祝福の輪の外で
ノックの音がした。
「……アリア」
その声を聞いた瞬間、胸が、きゅっと縮む。
扉の前に立っていたのは、お兄様だった。
黒いローブに身を包み、肩に落ちる髪はいつもより整えられている。
赤い瞳だけが、やけに鮮やかに映えた。
——一瞬、言葉を失う。
知っている顔のはずなのに。
毎日見ているはずなのに。
今日は、違う。
どうしてか分からないけれど、視線を向けられただけで、心臓が一拍遅れて跳ねた。
「……ルカお兄様?」
間の抜けた声が出てしまう。
お兄様は、そんな私を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「迎えに来た」
それだけの言葉なのに、声はいつもより低く、柔らかい。
視線が、ゆっくりと私の姿をなぞる。
淡いアイボリーのドレス。
繊細で品のある金糸の刺繍は、お兄様の装いとさりげなく揃えられている。
ところどころに散りばめられたルビーの装飾が、動くたびに小さな紅をきらめかせ、ドレス全体に命を与えていた。
背中まで伸びた桃色の髪は丁寧に編み上げられ、小さなティアラがそっと乗せられている。
——見られている。
そう意識した瞬間、頬が熱くなった。
「……綺麗だ」
低く、噛み締めるような声。
まるで、その言葉を自分の中で確かめているみたいだった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
褒められることには、もう慣れているはずなのに。
使用人たちにも、鏡の中の自分にも。
でも。
この人に言われると、どうしてこんなに落ち着かなくなるのだろう。
「い、言い過ぎです……」
視線を逸らすと、小さく笑う気配がした。
「事実だよ」
否定の余地を与えない声。
そのまま、手が差し出される。
「行こう、アリア」
その手を取った瞬間、指先から伝わる体温に、息が詰まりそうになった。
——大丈夫。
そう思ったのに、心臓の音は、まるで言うことを聞いてくれなかった。
⸻
廊下へ出ると、すでに両親の姿があった。
お母様は、いつも好んでいる紫のドレスではなく、夜会用の深い藍色を纏っている。
髪も丁寧に整えられ、宝石の輝きが、静かに揺れていた。
お父様もまた正装に身を包み、普段よりもずっと引き締まった表情をしている。
——ああ、今日は特別な夜なんだ。
「よく似合っているよ、アリア」
そう言って微笑むお母様の声は、いつもと変わらず優しい。
「緊張していないかい?」
「だ、大丈夫です」
本当は、少しだけ心臓がうるさいけれど。
でも、それ以上に。
「……楽しみです」
そう答えると、両親は一瞬だけ視線を交わした。
ほんのわずかな沈黙。
けれどすぐに、お父様は穏やかに頷く。
「そうだね。今日は、君の大切な夜だ」
その言葉を背中に受けながら、私はお兄様の隣に立つ。
差し出された腕に、そっと手を掛ける。
——ルカお兄様と一緒なら、怖くない。
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
夜会へ向かう馬車は、静かに動き出す。
私はまだ知らない。
この夜が、二度と戻れない境界線になることを。
⸻
馬車は、ゆっくりと屋敷を離れていった。
車輪が石畳を踏む音が、一定のリズムを刻む。
揺れは穏やかで、外の喧騒はもう遠い。
私は、向かいに座るお兄様を、ちらりと盗み見た。
暗い車内でも、赤い瞳ははっきりと分かる。
外套の影に縁取られた横顔は、どこか静かで——そして、張りつめているようにも見えた。
さっきまで感じていた胸の高鳴りが、
少しずつ、別の種類の緊張に変わっていく。
沈黙が、続く。
気まずいわけじゃない。
ただ、言葉を挟むには、この空気が近すぎた。
「アリア……少し、いいかな」
低く、近い声。
「は、はい」
返事をすると、
お兄様は外套の内側に手を入れた。
何かを探すような仕草。
それが、なぜだか妙に丁寧で。
「これを」
差し出されたのは、白い布地だった。
柔らかく、上質そうな手袋。
指先まできちんと形が整えられていて、淡く光を含んでいる。
「……手袋?」
「ああ」
彼はそれを、私の手に重ねる。
「今夜は、人が多い。
余計な視線も、余計な距離も」
低く落ち着いた声でそう言って、
お兄様は私の指先に触れた。
一本ずつ。
確かめるように、ゆっくりと。
手袋が指を覆っていくたび、
胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
布越しなのに、
触れられている感覚だけが、妙に鮮明だった。
「……絶対に外さないで」
視線は、私の手元に落とされたまま。
「今夜は――俺以外に、触れさせるつもりはないから」
息が、止まる。
「え……?」
思わず顔を上げると、
赤い瞳が、すぐ近くにあった。
冗談めかした笑み。
でも、その奥にあるものは、笑っていない。
「人が多い場所は、苦手だろ」
責めるでもなく、諭すでもなく。
ただ、当然のことのように。
「俺が、全部受け止める。
だから、余計なものに触れられなくていい」
最後に、
手袋越しに、ぎゅっと手を包まれる。
「……お守りみたいなものだと思って」
声は低く、
どこか、静かな独占欲を含んでいた。
「絶対に外さないで。
俺が、いいと言うまで」
命令の形なのに、
拒む余地は、不思議と感じなかった。
「……はい」
小さく頷くと、
彼は満足そうに、ほんの少しだけ目を細める。
手袋越しでも、
体温は、はっきり伝わってくる。
「緊張してる?」
ふっと、からかうような声音。
「顔に出てる」
「そ、そんなこと……」
「あるよ」
即答だった。
「でも――」
彼は、私の手を離さない。
「そのままでいい。
今夜は、俺が隣にいる」
馬車の揺れの中で、
その言葉だけが、やけに静かに胸に落ちた。
「アリア」
名を呼ばれるだけで、背筋が自然と伸びる。
そして、手袋に包まれた指先を、そっと持ち上げられる。
何をされるのか分かる前に——
唇が、触れた。
布越しに感じる、かすかな温度。
その一瞬が、やけに長く感じられた。
心臓が、大きく跳ねる。
「……今夜は」
低く、近い声。
「俺のものだって、忘れないで」
冗談めかした言い方なのに、
否定する余地は、どこにもなかった。
顔が、熱い。
言葉が、出てこない。
⸻
馬車が、ゆっくりと減速した。
外から、ざわめきが流れ込んでくる。
人の声、楽団の調律、夜会特有の華やいだ空気。
胸の奥が、きゅっと締まる。
お兄様は窓の外を一度だけ確かめると、こちらへ視線を戻した。
馬車の扉が開かれる。
外気が、ふわりと流れ込んだ。
夜の冷たさと、甘い香りが混じった空気。
お兄様が先に降り、そのまま、私の方へ手を差し出す。
「足元、気をつけて」
いつもより、少しだけ低い声。
私は、その手にそっと指を重ねた。
手袋越しに伝わる体温が、はっきり分かる。
ドレスの裾を持ち上げながら馬車の外に一歩踏み出すと、石畳の感触が足裏に伝わる。
まだ建物の外。
正面玄関へ続く回廊には人影もまばらで、ざわめきは壁越しに滲む程度だった。
高い位置の窓から、シャンデリアの光がこぼれている。
金色の光が夜の空気に溶けて、ここが“特別な場所”であることだけを静かに主張していた。
ここが、夜会。
私が、社交界に出る場所。
胸の奥が、また少しだけ強く鳴る。
並んで歩き出すと、
屋敷の正面扉が、ゆっくりと近づいてくる。
まだ、静かだ。
人の声も、抑えられている。
それなのに。
「……やっぱり、緊張しているね」
不意に、囁くような声。
隣を見ると、
ルカお兄様が、こちらを見下ろしていた。
からかうようでいて、
でも、目は真剣だった。
「……分かりますか」
「分かるよ」
即答だった。
「手が、少し硬い」
言われて初めて、
自分が無意識に力を入れていたことに気づく。
「……すみません」
「謝らなくていい」
そう言って、
指先に、ほんの少し力を込められた。
「大丈夫だよ」
短い言葉。
でも、不思議と胸に落ちる。
「誰が何を見ようと、言おうと」
扉の前で、足を止めて。
「俺の隣にいればいい」
その声音は、
優しくて、静かで、
でも、揺るぎがなかった。
私は、小さく頷いた。
「……はい」
その返事に、
満足したように、ほんの一瞬だけ目を細める。
次の瞬間。
扉が、開かれた。
——光が、溢れ出す。
いくつものシャンデリアが輝き、
楽団の音が、一斉に広がる。
そして。
ざわり、と。
空気が、音を立てて変わった。
無数の視線が、
一斉に、こちらへ向けられる。
囁き声。
驚き。
息を呑む気配。
——見られている。
そう意識した瞬間、
心臓が、また跳ねた。
けれど。
隣にある体温が、
そのすべてを、押し返す。
ルカお兄様の腕が、自然に私を引き寄せる。
「行こう」
低く、確かな声。
私は、その腕に導かれるまま、
光の中へ、一歩、足を踏み出した。
それが、
十五歳の夜の始まりだとも知らずに。
扉の前に立つと、重厚な音を立てて開かれた。
——その瞬間。世界が、一気に広がった。
眩い光。
高く掲げられた無数のシャンデリア。
反射する宝石、揺れるドレス、重なり合う香り。
楽団の音が満ち、
人の気配が、波のように押し寄せる。
ざわ、と空気が震えた。
視線が、集まる。
最初は、お兄様に。
次に、その腕にかかった——私へ。
ささやき声が、あちこちで生まれる。
「……あの方が」
「ヴァルシュタイン公爵の……」
「深窓の……?」
意味を持たない断片が、耳に届く。
私は、反射的に少しだけ身を強張らせた。
その瞬間。
ルカお兄様の腕に、力が込められる。
逃がさない、というよりも。
支えるという感触。
「……顔を上げて」
低く、穏やかな声。
「俺に合わせて歩けばいい」
言われた通り、視線を上げる。
真っ直ぐ前を見据える背中。
迷いのない歩幅。
ざわめきは、さらに大きくなる。
それでも、
ルカお兄様の歩調は変わらない。
堂々と。
当然のように。
まるで、
最初から、ここに立つことが決まっていたみたいに。
その隣にいる自分を、どこか遠くで眺めているような感覚。
——鏡の中の私は、人形みたい。
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
自分の意思で立っているはずなのに。
歩いているはずなのに。
この光景の中心にいるのは、
私じゃない気がした。
それでも。
この夜が、
まだ“始まったばかり”だということだけは、はっきりと分かっていた。




