第2話 座礁船の墓場
小舟の底を叩く波の音が、不気味なほど重く、低くなった。
私を乗せた雇われの渡し船は、骸骨礁の境界を示す海上のブイの手前で、ピタリと櫂を止めた。水夫たちの顔は恐怖で青ざめ、額には冷や汗が光っている。
「……ここまでだ、お嬢さん。これ以上近づけば、俺たちの船まで潮に引きずり込まれて海の底だ」
「結構です。ありがとうございました」
私は手持ちの革トランクと、真鍮の観測具を詰め込んだ木箱を抱え、小舟の舳先に立った。
目の前に広がるのは、濃い霧に閉ざされた鉛色の海だった。
海面は鏡のように静まり返っているように見えて、ところどころに不自然な渦が巻き、海水が不規則に沸き立っている。複雑怪奇な潮流が、海底の鋭い岩礁と激突している証拠だ。
そして霧の裂け目から、その巨影が姿を現した。
「……大きい」
思わず声が漏れた。
海面から突き出た黒い岩礁の群れの中央に、巨大な黒い城のように聳え立つ船の残骸。
三十年前に座礁したとされる、旧帝国海軍の重装鉄甲艦『ガルガンチュア』。
全長百メートルを超える巨大な船体は、二つの巨大な暗礁の間に斜めに挟まり、まるで海の上に浮かぶ要塞のように威容を誇っていた。木造の外板は風化して苔むしているが、船骨を支える重厚な鉄のフレームは、三十年の怒涛に耐え抜き、今なお歪み一つ見せていない。
渡し守から渡されたロープを掴み、私は干潮で露出した岩肌へと飛び移った。
「おい、本当にいいのかよ! 戻るなら今だぞ!」
渡し守の叫び声が、霧の中に吸い込まれていく。
「お気をつけてお帰りください。潮が満ちる前に、南南西へ舵を取れば安全です」
私は振り返らずに手を振り、鉄甲船の舷側から垂れ下がっていた錆びた縄梯子に手をかけた。
一段、また一段。
冷え切った潮水が手袋を濡らし、鉄錆の赤い粉が掌につく。
息を切らしながら甲板へ這い上がると、そこには見渡す限りの沈黙と、風の音だけが支配する広大な甲板が広がっていた。
甲板のチーク材は白く洗い晒され、所々抜けていたが、足場を慎重に選べば十分に歩ける。
主砲の残骸、折れたマストの根元、引き裂かれた索具。
私はトランクを乾いた甲板の中央に置き、深呼吸をした。
肺を満たしたのは、腐敗の臭いではない。
外洋の、どこまでも澄み切った、強い潮と塩の匂いだった。
「……よし」
私は道具巻きを広げ、真鍮のコンパスを甲板の水平な板の上に据えた。
針が細かく震え、やがてピタリと北を指す。
「まずは、私の部屋の確保ね」
見捨てられた魔の暗礁。死者の船。
だが、確かな物理法則に従って風が吹き、潮が流れている限り、ここは決して死んだ場所ではない。
私の、新しい観測所だった。




