第38話 大陸亀と小さなスライム
第38話 大陸亀と小さなスライム
異世界に来てから、何度も思ったことがある。
この世界は、広い。
王都で暮らしていると、つい忘れそうになるけれど、街の外には知らない景色がいくらでも広がっている。
昨日見た二重の虹だってそうだ。
あんなに綺麗なものが、何の前触れもなく空に現れる。
だから、旅は面白い。
そして今日も、僕は新しい発見をすることになった。
――ただし、そのせいでロイドに何度も怒られることになるのだけれど。
◇
「ユウト! 起きろ!」
「……あと五分」
「もう十分待った!」
肩を揺さぶられて、僕は目を開けた。
目の前にロイドの顔がある。
「おはよう……」
「おう。早く顔を洗ってこい」
僕たちは昨夜、街道沿いの小さな宿泊所に泊まっていた。
商人や冒険者が利用する場所で、寝台が並んだ共同部屋と、馬を休ませる厩舎がある。
豪華な宿ではないけれど、屋根があって、温かい食事が出る。
旅の途中なら、それだけで十分ありがたい。
僕が寝台から起き上がると、エナはすでに荷物をまとめ終えていた。
「おはよう、ユウト」
「おはよう。早いね」
「普通よ。ユウトが遅いの」
バルクは窓際で革袋の口を締めている。
「今日は少し長く進みたいからな」
「昨日の雨で遅れた分?」
「それもある」
ロイドが答えた。
「今日は丘陵地帯を越えて、森の手前まで行く。順調なら、明日にはベルクに着けるはずだ」
「おお!」
「だから寄り道はほどほどにな」
「分かってるよ!」
三人が同時にこちらを見た。
「……何?」
「いや」
ロイドが苦笑する。
「昨日も同じことを聞いた気がしてな」
失礼な。
昨日はたまたま二重の虹が出たから、少し長く立ち止まっただけなのに。
……少し、だったと思う。
◇
朝食を済ませ、僕たちは再び街道へ出た。
昨日の雨が嘘のように、空は晴れている。
馬車の車輪が乾き始めた土を踏み、規則正しい音を立てて進んでいく。
荷台には、ベルクの商業組合へ届ける三つの木箱。
中身は魔道具の精密部品だ。
僕たちの仕事は、これを無事に届けること。
だから、景色を見るのも撮影するのも、仕事に支障がない範囲で。
もちろん、それは理解している。
「……あっ」
僕は街道の先を見つめた。
「どうした?」
「いや、あそこに……」
道の向こう。
草原の一角に、何か大きなものが見えた。
最初は岩だと思った。
丸く盛り上がった灰色の塊。
その表面には、苔のような緑色の模様がある。
ところが。
その岩が、動いた。
「……え?」
僕は目をこすった。
岩の下から、太い脚が現れる。
続いて、長い首。
ゆっくりと持ち上がった頭が、草をむしゃむしゃと食べ始めた。
「亀!?」
思わず叫んでしまった。
しかも、ただの亀じゃない。
全長は五メートルくらいあるだろうか。
甲羅の高さだけでも、僕の背丈を軽く超えている。
「ロイド! あれ、亀だよね!?」
「ん? ああ。大陸亀だな」
「大陸亀!?」
「そうだが?」
ロイドは何でもないことのように答えた。
エナも草原へ目を向ける。
「あら、ずいぶん大きい個体ね」
「珍しいの!?」
「大きさは立派だけど、別に珍しい動物じゃないわよ」
「動物!?」
「そうよ。魔物じゃないわ」
僕はもう一度、巨大な亀を見た。
その大陸亀は、こちらにまったく興味を示していない。
のんびり首を伸ばし、草を食べている。
「……すごい」
あんな生き物が、普通に草原を歩いているのか。
僕は慌てて《動景記録》を開いた。
「ちょっと撮っていい!?」
「街道から離れるなよ」
「うん!」
馬車が安全に停められる場所まで進み、僕は道端から大陸亀を撮影した。
画面の向こうで、巨大な脚が持ち上がる。
ずしん。
ゆっくり地面に下ろされる。
ずしん。
その動きは驚くほど穏やかだった。
甲羅には細かな溝があり、ところどころに小さな草まで生えている。
長い年月をかけて、大地そのものが生き物になったみたいだ。
「ねえ、あの甲羅って、ずっと大きくなるの?」
「ある程度まではな」
バルクが答えた。
「長生きする動物だ。あれだけ大きいなら、かなりの年齢だろう」
「へえ……」
「草や木の葉を食べる。こちらからちょっかいを出さなければ、まず襲ってこない」
「じゃあ、近づいても?」
「近づく必要はないだろ」
ロイドに即答された。
「……そうだね」
僕は素直に引き下がった。
巨大な生き物だからこそ、無理に近づかない方がいい。
その代わり、撮影は続けた。
大陸亀が首を伸ばす。
背の高い草を口で引っ張る。
もぐもぐと噛む。
それから、ゆっくり一歩を踏み出す。
「……いいなあ」
「何が?」
エナが尋ねた。
「この亀、急いでないんだよ」
「亀だもの」
「そうなんだけどさ。なんか、見てると落ち着く」
僕の言葉に、エナが少し笑った。
「ユウトらしいわね」
そのとき。
大陸亀が、こちらへ顔を向けた。
「……あっ!」
僕は思わず画面を構え直した。
大きな瞳。
しわの刻まれた首。
その顔が、ゆっくりとこちらを向いている。
まるで、僕たちを眺めているみたいだった。
「こっち見た!」
「見たな」
「すごい! 目が合った!」
「そうだな」
「ロイド! 今の撮れた!」
「よかったな」
ロイドはにこりと笑った。
「じゃあ、行くぞ」
「えっ、もう?」
「十分見ただろ!」
「あとちょっと!」
「そのちょっとが長いんだよ!」
◇
結局、僕は大陸亀が再び草を食べ始めるまで撮影していた。
馬車に戻ると、エナが笑いながら言った。
「満足した?」
「うん!」
「よかったわね」
「大陸亀って、あんなに大きいのに優しそうな顔してるんだね」
「実際、おとなしいからね」
僕は撮影した映像を再生した。
巨大な亀が、ゆっくりと草原を歩いている。
ただそれだけ。
何か特別なことが起きるわけじゃない。
でも、見ていると不思議と飽きない。
「これ、投稿してみようかな」
「いいんじゃないか?」
ロイドが手綱を握りながら言った。
「ただ、街道の真ん中で止まって撮影してたわけじゃないって書いとけよ」
「分かってるって!」
僕は《掲示板》を開いた。
旅先で見つけた生き物の記録。
題名は――。
【草原で出会った大陸亀。とってものんびりしています】
説明文には、街道脇の安全な場所から撮影したことを添えた。
それから《動景記録》を投稿する。
すぐに何件か反応がついた。
【大陸亀だ!】
【うちの村の近くにもいるよ】
【甲羅に草が生えてるのがいいね】
【動くの遅いなあ】
【こうしてじっくり見ると可愛い】
【昔、畑に入り込まれて大変だった】
「……畑?」
僕は思わず声に出した。
「どうした?」
「大陸亀が畑に入ってきた人がいるって」
「ああ。たまにあるな」
バルクがうなずく。
「柵を壊すこともあるから、農家には厄介な相手だ」
「ええっ!?」
「悪気はないんだがな」
僕は画面の中の大陸亀を見つめた。
あんなにのんびりしているのに。
確かに、あの巨体で畑を歩かれたら大変だ。
【可愛いけど、農家にとっては困ることもあるんですね】
そう返信すると、
【そうそう。でも嫌いにはなれないんだよな】
という返事が届いた。
僕は思わず笑ってしまった。
同じ生き物でも、見る人によって印象が違う。
それも面白い。
◇
昼前になると、街道は緩やかな丘へ差しかかった。
道の両側には背の低い木々が増え、ところどころに大きな岩が転がっている。
昨日の雨で水たまりが残っている場所もあった。
「この辺りから少し気をつけろよ」
ロイドが言った。
「魔物が出ることもある」
「分かった」
僕は周囲を見回した。
草が揺れる。
小さな鳥が飛び立つ。
木の枝が風に鳴る。
そして。
ぽよん。
「……ん?」
何か、青いものが跳ねた。
僕は目を凝らした。
道端の草むら。
そこに、半透明の小さな塊がいる。
丸くて、柔らかそうで。
体の中に、向こう側の草が透けて見える。
ぽよん。
もう一度跳ねた。
「……スライム?」
思わずつぶやいた。
ロイドが横を見る。
「ああ、スライムだな」
「スライムだ!!」
「お、おう」
「本物のスライム!!」
僕は馬車の荷台から身を乗り出した。
「危ない!」
エナに服を引っ張られる。
「あっ、ごめん!」
慌てて座り直した。
でも、目はスライムから離せない。
青くて、小さくて、ぷるぷるしている。
ゲームで何度も見たことのある、あのスライムだ。
異世界に来てから魔物はいろいろ見てきた。
それでも、こうして草むらで跳ねている姿を見ると、なんだか嬉しくなる。
「ねえ、あれって魔物だよね!?」
「そうだぞ」
ロイドが答えた。
「弱い方だが、魔物は魔物だ。触るなよ」
「分かってる!」
スライムは草の間を移動していた。
ぽよん。
ぽよん。
跳ねるたびに体が少し縦に伸び、着地すると横に広がる。
それから、また丸くなる。
「……すごい」
「今度は何だ?」
「ちゃんと跳ねてる……」
「そりゃスライムだからな」
「いや、そうなんだけど!」
僕は笑いながら《動景記録》を開いた。
道の端から、少し離れたスライムに画面を向ける。
小さな青い体が、草の間を跳ねていく。
ぽよん。
ぽよん。
「……可愛い」
つい口にすると、ロイドがこちらを見た。
「可愛いか?」
「可愛くない?」
「俺は別に……」
「私はちょっと分かるかも」
エナが言った。
「小さいうちはね」
「だよね!」
「でも、荷物に入り込まれると厄介よ」
「えっ、入ってくるの?」
「食べ物を狙うこともあるから」
僕はスライムを見つめた。
あの小さな体で、食べ物を狙うのか。
なんだか想像すると面白い。
すると、草むらの奥からもう一匹現れた。
「あっ! 二匹目!」
少しだけ色が薄い。
水色に近い半透明の体だ。
二匹は互いに近づき――。
ぽよん。
ぽよん。
すれ違った。
「……それだけ?」
「何を期待してたんだ?」
ロイドが笑った。
「いや、なんか会話とか……」
「スライムだぞ」
「そうだけど!」
僕は二匹が草むらへ消えていくまで撮影した。
画面には、風に揺れる草と、小さく跳ねる青い体。
それだけの映像が残った。
でも、僕には十分だった。
◇
昼食の休憩中、僕はスライムの映像を《掲示板》へ投稿した。
【街道でスライムを見つけました! 跳ね方が可愛い!】
添えた文章は短い。
撮影した場所と、近づかずに観察したことを書いた。
そして、保存食のパンをかじりながら反応を待つ。
最初についたコメントは、
【スライムじゃん】
だった。
「……うん、スライムだよ」
思わずつぶやいてしまう。
次は、
【珍しくないよね?】
【うちの裏山にもいる】
【子供の頃によく見た】
という反応が続いた。
「……そうだよねえ」
僕は少し笑った。
この世界の人にとって、スライムは身近な魔物だ。
僕が思うほど、特別な存在じゃないのかもしれない。
ところが。
しばらくすると、妙に長いコメントが届いた。
【おお! これは良い記録ですね!】
「……ん?」
僕は続きを読んだ。
【最初の個体は青みが濃く、跳ねたあとの形の戻りが少し遅いですね。二匹目は体がやや透き通っていて、跳躍の間隔も短い。地域によってスライムの動きに違いがあるのですが、こうして連続して記録されている映像は観察しやすいです!】
「…………」
僕はパンを食べる手を止めた。
「どうした、ユウト?」
ロイドが尋ねる。
「……スライムに詳しい人がいる」
「そりゃいるだろ」
「いや、すごく詳しい」
僕はコメントを読み上げた。
エナが目を丸くする。
「へえ。そんな違いがあるのね」
バルクもうなずいた。
「普段は気にしたことがなかったな」
さらに返信が届いた。
【もしまたスライムを見かけたら、ぜひ記録してください! できれば横からの映像もあると嬉しいです!】
「……横から」
僕はつぶやいた。
なるほど。
観察する人にとっては、撮影する角度も大切なんだ。
僕は返信した。
【ありがとうございます! 次に見かけたら、周囲の安全を確認して撮影してみます!】
すると、すぐに返事が来た。
【楽しみにしています!】
その下には、別の人からのコメントも増えていた。
【スライム好きって結構いるんだな】
【この人、前にもスライムの話してた気がする】
【跳ね方の違いなんて考えたことなかった】
【なんか見てたら可愛く思えてきた】
そして、最後にこんなコメントがついた。
【スライム観察会って掲示板、作ってみませんか?】
「……観察会?」
僕は思わず声に出した。
「今度は何だ?」
ロイドが尋ねる。
「スライムの観察記録を集める掲示板があったら面白いんじゃないかって」
「へえ」
「いろんな地方のスライムを比べるんだって!」
「そんなこと考えるやつもいるんだな」
エナが笑う。
「でも、面白そうじゃない?」
「うん!」
僕はうなずいた。
スライムは、この世界ではありふれた魔物だ。
だからこそ、誰もじっくり見ていなかったのかもしれない。
でも、誰かが興味を持てば、ただのスライムだって観察の対象になる。
そして《動景記録》があれば、離れた場所にいる人たちも同じ映像を見られる。
「……なんか、いいなあ」
僕はつぶやいた。
「何が?」
「僕が撮ったスライムを、僕よりずっと詳しい人が見てくれてるんだよ」
ロイドは少し考えてから、笑った。
「そりゃよかったな」
「うん!」
「で、休憩は終わりだ」
「えっ」
「出発するぞ」
「もう!?」
「スライムの研究は馬車の中でやれ!」
◇
午後になると、丘陵地帯の向こうに深い緑が見え始めた。
森だ。
ベルクへ続く街道は、明日あの森を抜けることになる。
僕たちは夕方まで進み、森の手前にある野営に適した場所で足を止めた。
街道から少し離れた、木々に囲まれた平らな土地。
近くには細い小川が流れている。
「今日はここまでだな」
ロイドが馬車を停めた。
「ここで泊まるの?」
「ああ。明日は朝から森を抜けたい」
「野営だね!」
「そうだ」
僕は思わず笑顔になった。
昨日は宿泊所に泊まったから、今回の旅で初めての本格的な野営になる。
焚き火。
外で作る夕食。
夜の森。
そして、満天の星。
「楽しみだなあ!」
「遊びじゃないぞ」
ロイドが言った。
「まず馬の世話。それから薪集めと寝床の準備だ」
「分かってる!」
「本当か?」
「本当だって!」
エナが笑い、バルクが荷台から道具を下ろし始めた。
僕も慌てて手伝う。
その途中で、ふと空を見上げた。
夕日が丘の向こうへ沈もうとしている。
赤く染まった雲の下に、森が黒い影を落としていた。
今日は、大きな亀を見た。
小さなスライムも見た。
どちらも、この世界ではそれほど珍しい存在ではないらしい。
でも、僕にとっては大発見だった。
それに、僕が撮った映像を見て、喜んでくれる人もいた。
同じ景色を見ても、同じ生き物を見ても、感じることは人によって違う。
だから、記録するのは面白い。
「ユウト!」
ロイドの声が飛んできた。
「薪、集めるぞ!」
「はーい!」
僕は荷物を置き、三人のもとへ駆け寄った。
今夜は、焚き火を囲んで過ごす。
きっと、それもいい記録になる。
――ただし、今度こそ撮影ばかりしていないで、ちゃんと働こう。
そう思いながら、僕は落ち枝を拾い始めた。
ベルクまで、あと一日。
僕たちの旅は、まだ続く。
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第38話 完




