それは、幸福
あの日。
ルカお兄様の気持ちを聞いて、きちんと話をしてからというもの、日々は、驚くほど静かに流れていた。
何かが変わった、というほど大きな変化はない。
けれど、何もかもが、少しだけ――整いすぎている。
以前に比べて、お兄様が学校へ迎えに来ることは減った。
代わりに、馬車は決まった時間に、必ず校門の外で待っている。
早すぎることも、遅れることもない。
まるで、最初からそう決まっていたみたいに。
私はそれに乗って、静かに屋敷へ帰る。
ただ、それだけの毎日。
生徒たちも、その光景にすっかり慣れていった。
最初は好奇心を含んでいた視線も、やがて「そういうもの」として受け流されるようになる。
不愉快な噂も、いつの間にか消えていた。
人の噂も七十五日、とはよく言ったもので、あれほどひそひそと囁かれていた言葉たちは、新しい話題に押し流されていった。
私は、また「普通の生徒」に戻った。
それが、少しだけ寂しくて、でも、胸の奥がほっとしているのも、確かだった。
誰にも見られず、誰にも詮索されず、ただ毎日を終えて帰るだけ。
——それで、いい。
そう思えるくらいには、私はこの生活に、すっかり慣れてしまっていた。
ある日の昼休み。
ミレイが、私の机に頬杖をついて言った。
「ねえ、アリア」
「なに?」
「その指輪、ほんとに綺麗よね。
前から思ってたけど、どこで買ったの?」
反射的に、左手を胸元へ引き寄せていた。
「……だめ」
「え?」
「これは、絶対に外しちゃいけないの」
思ったより強い声が出てしまって、ミレイは少しだけ目を丸くする。
「あ、ごめん……そんなに大事なものだったんだ」
「うん」
私は、そっと指輪に触れた。
ひんやりとした感触。それはもう、不安なときに確かめる“癖”になっている。
「私にとって、とても大事なお守りだから」
そう言うと、ミレイはふっと笑った。
「そっか。なら、納得」
それ以上、踏み込んでこなかった。
その距離感が、ありがたい。
「ねえ、それよりさ」
ミレイは声の調子を変える。
「今度、うちに泊まりに来ない?」
「泊まり?」
「そう。お母さんも、アリアに会いたいって言ってて。
ミートパイが得意なの。ほんとに美味しいのよ」
一瞬、心が揺れた。
友達の家に泊まる。
普通の十四歳なら、きっと当たり前のこと。
でも。
「……ごめんなさい」
私は、首を横に振った。
「家族が、心配するから」
「えー。そんなに厳しいの?」
「ううん、そうじゃなくて……」
少し考えて、言葉を探す。
「私がいないと、悲しむ人がいるから。
それが、嫌なの」
ミレイは、少し意外そうな顔をしたあと、
肩をすくめた。
「そっか。大事にされてるのね」
「うん」
迷いなく、頷いていた。
「その生活、窮屈じゃない?」
「……え?」
「だって、ずっと守られてる感じ」
私は、少し考えてから答える。
「家族が悲しむ方が、ずっと嫌よ」
それは、疑問ですらなかった。
⸻
あの日以来、レオとは、少し距離ができてしまった。
気まずい、というほどではない。
でも、以前みたいに自然に話すこともなくなって、
廊下ですれ違えば、軽く会釈を交わすだけ。
それ以上、言葉を交わすことはなかった。
私自身、どう接していいのか分からなかったし、
彼も、どこか踏み込まないようにしている気がした。
だから私は、それを「そういうもの」だと受け止めていた。
それでも、日常は続いていく。
授業を受けて、ミレイと並んで昼食をとって、
帰りの時間を待つ。
そんな、当たり前の放課後。
校門へ向かう廊下で、ミレイが明るく言った。
「アリア〜、一緒に校門まで行こ」
その声に応えようとして――
指先に、ちくりとした痛みが走った。
「……あ」
配られた紙を鞄にしまおうとして、紙の端で指を切ってしまったらしい。
赤い点が、じわりと滲む。
「血、出てる!」
ミレイが慌てて言う。
「大丈夫、これくらい……」
そう言いかけた、その時。
空気が、変わった。
すぐそばにいたレオが、ぴたりと動きを止めた。
顔色が、さっと変わる。
「……レオ?」
呼びかけても、返事がない。
視線が、私の指先に釘づけになっている。
呼吸が、わずかに乱れているのが分かった。
「レオ?」
もう一度呼ぶと、彼ははっとしたように顔を上げた。
「……ごめん」
笑おうとしたのだろう。
でも、その表情はどこか引きつっていた。
「急に、気分が……」
その瞬間。
背後から、強い気配が迫る。
次の瞬間、私の手首が、しっかりと掴まれていた。
「――行くよ」
低い声。
振り向くまでもなく分かる。
「ルカお兄様……?」
答えはない。
校内でお兄様を見たのは、初めてだった。いつもは校門で待っていてくれるのに。
有無を言わせない力で、私はそのまま引き寄せられた。気づけば、もう校門の外。いつの間にか、馬車の扉が開いている。
「え、ちょっ……」
抗議する暇もなく、手を引かれ、乗せられる。
扉が閉まる音。
外のざわめきが、遮断された。
「……怪我は?」
「え?」
「指」
お兄様の視線が、私の指先を捉える。
「あ、これ? ちょっと切っただけ……」
言い終わる前に、白い布が当てられた。
手際が、異様に早い。
「今日は、もう帰ろう」
「でも……」
「学校も、しばらく休んで」
その声には、反論を許さない響きがあった。
私は、何も言えなくなった。
馬車が、静かに走り出す。窓の外で、レオが立ち尽くしているのが、一瞬だけ見えた。
彼の目は、私ではなく――
兄を見ていた。
何かを、確信してしまったような目で。
その日から。
私は、学校へ行かなくなった。
理由は、誰にも説明されなかった。
私は反対しなかった。
家族が決めたことなら、それはきっと、正しいのだろうと思った。
ただ――
世界が、また一つ、静かに閉じた。
それが、十五歳の夜へ向かう、最後の穏やかな日々だったことを、私は、まだ知らない。




