第二話 おじいちゃん、異世界で怒る
私は起き上がった。
地面は土で、周囲は森だった。
人工的なものは何も見当たらない。
だが、どこかおかしい。
周囲を見渡した。
目の前が暗い。
めまいがする。
……いや、病は気からだ。
七十二年間、一度も病気になったことがない。
風邪を引いたことすらないのが、私の自慢だ。
……でも、怖い。
目の前がぼやけてくる。
その時。
がさり、と音がした。
私は音のした方を振り向いた。
木々の間から、
黒い塊がゆっくりと姿を現した。
最初は大きな熊かと思った。
……いや、違う。
二本足で立ち上がったその魔物は、人間の倍近い背丈があった。
全身を覆う毛は黒く、肩から背中にかけて硬い棘のようなものが突き出している。
顔は狼に似ていたが、口は異様に大きく、上下に並ぶ牙がむき出しになっていた。
その後ろから、同じような魔物が次々と姿を現した。
怪物は低く唸り、前足のように長い腕を地面についた。
次の瞬間だ。
四本の手足を使って突進してきた。
太い爪が土をえぐり、木の根を踏み砕く。
私は思わず後ずさった。
怪物は手前で止まり、低く唸った。
――何だ……あれは。熊でも狼でもない。
こんな生き物、知らんぞ……誰か……美代子! なあ、美代子、助けに来てくれ!
妻の美代子は、家で寝ている頃だ。
いや、どうだろう。
私は背筋を伸ばし、目を瞑った。
そして、胸の前にぴたりと両手を合わせた。
「……正直に申し上げます。私は本来、神仏を信じません。先祖のお墓参りにも行きません。近くの神社のお参りに行ったこともありません。ふつつか者で御座います。ですが、これからは神社へお参りし、お賽銭も二千円お納めします。どうか、どうか、神様のご加護を」
私はそっと目を開けた。
助かったのか。
それだけが気になった。
――もっとも、神仏を信じる気にはならない。
私は奇妙な光景を目の当たりにした。
白馬に乗った人影が、木々の向こうから現れた。
銀色の鎧を身につけた、若い女性だった。
女性は、銀色の胸当てと肩当てを身につけ、濃紺の外套を羽織っていた。
腰には長剣を下げ、手には革の手袋。白馬が魔物たちの少し手前で止まった。
女性は馬から飛び降り、長剣を抜いた。
女性が踏み込む。
その踏み込みだけが見えなかった。
気づいた時には、魔物は斬られていた。
次の瞬間、一体が倒れ、
もう一体の体も崩れ落ちる。
私は目を凝らして見た。
動きは見える。
だが、踏み込む瞬間だけが分からない。
剣を振るうたび、
巨大な魔物の体が大きく揺れた。
五体ほど倒したところで、残った魔物たちは一斉に逃げ出した。
私はじっと女性を見ていた。
女性が私に歩み寄った。
「怪我はしておらぬか?」
その声は、穏やかだった。
私は少し冷静になった。
……何が何だか分からない。
それはそれとしてだ。
もう、我慢の限界だ。
「おい、小娘!」
女性は強い眼差しを向けてきた。
「なんじゃ、老いぼれ。おぬしは礼も言えぬのか!」
「礼の前に、言いたいことがある!」
――今日という今日は言う!!
「その言葉遣いはやめなさい!」
女性は少し戸惑った。
私は構わずに続けた。
「この状況は、何が何だか分からない。それより、君だ、君! 男のような言葉を使う。はしたないと思わんのかね? えっ!!」
女性は呆気にとられた。
私は腕を組んで、女性の顔を見た。
目を逸らすつもりはない。
――私の娘なら、引っぱたくところだ。
そういえば、歴女とかいうのがいたな。
石田三成やら織田信長が好きな若い女の子。
ああいうのに、影響されるわけか。
いかんな。戦国武将の口真似はいかん。
あの時代の女は、政略結婚の道具にされたこともある。
そんな時代を真似してどうする!
女性は尊いものだ。
しかし――大和撫子。
丁寧で美しい言葉遣いと立ち振る舞いを考えなければいかん。
ところで。
私は今、何をしているのだろう……。




