鏡の中の私は、誰かのものみたいでした
煌びやかな音が、ホールいっぱいに広がった。
弦が震え、管が重なり、夜会の始まりを告げる合図のように、空気が一気に華やぐ。
さざめいていた人々の声が、自然と抑えられていく。
——ダンスの時間だ。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
視線を巡らせるよりも先に、ルカお兄様が一歩前へ出る。
迷いのない動きで、私の前に立った。
「行こうか」
差し出された手は、落ち着いていて、当然のようだった。
私は小さく頷き、その手に触れる。
手袋越しに手を重ねた。
指先から伝わる体温に、心臓が跳ねる。
そして、静かにホールの中央へと導かれていった。
周囲の視線が、集まっているのが分かる。
けれど、ルカお兄様は気に留める様子もなく、私だけを見ていた。
音楽が、ひときわ大きくなる。
「大丈夫だよ」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
「このダンスの主役は、君だ」
そう言われた瞬間、背中に添えられた手が、少しだけ強くなる。背中に伝わるその感覚に私は安心していた。
ステップを踏み出す。
教わった通りに足を運ぶ。
不思議と、身体が自然に動いていた。
彼の導きが、あまりにも滑らかだから。
視界の端で、周囲が流れていく。
シャンデリアの光、色とりどりのドレス、揺れる影。不思議と雑音は消えていた。
——まるで、私たちだけの世界に切り取られたみたい
音楽と、彼の呼吸と、私の鼓動だけが
確かにここにある。
「……綺麗」
誰かの、抑えきれない声が聞こえた。
ひとりではない。
あちこちから、息を呑む気配が広がっていく。
「公爵家の……」
「知らなかった……あんな娘が……」
「……ふたりとも美しいわ」
囁きは、音楽に溶けるように消えていく。
けれど、そのたびに、ルカお兄様の腕が、わずかに硬くなったのを感じた。
「……視線を、集めすぎ」
囁く声は、低く、穏やかで。
けれど、どこか不機嫌だ。
「ご、ごめんなさい……?」
思わずそう言うと、短く息を吐く気配がした。
「謝ることじゃない」
そう言いながら、私の手を取る力が、さらに確かなものになる。
「ただ……」
一拍。
「あんな目で見られるのは、好きじゃない」
その言葉に、胸が、どくりと鳴った。
「君は、そんなものに晒される必要はない」
視線が、絡む。
赤い瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
その奥にある感情を、まだ私は正確に言葉にできない。
けれど、守るって意味だけではなくて。
音楽は、まだ続いている。
この夜はまだまだ続いていく。
——次の瞬間、
彼はきっと、もっとはっきりと示す。
「俺のものだ」と。
ダンスが終わる。
音楽が静まり、拍手が起こるまでの、ほんの一瞬。
私は、まだ現実に戻れずにいた。
名残惜しそうに腕が解かれ、手が離れる。
それだけで、急に足元が心もとなくなる。
「……あ」
小さく息が漏れた、その瞬間だった。
ルカお兄様の手が、再び私を引き寄せる。
今度は、さっきよりもずっと近く。
逃げ場のない距離で、肩を抱かれた。
ざわり、と周囲の空気が揺れる。
「少し、離れすぎ」
低い声。
私に向けられたものなのに、周囲へ牽制するような響き。
「でも……もう、ダンスは——」
「終わったからこそ、だよ」
囁くように言って、私の位置をわずかに調整する。
自然な動作なのに、誰の目にもはっきり分かる形で。
——彼の腕の中。
あからさまな距離感に、周囲の視線が一斉に集まる。
さっきまでの称賛とは違う。
驚きと、理解と、そして察し。
「……なるほど」
「そういうことか」
「公爵家は、やはり——」
囁きが、波のように広がっていく。
私は、どうしていいか分からず、ただ彼を見上げた。
「お兄様……?」
呼びかけると、赤い瞳がこちらを向く。
さっきまでの甘さは、そのままに。
けれど、その奥にあるものは、はっきりと違っていた。
「不安そうな顔をしないで」
親指が、手袋越しに、私の手の甲をなぞる。
「君は、何も間違ってない」
そう言って、少しだけ口元を緩める。
「ただ——」
一拍。
「今夜は、俺のそばにいて」
それは命令でも、お願いでもなく。
当然の前提みたいな言い方だった。
私は、言葉を失ったまま、小さく頷く。
その仕草を見て、彼の腕に込められる力が、ほんの少しだけ強まった。
——示されたのだ。
守るため、でも。
隠すため、でも。
それ以上に。
「奪わせない」という意思を。
私はまだ、それを“異常”だとは思わなかった。
ただ——
胸の奥が、じんわりと熱くなって。
「……はい」
そう答える自分が、そこにいた。
この夜が、
ゆっくりと、地獄へ向かって転がり始めていることを。
私は、まだ知らない。




