第2話 覚醒——俺、獣医だったんだ
次の村まで半日の道程、と地図に書いてあった。
嘘だった。
難路込みで一日かかるルートだった。日が沈む頃、俺は森の中ほどにいた。また野宿だ。
薪を集め、火を起こし、保存食を噛む。テイマー稼業三年で身に付いた生存スキルは、精神状態に関わらず機能した。
枯れた大木の根元に背を預けて、次の手を考えていた。
草むらが揺れた。
「グルルルル……」
出てきたものを見て、俺は動けなくなった。
魔狼だ。
体長は俺の腰ほど。灰色の被毛に、鮮やかな黄金の目。単独でも上位冒険者が手を焼く魔物として知られている。
だが今目の前にいる個体は——
右の前足を引きずっている。腹に深い爪跡、血が滲んでいる。目の縁が赤い。
そして——足の運び方がおかしい。足首ではなく、肩の関節あたりから動きがずれている。
「あ、肩が外れてる」
自分の声で我に返った。
……なんで俺は、足を引きずっている魔狼を見て、真っ先にそこを読んでいるんだ。
頭の中で理性が叫んだ。逃げろ。弱った肉食獣は危険だ。
でも俺は、もう地面に膝をついていた。
——患者を前にすると、なぜか怖くなくなる。
昔からそうだった。
……昔?
それが引き金になった。
頭の中で、何かが外れた。
映像が来た。
白い部屋。眩しい光の下に横たえられた動物たち——犬、猫、牛、馬、鳥、爬虫類。道具を握る手。様子を観察する目。夜中の呼び出し。「先生、うちの子が動かない」と泣いている声。
動物の体についての知識が——膨大な量の、それが、一気に帰ってきた。
「……そうか」
俺は呟いた。
「だから俺は、使い捨てにできなかったんだ」
「俺、前世で獣医師だったんだ……」
声に出したら、不思議なほど納得した。
コケコの口の中の色が気になったことも。翼だけじゃなく体全体を確かめたくなったことも。弱った魔物を前にすると手が動くことも。
全部——俺の中にずっとあった、この知識の癖だった。
——コケコ。
もっと早く思い出していたら、違う結果になったかもしれない。
胸が痛かった。でも今は考える時間がない。
目の前に、患者がいる。
「動かないでいてくれると助かる。今から診る」
魔狼は唸った。でも攻撃姿勢ではない。
「痛いのは分かってる。でも触らないと、どこが悪いか分からない。分からないと、治せない」
黄金の目が俺を見た。揺れた。
——そういう目で見るのは、やめてくれ。昔から弱いんだ。
唸り声がやんだ。
大まかな状態を確認した。
歯茎の色、普通のピンク——まあ良い。呼吸は少し速いが、深刻ではない。痛みがあるから当然だ。
「よし。まず肩から始めよう」
外れた関節を元に戻すには、周りの筋肉を一度だけ緩めないといけない。そのままの状態で力をかけると、筋肉が抵抗して余計に傷つく。
俺は手のひらを魔狼の肩に当てた。
魔力が、じわりと滲み出る。
——ただの治癒魔法とは違う。
光は傷口ではなく、関節の周囲だけに集まっていく。細く、狙いを絞るように。灰色の被毛が、青白い光をうっすらと透かした。
魔狼がびくっとした。
「そこだ。もうちょっとだ」
筋肉が、少しだけ解けるように柔らかくなった。
今だ。
手が、体の記憶を頼りに、慎重に関節を誘導した。
カクッ——という感触。
魔狼が短く吠えた。でも暴れなかった。
「終わった。次は傷だ」
腹部の爪跡に手を当てる。今度は別の術式を使う。本来は毒を中和するための浄化術式——それを転用して傷の中の雑菌を焼き払う。
光が、青白から金色に変わった。
魔狼が小さく息を飲んだ。
「熱かったか。ごめん、一瞬だから」
それから、傷口を塞ぐ。これは普通の治癒魔法でいい。光が傷の縁から中心に向かって寄り合っていき、裂傷が閉じる。
光が消えた。静かになった。
東の空が白んだ頃。
魔狼がゆっくりと立ち上がった。
前足に体重をかけ、一歩。二歩。三歩。
右前足をかばわずに、体重を乗せている。
「……よし」
息を吐いた。
この感覚は——いつでも変わらない。うまくいったときの、あれだ。
魔狼は周囲の匂いを嗅いだ。それから俺を見た。
去らなかった。
草の上に腰を下ろして、じっと俺の横に座った。
「帰らなくていいのか」
返事はない。でも動かない。
「まあ、強制はしない。行きたくなったら行けよ」
内心では思っていた。——来てくれるな、とは言えないな。
「じゃあフェンって呼ぶ。なんかお前、そういう感じがする」
フェンは一度だけ鼻を鳴らした。否定ではないと解釈することにした。
「俺はレインだ。今のところ無職だ。よろしく」
フェンは欠伸をした。
——追放されて二日目の朝、俺には相棒が一匹増えていた。




