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十五歳、光に包まれる夜の準備

 



 十五歳の誕生日が、もうすぐだった。


 朝から屋敷の中はどこか慌ただしく、使用人たちが行き交う足音まで、いつもより少し軽やかに聞こえる。

 私は窓辺に立ち、差し込む光の中で、くるりと一度だけ回ってみた。


 ドレスはまだ仮縫いだけれど、淡い色の布がふわりと揺れる。鏡の中の私は、少しだけ大人びて見えた。


「社交界、楽しみです」


 そう言うと、背後で控えていた侍女が、くすっと小さく笑った。


 ——楽しみじゃない理由が、見当たらなかった。


 だって、外に出られることよりも。

 夜会という華やかな場所よりも。


 ルカおお兄様様と、一緒に行ける。


 それだけで、胸がいっぱいになる。


 談話室では、お父様とお母様が向かい合って座っていた。

 紅茶の湯気が、静かに立ちのぼっている。


「アリア」


 お父様が、いつもより少しだけ慎重な声で呼ぶ。


「改めて、話しておきたいことがある」


 私は、背筋を伸ばして頷いた。


「今回のデビュタントだけれど……」


 言葉を選ぶように、一拍置いてから。


「正直に言えば、私たちは、君を社交界に出したくはなかった」


 一瞬、きょとんとする。


 お母様が、そっと微笑みながら続けた。


「危険だから、という理由だけじゃないの。

 あなたが、あまりにも大切だからよ」


 その声音は、柔らかくて、でも少しだけ切なかった。


「ヴァルシュタイン家は、もともと夜会に頻繁に顔を出す家ではないでしょう?」

「ええ。でも今回は……」


 お父様が、小さく息を吐く。


「人間界で“尊きお方”と呼ばれる方からの、正式な指名だ。断ることはできなかった」


 謝るような視線が、私に向けられる。


「ごめんね、アリア」


 その言葉に、私は思わず首を振った。


「大丈夫です」


 むしろ、嬉しかった。


「それに……ルカお兄様と一緒なら、怖くありません」


 そう言った瞬間、窓際に立っていたお兄様は、一瞬だけ言葉を失ったように視線を伏せた。

 すぐに、いつもの落ち着いた表情に戻るけれど、赤い瞳の奥が、わずかに揺れた気がした。


「……そう言われると、困るな」


 困っている、というよりも。

 どこか、嬉しさを噛みしめるような声だった。


「父上、母上。アリアに怖い思いをさせるつもりなんてありませんよ」


 そう言って、お兄様は私の隣へ来て、そっと手を伸ばす。触れられた指先から、体温が伝わってくる。


「アリア、当日は、絶対に俺のそばから離れないで。ダンスも、移動も……全部一緒だ」


 命令のようでいて、拒む余地のない言い方。

 けれど、その声音は、いつもよりもずっと柔らかい。


 視線を上げて、お兄様を見る。


「ルカお兄様と一緒なら、きっと楽しい夜になりますね」


 一瞬、空気が止まった。


 お兄様は、わずかに目を細めてから、私の手を取り、指先にそっと口づける。


「……本当に、可愛いことを言うな」


 低く、甘い声。


「そんなふうに思われているなら、なおさら」


 赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉える。


「アリア。

 俺が、全部守るから」


 その言葉が誓いみたいだ、なんて思う暇もなく。


「私……ダンスなんて、できません!」


 思わずそう口にしてから、少し遅れて恥ずかしさが込み上げてきた。

 お父様やお母様から社交界の話を聞いている間は、ずっと浮かれていたのに。

 いざ“踊る”となった途端、現実が押し寄せてきた気がする。


「足を踏んだらどうしようとか……順番も分からないし……」


 視線を落としながら言い訳を重ねると、お兄様は小さく息を吐いた。


「……そんな顔をされるとは思わなかったな」


 からかうようでもあり、どこか愛おしむようでもある声音。

 気づけば、距離が詰められていた。


「大丈夫だよ、アリア」


 低く、穏やかな声。


「社交界のダンスはね、上手さを競うものじゃない。

 大切なのは――相手に身を預けること」


 そう言って、お兄様は私の前に立つ。


「ほら。手を出して」


 差し出されたのは、慣れた動きの、迷いのない手。

 白い手袋に包まれた指先が、私を待っている。


 一瞬、ためらってから、そっと重ねる。


 触れた瞬間、指先から伝わる温度に、心臓が跳ねた。


「……力を抜いて」


 もう一方の手が、自然な動きで私の背に添えられる。


「ち、近くありませんか……?」


 そう言うと、お兄様はほんの少しだけ笑った。


「これくらいで驚いていたら、夜会では倒れるよ」


 からかうような口調なのに、声は甘い。


「でも安心して。全部リードするから」


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。


「アリアは、何も考えなくていい。

 俺の動きについてきて」


 音楽が流れるわけでもない静かな部屋で、ゆっくりと一歩踏み出す。導かれるままに足を動かすと、不思議なほど自然に身体がついていった。


「……ほら、できてる」


 耳元で囁かれて、思わず肩が跳ねる。


「で、できてますか……?」


「ああ、ちゃんと。ちゃんと俺の腕の中で」


 その言い方が、どうしてか胸に引っかかって。

 動悸が、さっきよりも速くなる。


 ……これ、運動不足のせい、ですよね


 そう思おうとするのに、心臓は全然、言うことを聞いてくれなかった。




 ⸻


 何日か経っても、私のダンスは、驚くほど上達しなかった。


 ステップを覚えても、次の瞬間には足がもつれる。音楽に合わせようとすれば、身体のほうが先に緊張してしまう。


「……だめです」


 鏡の前で、思わず声を上げた。


「私、やっぱり向いてません……!」


 スカートの裾を握ったまま、情けなくそう言うと、ルカお兄様は、少し意地悪そうに言った。


「向いてない、ね」


 咎めるでも、笑うでもない声音。


「なら――やり方を変えようか」


「え?」


 次の瞬間、背後から、そっと距離を詰められる。


 気づいたときには、私の背中に、ルカおお兄様様の胸が触れていた。


「……え、あの、お兄様……?」


「動くな。今から、身体で覚えさせる」


 低く囁かれ、腰に、確かな手のひらが添えられる。


「ほら。右。次、左」


 足運びに合わせて、支えるように、導くように、身体が動かされる。


 近い。

 近すぎる。


 背中越しに伝わる体温も、耳元で響く声も、全部が、はっきりしすぎていて。


「お兄様……!」


「焦らないで」


 そう言われても、

 心臓のほうが、まるで言うことをきかない。


 ステップを踏み損ねた、その瞬間だった。


「あっ――」


 身体が前に倒れる。


 転ぶ、と思った次の瞬間、腰を強く引き寄せられた。


「……危ないな」


 低く囁かれる声。


 しっかりと支えられて、私は、完全に腕の中に収まっていた。


 顔が、近い。

 あまりにも。


 息が、かかる距離。危ない、と思ったときには、腰の力がすっかり抜けていた。


 お兄様に寄りかかるように倒れた、そのとき。

 唇に、ほんの一瞬、柔らかいものが触れた――気がした。


「……っ!」


 驚いて顔を上げると、ルカおお兄様様と、視線がぶつかる。


 赤い瞳が、ほんのわずかに見開かれ、

 そして――


 耳が、少しだけ、赤い。


「……」


「……お兄様?」


 問いかけると、ルカお兄様は、ほんの一瞬、視線を逸らした。


「……気のせいだ」


 いつもより、少しだけ掠れた声。

 でも、腰に添えられた手は、離れない。


「続けるぞ。まだ終わりじゃない」


 そう言われて、

 私は、ただ頷くことしかできなかった。


 胸の奥が、どくどくと騒がしい。


 私、病気なのかも……お兄様に、こんな気持ちを抱くなんて、おかしいもの……




 ⸻


 あっという間に、

 デビュタントの日がやってきた。


 こんなにも準備が大変だなんて、正直、知らなかった。


 朝から私の部屋には、いつもより多くの使用人たちが集まっていて、目が合うたびに、頭を下げられる。


 今日だけは、別の誰かになったみたいだ。


「まずは香油を」

「こちらのクリームを使いましょう」

「少し冷たいですよ」


 次々と差し出される手に身を任せているうちに、髪には甘くやわらかな香りが移り、肌はしっとりと整えられていく。


 そのたびに、


「わあ……」


 と、間の抜けた声がこぼれてしまった。


 でも、本当に大変だったのは、そのあとだった。


「コルセットを締めますね」

「深呼吸してください」


 ぎゅっ、と。


 息が、止まるかと思った。


「……っ」


「大丈夫ですか? もう少しですよ」


 その「もう少し」が、なかなか終わらない。


 お腹の中身が全部出てしまいそうな感覚に、

 私は思わず、ベッドの縁を掴んだ。


「デビュタントって……こんなに苦しいんですね……」


「皆さま、そうおっしゃいますよ」


 使用人は慣れた様子で微笑むけれど、私はもう、半分泣きそうだった。


 その後も、休む間もなくメイクが始まる。


 頬に色をのせられ、睫毛を整えられ、

 唇に淡い光沢が与えられる。


 目を閉じている間、

「じっとしていてくださいね」

 と何度も言われた。


 やっと「終わりましたよ」と声をかけられて、

 恐る恐る、鏡の方を向く。


 ――そこにいたのは。


 一瞬、自分だと分からなかった。


 アイボリーのドレスは、柔らかな光を含んだ色で、胸元や裾に散りばめられた小さなルビーが、動くたびに、きらりと赤く瞬く。


 桃色の長い髪は丁寧に整えられ、いつもよりも艶やかに、背中へ流れていた。


 淡い色合いなのに、

 どこか強さを感じるのは――


 きっと、赤い宝石のせいだ。


 ――おお兄様様の瞳の色。


 そう思った瞬間、胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「……え」


 鏡の中の私は、

 知っている“私”と、少し違って見えた。


 ちゃんと笑っているのに、

 どこか、よそよそしい。


 まるで――

 誰かのものみたいで。


「アリア様、とてもお美しいです」


 私はもう一度、鏡の中の自分を見つめた。


 ドレスに包まれたこの姿で、

 今夜、社交界に出る。


 お兄様の隣に立って。


 胸の奥が、くすぐったくて、

 少しだけ、落ち着かない。


 でも――


「……楽しみ」


 小さく呟いた言葉は、

 誰にも聞かれないまま、

 鏡の中の私だけが、静かに受け取った。


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