜会だなんて信じられないわ」


 そう言われるたびに、曖昧に笑って頷く。


 けれど——

 胸の奥に、わずかな居心地の悪さが芽生えていた。


 理由は、はっきりしない。


 私は、無意識に白い手袋を見下ろした。


 ——外さないで。俺が、いいと言うまで。


 馬車の中で囁かれた声が、ふと脳裏をよぎる。その言葉が、なぜか今も胸の奥に残っていた。


「……?」


 考え込んだ、その瞬間だった。


 背後で、小さな衝撃音がした。


「——あっ」


 次の瞬間、冷たい感触が、手元に広がる。


 赤。


 深い色の液体が、白い手袋の甲に跳ねた。


「申し訳ございません!」


 慌てた声とともに、ウェイターが深く頭を下げる。どうやら、後ろを通った誰かとぶつかった拍子に、トレイが傾いたらしい。


 グラスは無事だった。

 けれど、手袋には、はっきりとした染みが残っている。


「あ……」


 思わず声が漏れる。


 大切にしていたものだった。今夜のために用意してもらった、特別な手袋。


 どうしよう、と言葉を探すよりも先に——


「気にしなくていい」


 低い声が、私の隣から落ちた。


 レオだった。


 彼は、穏やかな笑みを浮かべたまま、ウェイトレスに向き直る。


「誰にでも起こり得ることだ。下がって」


「で、ですが……!」


「いいから」


 柔らかいのに、有無を言わせない声音。


 ウェイトレスは一瞬戸惑い、それから深く頭を下げて去っていった。


 ——あれ?


 胸の奥で、ほんの小さな引っかかりが生まれる。でも、その違和感は、すぐに霧散した。


 事故だ。

 それだけのこと。


「これは……さすがに」


 困ったように笑って、彼は私の手袋を見下ろす。


「染みになっちゃうね」


「……あ」


「このままじゃ目立つし……洗った方がいい」


 指先が引かれ、半歩分、呼吸の距離が縮まった。


 先ほどまでとは違い、声は柔らかい。

 学校で聞いていた、あの調子に近い。


 知っている人。

 学校で話したことのある相手。


 それだけで、警戒心が、どこか緩んでしまう。お母様が“懐かしい”と言った顔が、頭に残っていた。


「向こうに、水場があるんだ」


「……分かりました」


 レオは満足そうに頷き、そっと歩き出す。私は、その隣に並んだ。


 背後で、リリアーナ様たちの声が、まだ聞こえている。ほんの少し席を外すだけ。そう思っていた。


 水場は、ホールから少し離れた回廊の奥にあった。


 楽団の音も、人の声も、ここまで来ると、ずいぶん遠い。


「ここなら、いい」


 レオはそう言って、私の手を離す。


 噴水の縁に、柔らかな光が落ちている。

 水音が、静かに響いていた。


「……せっかく綺麗なのに」


 手袋を見て、彼が言う。


「うん……」


「濡らせば、すぐ落ちるよ」


 そう言って、手袋の端に触れる。


 そして。


 迷いのない手つきで、私の指に掛かった布地を、外そうとした。


「あ――」


 声が出るより早く、手袋が、するりと抜ける。


 夜の空気に晒された、素肌。


 その瞬間――


 空気が、わずかに揺れた気がした。


 ほんの一瞬。

 冷たい夜気の中に、甘いものが混じったような、そんな錯覚。


 深く吸い込もうとする前に、それは、すぐに霧散してしまった。


 胸の奥が、ちくりと痛む。

 理由は、分からない。


 指輪だけが、素肌のまま残って、ひやりと光った。


 “何かが変わった”という感覚だけが、遅れて静かに追いついてくる。


「……これで」


 レオは、何事もなかったように言った。


「洗えば大丈夫」


 手袋を水に浸しながら、レオは一瞬だけ呼吸を止めた。


 ほんのわずかな間。けれど、彼の肩が微かに強張ったのを、私は見逃していた。赤い色が、ゆっくりと滲み出ていく。


「ねえ、アリア」


 ふいに、名前を呼ばれた。


「そのドレス、似合ってる」


「……ありがとう」


 素直に、そう答える。


「でもさ」


 声の調子が、少しだけ変わる。


「学校の時より、ずいぶん着飾ったよね」


 笑っているのに、目が笑っていない。


「……そう?」


「うん」


 レオは、こちらを見る。


「まるで、別の人みたいだ」


 その言葉に、胸の奥が、わずかにざわついた。


 水音が、やけに大きく聞こえる。


 ——まだ。

 このときの私は、まだ。


 水に浸された白い布地から、赤がゆっくりと溶け出していくのを、私はぼんやりと眺めていた。


 ほんの一瞬。

 でも、確かに。


 空気が、変わった。


 夜の空気が冷たくなったわけでもない。

 水音が止んだわけでもない。


 じわり、じわりと、胸の奥に熱が広がる。


 ——息が、少し、甘くなる。


「あ……」


 小さく声が漏れた。


 胸の奥が、ざわつく。


 まるで、ずっと閉じられていた窓が、わずかに開いたみたいな感覚。


 レオが、ぴくりと肩を揺らした。


 水へ伸ばしていた手が、止まる。


 噴水の音が、やけに遠くなる。


「……」


 彼は、ゆっくりと顔を上げた。


 さっきまでの穏やかな表情。

 学校で見たことのある、あの柔らかい顔。


 それが——

 ほんの一瞬で、別のものに塗り替えられる。


 目が、見開かれている。

 呼吸が、浅い。


 喉が、小さく鳴る音がした。


「……なに、これ」


 低く、掠れた声。


 問いかけるようでいて、誰に向けた言葉なのか分からない。


「レオ……?」


 名前を呼ぶと、彼は、はっとしたように私を見る。


 そして。


 次の瞬間。


 笑った。


 けれど、それは、さっきまでの“作られた微笑み”とは違っていた。


 口元だけが、歪む。

 目が、熱を帯びる。


「……そういう、ことか」


 納得したように、呟く。


 私は、理由も分からないまま、一歩後ずさった。


「どうしたの……?」


 問いかけた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。怖い、とは思わなかった。


「ねえ、アリア」


 彼は、ゆっくりと距離を詰めてくる。


 さっきまで感じていなかった圧が、じわじわと肌に触れてくる。


「君、自覚ないんだね」


「……なにが?」


 彼は、一度だけ喉を鳴らした。


「自分が、どんな匂いをしてるか」


 ——匂い?


 思わず、自分の手を見る。


 手袋のない、素の指先。

 左手だけに光る指輪。


 何も変わった気はしない。


 ただ、少し——

 胸が熱いだけ。


「……変なこと、言わないで」


 そう言うと、彼は低く笑った。


「変なのは、君のほうだよ」


 その笑い声は、もう、優しくなかった。


 水面に映る彼の瞳が、ぎらりと光る。


「こんな場所に、こんな匂いを撒き散らして」


 一歩、近づく。


 逃げなければと思うのに、身体は動かない。


「守られてるつもりだった?」


 声が、冷える。


「……可哀想に」


 その言葉に、胸の奥が初めて、ひやりとした。


 

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