第6話 この世界に、新しい言葉が生まれた
「ルビィ草が原因・・・と」
マルクスが言った。声は低く、感情が読みにくい。
「断言はできません。ただ——症状と一致する。この飼料を食べた十三頭が全員倒れて、少量しか食べなかった三頭だけが飛べている。状況証拠ですが、可能性は高い」
「……しかし、ルビィ草は一般的な飼料として使われています。馬にも牛にも安全だと」
「馬と竜は、体の作りが違います」
シアが、静かに、でも確かな声で言った。
「馬に安全でも、竜に安全とは限りません。人間に安全なものが全ての動物に安全でないのと同じです。私たちは昨日、馬の治療で同じことを学びました」
マルクスは何も言わなかった。
「治せるか?」
団長が聞いた。十二年間の相棒を見る目だった。
「まず飼料を変えてください。ルビィ草が入っていないものに。それだけで、これ以上の悪化は止まります」
「止まる、だけですか」
「それだけじゃ足りない。体に溜まったダメージを、術式で助けます。でも——全員に一度でやるのは無理です。順番に、一頭ずつ」
「何日かかる」
「竜の回復力が分かりません。診てみないと」
俺は少し考えた。
「最初の一頭で感触を掴んで、そこから見積もります」
団長は頷いた。
「ガルドから頼む」
ガルドの前に戻ると、フェンがいつの間にかガルドの頭の横に座っていた。
二メートル近い竜の頭と、魔狼が並んでいる。サイズ差がすごい。でもガルドはフェンを気にしていない。フェンもガルドを気にしていない。二頭とも、ただそこにいた。
……なんでそんなに自然に座ってるんだ。
「フェン、そこにいてくれると助かる」
フェンは動かなかった。肯定と解釈した。
俺は術式を組み始めた。
今度は「読む」ではなく「助ける」組み方だ。
「熱を冷ます」方向ではなく、「体が自分で回復する力を後押しする」方向に組む。外から塞ぐのではなく、内側の負担を下げて自然回復を促す。
光が生まれた。
青白い光が、今度は細い糸ではなく、暖かく広がる膜の形でガルドの腹部を包んだ。
シアが手帳を持ったまま、動きを止めた。
光はゆっくりと、ガルドの輪郭に沿って広がっていく。鱗の隙間から染み込むように、内側へ。急がない。押し込まない。体の声を聞きながら、ゆっくりと。
ガルドが、深く息を吸った。
腹部の張りが、少しだけ緩んだのが分かった。
「……光が違う」
マルクスが、低い声で言った。「さっきと形が違う。何をしている」
「さっきは診断用、今は回復の補助です。目的によって術式の形が変わります」
「目的によって——」
「原因が分かれば、それに合わせた組み方ができます。原因が分からないまま術式をかけても、体は混乱する。熱をいくら叩いても、もとが残っていれば戻るだけです」
マルクスの表情が変わった。
怒りではなく——何か別のものだった。
一時間後。
ガルドが首を持ち上げた。
さっきより、ずっと力がある動きだった。首を持ち上げて、周囲を見て——俺を見た。
「少しは楽になったか」
ガルドが低く鳴いた。今度ははっきり、返事だと分かった。
エルヴィン団長が、天幕の支柱を握った。
「……ガルド」
団長の声が、わずかに震えた。ベテランの騎士の、疲れた声だった。
「まだ時間がかかります」と俺は言った。「今日明日で全快はしない。でも、方向は変わった」
「方向が変わった」
「今まで悪化していた。これからは、回復していく」
団長はしばらく何も言わなかった。それから深く頭を下げた。
「……頼む」
◇
その夜。
焚き火を囲んで、俺とシアとフェンは夕食を食べていた。野営地の端の方を借りた。
シアは食べながら手帳を読み返していた。今日だけで何ページ書いたんだろう。
「一つ聞いていいですか」
シアが顔を上げた。
「レインさんが持っている——あの診かた、知識、術式の組み方。それは一体どこで……?」
俺は少し考えた。
前世の話をするのは、なかなか難しい。説明するのに時間がかかる上に、信じてもらえるかも分からない。
「……前世で身に付けた、と言ったら信じますか」
「昨日ポッポを三十分で治した人が言うなら、とりあえず聞きます」
シアは真顔で言った。
……この人、なかなかドライだ。助かる。
「俺のいた世界に、『獣医師』という仕事がありました」
「獣医師……」
「動物を専門に診る医師、という意味です。人間の医師とは別に、動物だけを診ることを専門にした職業が。この世界には存在しない言葉です」
「……獣医師」
シアはゆっくりともう一度言って、手帳に書いた。
「動物を専門に診る、医師」
「はい」
「それがレインさんだった」
「前世では。今は……」
俺は少し笑った。
「追放された無職のテイマーですけど」
「獣医師です」
シアがきっぱりと言った。
「え」
「今日、ガルドを助けた。昨日、ポッポを助けた。一昨日、フェンを助けた。全部、動物を診た。違いますか」
「違わないですが……」
「では獣医師です。この世界にない言葉なら——今日からある。レインさんが使った、今日この野営地で」
シアは手帳を見せた。
そこには丁寧な字で書かれていた。
——「獣医師:動物を専門に診る医師。この世界に初めて現れた職能。」
その下に今日の日付が記されていた。
「記録しました」とシアは言った。「この言葉が生まれた日として」
俺はしばらく、その文字を見ていた。
獣医師。
前世では当たり前すぎて、意識したこともなかった言葉だ。この世界では今日初めて、生まれた。
……シアが認めてくれた名前だ。
悪くない。
フェンが欠伸をした。
炎が揺れた。遠くでガルドが静かに息をしているのが聞こえた。
「シア」
「はい」
「明日、残りの十二頭を順番に診る。一頭ずつ、全部記録を取ってくれ」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。三年間、誰にも聞いてもらえなかった人間の、解き放たれた声だった。
「・・・一つお願いがあります」
シアはうつむきながら口を開いた。
「何だ?」
「マルクス様のことは、責めないでください」
俺は少し驚いた。シアはマルクスに対して怒っていると思っていた。
「……治せなかったのは、知識がなかったからです。竜の体を誰も研究してこなかった。研究しようとする人間を、医術院は認めてこなかった。マルクス様は、ある意味その被害者でもある」
「怒りの向け先は、マルクス様ではなく、構造の方です」
俺はしばらく何も言わなかった。
「シアたはすごくまっすぐな人なんだね」
「……そういう言い方をされたのは、初めてです」
「本当のことだよ」
シアは少し黙った。それから小さく笑った。
「明日から、よろしくお願いします。獣医師殿」
「よろしくお願いします。記録官殿」
フェンがもう一度欠伸をした。
——この野営地で「獣医師」という言葉が生まれた夜は、こうして静かに過ぎた。
◇
翌朝。
マルクスが、天幕の前で俺を待っていた。
「……一つ、聞いていいか」
「はい」
「昨日の術式。診断用と、回復補助用。それぞれ、どう組み分けているのか——教えてもらえるか」
俺は少し驚いた。
「別に隠すことじゃないですが……」
「私は」
マルクスは少し目を逸らした。
「二週間、ガルドを治せなかった。正しい原因も、分からなかった。……あなたが一日でやったことの、意味が知りたい」
昨日と声が違った。プライドを飲み込んだ人間の声だ、と思った。
正直、偉いと思う。
「飼料の話を最初にするべきでしょうか」と俺は言った。「原因から入る方が、術式の意味が分かりやすいと思うので」
「頼む」
俺は焚き火の横に座った。マルクスが向かいに座った。
シアがいつの間にか隣に来て、手帳を開いた。
「私も聞いていいですか」
「もちろんです」
フェンが俺の足元で丸くなった。
——これが、この世界最初の獣医師の講義になった。




