選ばれなかった世界
それから数日。
学校での居心地は、少しずつ変わっていった。
前までは、ただの視線だったものが、最近は、はっきりと“話題”になっている気配を感じる。
廊下を歩けば、ひそひそと声が止む。
教室に入れば、空気が一瞬だけ張りつめる。
直接何かを言われるわけじゃない。
でも、視線の質が変わったのは、はっきり分かった。
「ねえ、アリア」
昼休み、ミレイが少し困った顔で声をかけてくる。
「最近さ……噂、聞いてる?」
「……噂?」
「うん。アリアって、どこかの貴族の娘なんじゃないか、って」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
この学校の生徒にとって貴族はあまりいい印象を持たれない。この世界は優しい人ばかりではない。強欲な人間も多いのだ。
「毎回、送迎が来るし」
「この前は、あんな綺麗なお兄さんが迎えに来てたし」
「体が弱いって話も、なんだか出来すぎてるって」
ミレイは、悪気のない声音だった。
ただ、周囲の空気を伝えようとしているだけ。
「変な意味じゃないよ。
でも……目立ってるのは、確か」
「……そう。うちはお父様が過保護なだけだよ」
それ以上、言葉が出なかった。
否定することも、肯定することもできない。
どちらも、本当じゃない気がして。
私は、無意識に左手の指輪に触れていた。
ひんやりとした感触が、指先に伝わる。
それだけで、胸の奥のざわめきが、少しだけ静まった。
——大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
でも、その日から、学校は少しだけ“息苦しい場所”になった。そんな中で。変わらず話しかけてくれたのが、レオだった。
「気にしなくていいよ」
放課後、教室を出たところで、そう言われる。
「噂なんて、すぐ別の話に流れるし」
「……ありがとう」
そう答えながら、私は、彼の顔をまじまじと見てしまった。
いつも通りの、柔らかい表情。
明るくて、気取らなくて。
でも、ふと。
「……ねえ、レオ」
「ん?」
「変なこと、聞いてもいい?」
彼は、少しだけ首を傾げた。
「私のお兄様って……変、かな」
一瞬、間があった。
レオは、笑うでもなく、真剣すぎる顔になるでもなく、ただ少し考えるような表情を浮かべた。
「……正直に言う?」
「うん」
「ちょっと、普通じゃない」
胸が、ひくりと揺れた。
「でもさ」
すぐに、続く。
「嫌な感じじゃない。
むしろ……怖いくらい、真っ直ぐだと思う」
「怖い?」
「うん。守るって決めたら、周り全部切り捨てられそうな感じ」
冗談めかした口調。
でも、その目は、どこか慎重だった。
「……人じゃないみたい「そんなはずはない!」………って言われるのも分かる」
その言葉に、胸の奥が、ひやりと冷える。食い気味に声をあげてしまった。
「レオ」
思わず、声が硬くなる。
「でもさ」
彼は、すぐに笑った。
「アリアを見てると、分かるよ」
「え?」
「ちゃんと、大切にされてるって。俺も姉さんのこととても大切だったから。でも、もしさ、お兄さんが嫌になったら」
胸が、きゅっとする。
「そのときは、俺を頼ってよ」
冗談めかした口調。
けれど、目は笑っていない。
「役に立つかは分からないけどさ。
放ってはおけないだろ」
その言葉に、胸の奥が、微かにざわめいた。
どうして、そんなことを言うのだろう。
「……ありがとう」
理由は分からないまま、
私はそう答えた。
レオと別れ、校門を出た瞬間
私の視界から、周囲の音がすっと消えた。
人の声も、ざわめきも、
誰かの視線も。
ただ、そこに立っている人だけが見える。
——ルカお兄様。
黒髪と赤い瞳。
人混みの中にあっても、埋もれることのない姿。
どうしてだろう。
あの人がいるだけで、胸の奥が落ち着く。
私は、自然と足を速めていた。
周囲がどうなっているのかは、よく分からない。
誰がこちらを見ているのかも、気にならなかった。
私の視界には、ルカお兄様だけがいた。
気づけば、足が速くなっている。
人の間を抜けることも、ぶつかりそうになることも構わず、ただ、まっすぐに。
「ルカお兄様」
名前を呼ぶと、赤い瞳が、まっすぐこちらを捉える。
その瞬間、胸の奥に張りついていた緊張が、すとんと落ちた。
「……遅かったな」
責めるような口調ではない。
けれど、どこか硬い声音。
「ごめんなさい。今日は少し、話が長くなって」
「そうか」
それだけ言って、並んで歩き出す。
私は気づいていなかった。
——私たちに、
どれだけ多くの視線が向けられているのか。
立ち止まる生徒。
ひそひそと囁き合う声。
無意識に距離を取る人影。
けれど、私の視界には、その横顔しか映っていなかった。
馬車に乗り込むと、扉が閉まり、外の世界が遮断される。途端に、
空気が変わった。
向かいに座るお兄様は、私を見ず、窓の外に視線を向けている。
——少し、不安そう。
そう感じたけれど、理由までは分からない。
「……学校は、どうだ」
低く、探るような声。
「楽しいです」
即座に、そう答えた。
友達ができたこと。
授業が思ったより穏やかなこと。
知らない世界を知れること。
全部、本当だった。
けれど。
お兄様の表情が、わずかに強張るのが分かった。
「……そうか」
その一言が、なぜだか、少しだけ遠く聞こえる。
私は、少し考えてから続けた。
「でも……」
言葉を選ぶ。
正直に言うなら、学校は、楽しい。
けれど——
「……たまに、疲れます」
その瞬間。
お兄様の指が、わずかに動いた。
「人が多くて、考えることも多くて……」
言葉にしながら、自分でも気づく。
「帰り道に、ルカお兄様の顔を見ると……」
視線を上げる。
「ほっとします」
その言葉に、馬車の空気が、ぴたりと止まった。 お兄様は、ゆっくりとこちらを見る。
赤い瞳が、
深く、深く私を映す。
「……そうか」
低い声。
「なら、無理に行く必要はないね」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「この世界は、煩わしい」
淡々とした口調。
けれど、その奥に、押し殺した感情が滲んでいる。
「君は……」
一瞬、言葉を探すような間。
「血の話じゃない」
そう前置いてから、続けられる。
「俺にとって、お前は、特別だ」
胸が、じんわりと温かくなる。
「妹として」
はっきりと、そう言われて。
「……家族として、だ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
——本当の妹みたいに。
そう思ってもらえている。
それが、ただただ嬉しくて。
「……はい」
自然と、笑みがこぼれる。
「私も……ルカお兄様の隣が、一番落ち着きます」
その言葉に。
兄の表情が、ほんの一瞬だけ、緩んだ。
「……そう言うと思った」
小さく、息を吐く。
「なら、それでいい」
低く、確信めいた声。
「俺が、守る」
それ以上、何も言わない。
でも。
その声音は、安心と同時に、どこか決意の色を帯びていた。
私は気づかない。
この一言が、お兄様の中で、
「手放さない理由」になったことを。
馬車は、静かに屋敷へ向かって走り出す。
私は、満たされた気持ちで窓の外を眺めていた。
——幸せだ。
守られていて。
大切にされていて。
血のつながりを越えて、家族だと思ってもらえている。その事実だけで、胸がいっぱいになる。
まだ、知らない。
この安心が、
やがて“甘い毒”になることを。
そして。
それを、自分から選んでいくことを。




