第5話 獣医師、という名前
青灰色の竜の前に、俺は膝をついた。
体長は大きい。この頭だけで、俺の全身より大きい。牙が見えている。鱗の間から熱気が漏れている——体温が高い。
でも、俺の中の何かは落ち着いていた。
——患者の前では、怖くなくなる。
これは前世でも今世でも変わらない。どれだけ大きくても、どれだけ牙があっても、「診る」モードに入ると余計なものが消える。目の前にいるのは患者で、患者は助けを必要としている。それだけになる。
「名前はあるか」
エルヴィン団長が答えた。「ガルドです。十二年、俺の相棒です」
十二年。
「ガルド」と俺は呼んだ。「診るぞ」
ガルドは目を動かした。低い唸り声。威嚇ではなく——返事だ。
まず全体を確認した。
鱗の艶がない。腹部が、わずかに膨らんでいるように見える。四肢に力が入っていない。でも痙攣はない。尾の動きは弱いが止まってはいない。
俺はガルドと目を合わせた。
「触っていいか」
ガルドの瞼が、ゆっくり下がった。
閉じた、というより——どうぞ、という感じに見えた。
……竜って、意外と分かりやすいな。
腹部に手を当てた。
鱗が硬い。でも鱗と鱗の間の皮膚の弾力を確かめる。乾いている。水分が足りていないか、皮膚の状態が落ちているか。
内側から押し返してくる感覚がある。ガスが溜まっているのか、それとも別の何かか。
「シア、この子が最後にちゃんと食べたのはいつか、聞いているか?」
「十日前から、ほとんど食べていないそうです」
「飲水は?」
「水は飲んでいます。ただ、量が減っているかもしれないと」
俺は頷いた。
次に、首の付け根の鱗の薄い部分に指を当てた。どくどくと感じる。速い。
「体温が高いんですね」
マルクスが横から言った。俺の手の動きを見ている。
「解熱の術式は試しました。一時的には下がりますが、また上がる」
「原因を取らないと下がらないので」
「……原因を取る。では原因が分かっているということですか」
「まだです」
マルクスは黙った。
次に目を診た。
瞼を指で少し開けて、眼球を確認する——充血している。白目に当たる部分が、うっすら黄みがかっている。
俺の中で、何かが引っかかった。
「……黄色い」
「え?」とシアが言った。
「目が、少し黄色い。本来は白いはずなのに」
「どういう意味がありますか」
「消化器のどこかが悲鳴を上げているサインかもしれない」
シアが素早く手帳に書いた。
「内側から確かめます」
俺はそう言って、術式を組み始めた。
治癒魔法を、診断用に使う。
本来、治癒魔法は「治す」ために使う術式だ。でも俺は「読む」ために使う。
魔力を、光の糸のように細く絞る。それをガルドの腹部からゆっくりと沁み込ませる——傷を修復するのではなく、内側の状態を感じ取るように。
薄い青白い光が、ガルドの鱗の間から内側へ広がった。
シアが手帳を持ったまま、動きを止めた。
「……術式が、また違う」
「診断用の組み方です。治すんじゃなくて、読む」
「そんな使い方が——」
「できます。構造が分かれば」
光がガルドの腹部に沿って広がっていく。俺はその感触を追う。
腸の動きが鈍い。腹部の一点に、固まっているような抵抗感がある。腹腔の右寄り——そこに、熱の集中を感じた。
炎症だ。
「……お腹の右上のあたりが、熱を持っています」
「それは何を意味するんだ・・・?」と団長が言った。
「消化器の炎症です。正確には開けてみないと——」
「開ける?!」とマルクスが声を上げた。「竜の腹を切るということですか!」
「さすがにそこまではしません」
俺は首を振った。
「でも今の感触と、目の黄色み、食欲の低下、体温の上昇——全部、同じ方向を指している。治癒魔法が効かなかったのも、そこが理由だと思います」
「どういうことですか」
「症状だけを治そうとしても、原因が残っていれば繰り返す。熱を下げても、もとを取らなければ、また上がる」
マルクスは口を開きかけた。でも何も言わなかった。
もう一つ、確認が必要だった。
「エルヴィン団長」
「何だ」
「二週間前、変わったことはありましたか。竜たちの食事、移動先、水源——何でも」
団長は考えた。
「……食事はいつも通りのはずだ。ただ——」
「ただ?」
「補助飼料を変えた。二週間と少し前に、新しい業者から購入した乾燥草の飼料を使い始めた。コストが安かったのでな」
俺は立ち上がった。
「その飼料を見せてもらえますか」
天幕の一角に、大型の袋がいくつも積まれていた。
俺は袋を開けた。乾燥した草と、何種類かの穀物が混ざっている。鼻を近づけて——匂いを確かめた。
乾燥した植物の、かすかに甘い匂い。
その中に、一種類、浮いているものがある。他の草より茎が太く、乾燥しても赤みが残っている植物だ。
「シア、これが何か分かりますか」
シアが覗き込んだ。
「……ルビィ草、だと思います。湿地帯に生える雑草です。馬や牛には問題なく食べられる草で、むしろ疲労回復に効果があると——」
「竜には?」
シアは沈黙した。
「……調べたことは、ないです。竜の食性を研究した文献が、ほとんど存在しないので」
「つまり、竜に安全かどうか、誰も確かめていない」
「……はい」
俺はルビィ草を一本、手に取った。
赤みがある。前世の記憶をたぐる——消化器に負荷をかける成分を持つ植物に、こういう色が出ることがある。種が違えば反応も違う。竜がどうかは断言できない。
でも、症状と一致する。
「全員、この飼料を食べたんですか?」
団長が頷いた。「十三頭全員に与えていた」
「飛べる三頭は?」
「あの三頭は食が細くて、あまり食べなかった……」
俺は息を吐いた。
「たぶん、これが原因です」




