表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/36

祝福の輪の外で

 



 ノックの音がした。


「……アリア」


 その声を聞いた瞬間、胸が、きゅっと縮む。


 扉の前に立っていたのは、お兄様だった。


 黒いローブに身を包み、肩に落ちる髪はいつもより整えられている。

 赤い瞳だけが、やけに鮮やかに映えた。


 ——一瞬、言葉を失う。


 知っている顔のはずなのに。

 毎日見ているはずなのに。


 今日は、違う。


 どうしてか分からないけれど、視線を向けられただけで、心臓が一拍遅れて跳ねた。


「……ルカお兄様?」


 間の抜けた声が出てしまう。


 お兄様は、そんな私を見て、ほんのわずかに目を細めた。


「迎えに来た」


 それだけの言葉なのに、声はいつもより低く、柔らかい。


 視線が、ゆっくりと私の姿をなぞる。


 淡いアイボリーのドレス。

 繊細で品のある金糸の刺繍は、お兄様の装いとさりげなく揃えられている。

 ところどころに散りばめられたルビーの装飾が、動くたびに小さな紅をきらめかせ、ドレス全体に命を与えていた。


 背中まで伸びた桃色の髪は丁寧に編み上げられ、小さなティアラがそっと乗せられている。


 ——見られている。


 そう意識した瞬間、頬が熱くなった。


「……綺麗だ」


 低く、噛み締めるような声。

 まるで、その言葉を自分の中で確かめているみたいだった。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 褒められることには、もう慣れているはずなのに。

 使用人たちにも、鏡の中の自分にも。


 でも。


 この人に言われると、どうしてこんなに落ち着かなくなるのだろう。


「い、言い過ぎです……」


 視線を逸らすと、小さく笑う気配がした。


「事実だよ」


 否定の余地を与えない声。


 そのまま、手が差し出される。


「行こう、アリア」


 その手を取った瞬間、指先から伝わる体温に、息が詰まりそうになった。


 ——大丈夫。


 そう思ったのに、心臓の音は、まるで言うことを聞いてくれなかった。


 ⸻


 廊下へ出ると、すでに両親の姿があった。


 お母様は、いつも好んでいる紫のドレスではなく、夜会用の深い藍色を纏っている。

 髪も丁寧に整えられ、宝石の輝きが、静かに揺れていた。


 お父様もまた正装に身を包み、普段よりもずっと引き締まった表情をしている。


 ——ああ、今日は特別な夜なんだ。


「よく似合っているよ、アリア」


 そう言って微笑むお母様の声は、いつもと変わらず優しい。


「緊張していないかい?」


「だ、大丈夫です」


 本当は、少しだけ心臓がうるさいけれど。

 でも、それ以上に。


「……楽しみです」


 そう答えると、両親は一瞬だけ視線を交わした。


 ほんのわずかな沈黙。

 けれどすぐに、お父様は穏やかに頷く。


「そうだね。今日は、君の大切な夜だ」


 その言葉を背中に受けながら、私はお兄様の隣に立つ。


 差し出された腕に、そっと手を掛ける。


 ——ルカお兄様と一緒なら、怖くない。


 そう思えたことが、何よりも嬉しかった。


 夜会へ向かう馬車は、静かに動き出す。


 私はまだ知らない。

 この夜が、二度と戻れない境界線になることを。


 ⸻


 馬車は、ゆっくりと屋敷を離れていった。


 車輪が石畳を踏む音が、一定のリズムを刻む。

 揺れは穏やかで、外の喧騒はもう遠い。


 私は、向かいに座るお兄様を、ちらりと盗み見た。


 暗い車内でも、赤い瞳ははっきりと分かる。

 外套の影に縁取られた横顔は、どこか静かで——そして、張りつめているようにも見えた。


 さっきまで感じていた胸の高鳴りが、

 少しずつ、別の種類の緊張に変わっていく。


 沈黙が、続く。


 気まずいわけじゃない。

 ただ、言葉を挟むには、この空気が近すぎた。


「アリア……少し、いいかな」


 低く、近い声。


「は、はい」


 返事をすると、

 お兄様は外套の内側に手を入れた。


 何かを探すような仕草。

 それが、なぜだか妙に丁寧で。


「これを」


 差し出されたのは、白い布地だった。


 柔らかく、上質そうな手袋。

 指先まできちんと形が整えられていて、淡く光を含んでいる。


「……手袋?」


「ああ」


 彼はそれを、私の手に重ねる。


「今夜は、人が多い。

 余計な視線も、余計な距離も」


 低く落ち着いた声でそう言って、

 お兄様は私の指先に触れた。


 一本ずつ。

 確かめるように、ゆっくりと。


 手袋が指を覆っていくたび、

 胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。


 布越しなのに、

 触れられている感覚だけが、妙に鮮明だった。


「……絶対に外さないで」


 視線は、私の手元に落とされたまま。


「今夜は――俺以外に、触れさせるつもりはないから」


 息が、止まる。


「え……?」


 思わず顔を上げると、

 赤い瞳が、すぐ近くにあった。


 冗談めかした笑み。

 でも、その奥にあるものは、笑っていない。


「人が多い場所は、苦手だろ」


 責めるでもなく、諭すでもなく。

 ただ、当然のことのように。


「俺が、全部受け止める。

 だから、余計なものに触れられなくていい」


 最後に、

 手袋越しに、ぎゅっと手を包まれる。


「……お守りみたいなものだと思って」


 声は低く、

 どこか、静かな独占欲を含んでいた。


「絶対に外さないで。

 俺が、いいと言うまで」


 命令の形なのに、

 拒む余地は、不思議と感じなかった。


「……はい」


 小さく頷くと、

 彼は満足そうに、ほんの少しだけ目を細める。


 手袋越しでも、

 体温は、はっきり伝わってくる。


「緊張してる?」


 ふっと、からかうような声音。


「顔に出てる」


「そ、そんなこと……」


「あるよ」


 即答だった。


「でも――」


 彼は、私の手を離さない。


「そのままでいい。

 今夜は、俺が隣にいる」


 馬車の揺れの中で、

 その言葉だけが、やけに静かに胸に落ちた。 


「アリア」


 名を呼ばれるだけで、背筋が自然と伸びる。

 そして、手袋に包まれた指先を、そっと持ち上げられる。


 何をされるのか分かる前に——


 唇が、触れた。


 布越しに感じる、かすかな温度。

 その一瞬が、やけに長く感じられた。


 心臓が、大きく跳ねる。


「……今夜は」


 低く、近い声。


「俺のものだって、忘れないで」


 冗談めかした言い方なのに、

 否定する余地は、どこにもなかった。


 顔が、熱い。

 言葉が、出てこない。


 ⸻


 馬車が、ゆっくりと減速した。


 外から、ざわめきが流れ込んでくる。

 人の声、楽団の調律、夜会特有の華やいだ空気。


 胸の奥が、きゅっと締まる。


 お兄様は窓の外を一度だけ確かめると、こちらへ視線を戻した。


 馬車の扉が開かれる。


 外気が、ふわりと流れ込んだ。

 夜の冷たさと、甘い香りが混じった空気。


 お兄様が先に降り、そのまま、私の方へ手を差し出す。


「足元、気をつけて」


 いつもより、少しだけ低い声。


 私は、その手にそっと指を重ねた。

 手袋越しに伝わる体温が、はっきり分かる。


 ドレスの裾を持ち上げながら馬車の外に一歩踏み出すと、石畳の感触が足裏に伝わる。

 まだ建物の外。

 正面玄関へ続く回廊には人影もまばらで、ざわめきは壁越しに滲む程度だった。


 高い位置の窓から、シャンデリアの光がこぼれている。

 金色の光が夜の空気に溶けて、ここが“特別な場所”であることだけを静かに主張していた。


 ここが、夜会。

 私が、社交界に出る場所。


 胸の奥が、また少しだけ強く鳴る。


 並んで歩き出すと、

 屋敷の正面扉が、ゆっくりと近づいてくる。


 まだ、静かだ。

 人の声も、抑えられている。


 それなのに。


「……やっぱり、緊張しているね」


 不意に、囁くような声。


 隣を見ると、

 ルカお兄様が、こちらを見下ろしていた。


 からかうようでいて、

 でも、目は真剣だった。


「……分かりますか」


「分かるよ」


 即答だった。


「手が、少し硬い」


 言われて初めて、

 自分が無意識に力を入れていたことに気づく。


「……すみません」


「謝らなくていい」


 そう言って、

 指先に、ほんの少し力を込められた。


「大丈夫だよ」


 短い言葉。

 でも、不思議と胸に落ちる。


「誰が何を見ようと、言おうと」


 扉の前で、足を止めて。


「俺の隣にいればいい」


 その声音は、

 優しくて、静かで、

 でも、揺るぎがなかった。


 私は、小さく頷いた。


「……はい」


 その返事に、

 満足したように、ほんの一瞬だけ目を細める。


 次の瞬間。


 扉が、開かれた。


 ——光が、溢れ出す。


 いくつものシャンデリアが輝き、

 楽団の音が、一斉に広がる。


 そして。


 ざわり、と。


 空気が、音を立てて変わった。


 無数の視線が、

 一斉に、こちらへ向けられる。


 囁き声。

 驚き。

 息を呑む気配。


 ——見られている。


 そう意識した瞬間、

 心臓が、また跳ねた。


 けれど。


 隣にある体温が、

 そのすべてを、押し返す。


 ルカお兄様の腕が、自然に私を引き寄せる。


「行こう」


 低く、確かな声。


 私は、その腕に導かれるまま、

 光の中へ、一歩、足を踏み出した。


 それが、

 十五歳の夜の始まりだとも知らずに。



 扉の前に立つと、重厚な音を立てて開かれた。


 ——その瞬間。世界が、一気に広がった。


 眩い光。

 高く掲げられた無数のシャンデリア。

 反射する宝石、揺れるドレス、重なり合う香り。


 楽団の音が満ち、

 人の気配が、波のように押し寄せる。


 ざわ、と空気が震えた。


 視線が、集まる。


 最初は、お兄様に。

 次に、その腕にかかった——私へ。


 ささやき声が、あちこちで生まれる。


「……あの方が」

「ヴァルシュタイン公爵の……」

「深窓の……?」


 意味を持たない断片が、耳に届く。


 私は、反射的に少しだけ身を強張らせた。


 その瞬間。


 ルカお兄様の腕に、力が込められる。


 逃がさない、というよりも。

 支えるという感触。


「……顔を上げて」


 低く、穏やかな声。


「俺に合わせて歩けばいい」


 言われた通り、視線を上げる。


 真っ直ぐ前を見据える背中。

 迷いのない歩幅。


 ざわめきは、さらに大きくなる。


 それでも、

 ルカお兄様の歩調は変わらない。


 堂々と。

 当然のように。


 まるで、

 最初から、ここに立つことが決まっていたみたいに。


 その隣にいる自分を、どこか遠くで眺めているような感覚。


 ——鏡の中の私は、人形みたい。


 ふいに、そんな考えが浮かんだ。


 自分の意思で立っているはずなのに。

 歩いているはずなのに。


 この光景の中心にいるのは、

 私じゃない気がした。


 それでも。


 この夜が、

 まだ“始まったばかり”だということだけは、はっきりと分かっていた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ