第3話 この世界に、最初の獣医師が生まれた
ラグレン村に着いたのは昼前だった。
フェンを連れて村道を歩いていたら、入口付近から声が聞こえた。複数人の怒声と、それに返す一人の女性の声。
「これ以上は無理です! 今の私にできることは全部やりました!」
近づくと、村の広場に人が集まっていた。
中心にいるのは若い女性だ。白い法衣、腰に魔道具の袋。栗色の髪に後れ毛。顔立ちは整っているが、今は怒りと別の何かが混ざって複雑な表情になっている。
その傍らに、一頭の農耕馬がいた。
俺の目は一瞬で読んだ。
お腹が不自然に膨らんでいる。後ろ足で自分の腹を蹴ろうとしている。体に嫌な汗をかいている。呼吸が乱れている。地面に倒れ込もうとしては、踏みとどまっている——
お腹の中にガスが溜まって、腸が苦しくなっている。
馬の腹痛の中で、一番怖いやつだ。放っておけば腸が詰まって死ぬ。
「治癒師を呼べって言ったのはあんたらじゃないか! ポッポが死にかけてるのに何もできないって、どういうことだ!」
でっぷりした農夫が声を荒げている。
「ですから! 私の治癒魔法は人間の体に合わせて作られているんです! 馬には構造が違いすぎて——」
女性の声が、最後の一文で変わった。
「私はずっと、それを問題だと言い続けてきたんです」
怒りから、別の感情に。
俺は人混みをかき分けた。
「ちょっと診ていいですか」
「あなた、何者ですか!?」
治癒魔法師が俺を見た。警戒の目だ。
「レインと言います。通りすがりのテイマーです。馬のことは多少分かります」
「……?」
不安と疑問の表情を浮かべる治癒魔法師をよそに
俺はポッポに近づいた。
「この子——お腹の中にガスが溜まって、腸が苦しくなってますね」
「放っておくと腸が詰まって死ぬ。まず歩かせてください」
「今の状態で歩かせるんですか?」
「歩かせた方がいい」
俺は農夫から引き綱を受け取りながら言った。
「動くことでお腹に刺激が入って、止まった腸が動き始めやすくなります。それと——馬は腹が痛いと地面に倒れたがる。でも倒れると、膨らんだ腸が捻れる危険がある。歩かせて見張ることで、それを防ぎます」
治癒魔法師は黙っていた。でも、ついてきた。
ポッポを誘導しながら、術式を組んだ。
人間のお腹の調子を整える治癒術式がある。でもそれをそのまま馬に流しても届かない。
人間と馬では、腸の太さが全然違う。
人間向けに作られた術式の魔力は、細い水路に通す水量だ。馬の腸は川くらいの幅がある。細い水路用の水をそのまま流しても、川には何も届かない。
だから——広げる。
水路を川の幅まで広げるように、術式の広がり方ごと作り替えた。
手のひらをポッポの脇腹に当てると、光が滲み出た。
人間を診るときと、光の様子が違う。人間の術式は細い糸のように収束する光だ。でも今は違う——光がゆっくりと、大きく広がっていく。ポッポの丸いお腹を包むように、柔らかく、深く。
治癒魔法師が、小さく息を飲んだ。
「……術式が、変わってる」
「馬に合わせた」
「どうやって——」
「構造が分かれば変えられます」
五分。
十分。
ポッポが鼻を鳴らした。お腹の張りが、目に見えて緩んでいく。冷や汗が引く。後ろ足で腹を蹴ろうとする動作が、止まった。
「お腹の音——戻ってきてる」
治癒魔法師が、手をそっとポッポの脇腹に当てながら言った。低く、驚きを押し殺した声だった。
「よし」
俺は息を吐いた。
三十分後、ポッポは落ち着いていた。
農夫が「ポッポ!」と叫んで馬の首に顔を埋めた。村人が口々に驚きの声を上げた。
俺はその輪の外で、フェンの頭を撫でていた。フェンは欠伸をした。
「——あなた!」
振り返ると、治癒魔法師が大股でこちらに歩いてきた。さっきまでの険しい表情ではない。目が、明らかに変わっている。
「私はシア・アルヴィンといいます」と彼女は名乗った。
「王都の医術院から辺境巡回診療として派遣されています」
シアは俺のすぐ前に立った。
「三年間——私は三年間、医術院に訴え続けたんです。農耕馬が病気になれば農村が立ち行かなくなる。軍の竜が死ねば国防が揺らぐ。冒険者の魔物は使い捨てが当然とされているけど、本当にそれでいいのか——全部却下されました。人間以外への治癒魔法は、構造が違いすぎるから不可能だって」
彼女の声が、少し震えた。
「でも今日——あなたはそれをやった。動物の体に合わせて術式を変えた。誰も考えようとしなかったことを、当たり前のようにやった」
シアは俺をまっすぐ見た。力強い目だった。
「あなたが持っている知識と、私が持っている治癒魔法の基礎理論を合わせれば——馬だけじゃない。竜も、農村の牛も、冒険者の魔物も——もっとできることが変わってくる」
彼女は息を吸った。
「一緒に戦ってください。私と」
お願いではなく、共闘の宣言だった。
俺は少し笑った。
「こっちからお願いしたかったくらいです」
シアが目を丸くした。
「動物の体のことは分かります。でも治癒魔法の理論は、まだ全然足りない。あなたの基礎知識があれば、今日よりずっと精度の高い術式が作れる——馬、竜、農耕の牛、冒険者の魔物、種ごとに全部」
「できます」
シアは力強く頷いた。
「絶対できます。術式の変更の記録も全部取ります。動物ごとの体の情報も積み上げていく。いつか——これを正式な技術として確立したい。あなたの知識を、この世界の医術として残したい」
「それは俺も望むところです」
「動物は、痛いとか苦しいとか、言葉で言えない」
シアは言った。
「私はずっと、それがこの問題の核心だと思っていた。言葉の代わりに、何を読めばいいんですか・・・?」
俺は少し考えた。
「動作、姿勢、目の様子、体温の偏り、お腹の音、体重のかけ方——言葉の代わりに、そういうものが全部サインになります。読む量が多い分、難しいけど」
「難しいけど?」
「治ったときの顔が、一番わかりやすい」
シアは今日初めて、笑った。そしてすぐに疑問を顔に浮かべた。
「ところであなたは一体・・・ただのテイマーなんかじゃありませんよね・・・?」
「少し前まではパーティ所属のテイマーでしたが追放されました。だから・・・無職のテイマー・・・です。」
「ただのテイマーがこんな事出来る訳ありません・・・!」
俺は少し考える。この世界で獣医師と言ってもピンと来ないだろう。
「・・・・・・」
俺が黙っていると、シアは眉間にシワを寄せながら口を開く。
「でも追放されてしまったテイマーですし・・・何か事情があるんでしょうね・・・」
シアは勝手に納得してくれた。助かる。
「ま・・・まあそんな感じです。訳アリなんです・・・」
俺は苦笑した。
しかしこれで前世の元獣医師の記憶を持つ、無職のテイマーが
魔物や動物の医療に関心のある治癒魔法師とタッグを組めたのだ。
しかもいい子だ。
希望が持てた。
◇
村を発つ前に、村長から話を聞いた。
「最近、東の街道で王国の竜騎士団が足を止めているんですよ。軍用竜が何頭も体調を崩して移動できない状態で。王都から宮廷の治癒師も来ているんですが、原因が掴めないと」
竜騎士団。軍用竜。
シアと目が合った。
「行きましょう」
二人、同時に言った。
竜を診たことは、俺の知識にはない。
でも構造を調べて、症状を読んで、仮説を立てて、確かめる——それは変わらない。
「とりあえず診てみないと分からない」
フェンの背中を軽く叩いた。フェンは静かに立ち上がった。
追放されて丸二日。パーティも仕事も住む場所も失った。
なのになぜか、今の方がずっと——自分の場所にいる、という感覚がある。
魔物や動物は何も言えない。だから術者が全部を読まなければならない。
それが、俺のやることだ。
——異世界での獣医師の話は、こうして始まった。




