第1話 奪われた航海日誌
インクの染みた羊皮紙に、潮風で湿った指先を滑らせる。
「……計算が合わないわ、レナート」
大陸屈指の規模を誇る「アルベルティ大商船団」の本部執務室。窓の外には、夕陽を浴びて金色に波打つ港と、林立する巨大な帆船のマストが見下ろせている。
私の正面、豪奢な紫檀の机にふんぞり返った男——元婚約者であり、商団長の次男であるレナートは、退屈そうに金の指輪を回していた。
「またそれか、エルザ。お前は本当に可愛げがないな。数字、数字、数字……帳簿の端数などどうでもいいだろう。新航路の開拓は大成功、我が商団の株価は先月の倍だぞ」
「端数ではないわ。北回り第三航路の補給計算よ。あなたの提出した航海日誌では、季節風の反転を考慮せず、積載重量を二割水増ししている。このまま出航させれば、スカーラ沖の三角波に捕まって船体が耐えられない。最悪の場合、三隻とも沈むわ」
「黙れ!」
レナートは机を拳で叩いた。
苛立ちを隠そうともせず、彼は引き出しから一束の分厚い羊皮紙を取り出し、私の胸元へ叩きつけた。
「それはお前の古い頭で考えた計算だろう! 見ろ、これはシエラが書き直してくれた最新の航路図だ。余計な迂回を削り、日数を三日短縮できる。親父も幹部会も全員一致で承認した!」
シエラ。私の異母妹だ。
海図の読み方すら知らず、サロンで貴族たちの機嫌を取ることだけに長けた娘。その図面を一瞥しただけで、背筋に冷たいものが走った。海流の合流点を直線で突っ切る、素人の自殺航路だった。
「これを書いたのが誰であれ、海の物理を理解していない。絶対に船を出しては——」
「お前の意見など求めていない!」
レナートは立ち上がり、冷笑を浮かべた。
「エルザ・ヴァルト。貴様を商団の主任計数係から解任する。……ついでだ、お前との婚約も破棄させてもらうよ」
部屋の扉が開き、絹のドレスを着飾ったシエラが、勝ち誇った笑みを浮かべて入ってきた。彼女は当然のようにレナートの腕に絡みつく。
「お姉様、いつまでも自分が商団の頭脳気取りでいられると思ったら大間違いよ。レナート様を支えるのは、美しく社交界で顔の利く私だけで十分ですもの」
「……そう」
私は手元の航海日誌を胸に抱き直した。
怒りも、涙も湧かなかった。ただ、十年間、この商団の船が一隻も沈まないよう、夜を徹して潮流と星の位置を計算し続けてきた自分の時間が、あまりにも呆気なく、軽薄な虚栄の前に切り捨てられた事実を冷徹に受け止めていた。
「では、私は去ります。引き継ぎ書は——」
「去る? 誰が勝手に去っていいと言った?」
レナートの唇が、歪んだ形に吊り上がった。
「お前には新しい持ち場を用意してある。商団の重要機密を知りすぎた人間を、野放しにするわけにはいかないからな。……栄転だよ、エルザ。『骸骨礁』の監視所長だ」
骸骨礁。
その名を聞いた瞬間、私の呼吸がわずかに止まった。
大陸の航路図において、赤黒いインクで「航行絶対不能」と塗り潰された魔の海域。
無数の鋭利な隠れ根と、狂ったような多重複合潮流により、迷い込んだ船のすべてが座礁・沈没するとされる船の墓場。
「あそこに、三十年前に座礁した旧帝国海軍の超大型鉄甲船があるだろう。あそこを監視拠点とする。食糧は半年ごとに運んでやるよ……お前がそれまで生きていれば、だがな」
シエラが扇子の影でクスクスと笑った。
追放だ。死刑宣告に等しい厄介払い。
二人は私が取り乱し、泣き縋るのを期待して私の顔を見つめていた。
しかし、私は深く息を吸い、手挟んでいた真鍮の三角定規と針足を革の道具巻きに納めると、静かに一礼した。
「承知いたしました。骸骨礁の観測記録は、私の名義で作成いたします」
「……ふん、強がりを。せいぜい海の藻屑となるがいい!」
背後で鳴り響く嘲笑を背に、私は商団の扉を出た。
夕暮れの風が、港の潮の匂いを運んでくる。
私は懐から、擦り切れた自分専用の航海日誌を取り出した。
父から受け継ぎ、私自身が書き足してきた、海の真実を刻む帳面。
「……季節風の反転まで、あと二十日」
私は振り返らず、港へ向かう石段を降りた。
沈むのは私ではない。海を侮った、あなたたちの方だ。
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