第5話「会えない人」
エリスという名前を、初めて聞いたのは市場だった。
「聖女様が、また引きこもってるらしい」
「仕方ないだろ。あの方はそういう人だ」
「でも今は非常時だぞ。魔王が動いてるって話じゃないか」
「……聖女様に頼るしかないだろうな」
通り過ぎながら、聞こえた。
聖女。
この世界に来てから、何度か耳にした言葉だった。でも実態がよく分からなかった。
「なあ」
近くにいた店主に声をかける。
「聖女って、誰のことだ」
店主は少し驚いた顔をしてから、答えた。
「エリス様だよ。この街の北にある神殿にいる。世界を守る力を持った、唯一の人間だ」
「会えるのか」
「会えるわけないだろ」
即答だった。
「あの方は誰とも会わない。もう何年もそうだ」
ノアに聞いた。
「エリスについて知ってるか」
「聖女か」
「ああ」
「知っている。鑑定したことがある」
俺は少し驚いた。
「会えたのか」
「五年前の話だ。今は会えない」
ノアは羊皮紙から目を上げなかった。
「能力は本物だった。加護系の最高位。どんな傷も癒し、どんな災厄も和らげる力を持っている」
「……なんで引きこもってるんだ」
「知らない」
「興味ないのか」
「データとしては興味がある。接触できないから保留している」
俺はしばらく黙った。
「会いに行く」
「無駄だ」
「なんで」
「私が言っているのではない。事実として、誰も会えていない。神殿の入口で全員追い返される」
「お前も?」
「……私も」
少しだけ、間があった。
「五年前に一度だけ鑑定できたのは、当時の神殿長が許可を出したからだ。今の神殿長は許可を出さない」
「エリス本人は?」
「本人が望んでいないと言われている」
俺は立ち上がった。
「行ってみる」
「無駄だと言った」
「無駄かどうかは行ってから分かる」
ノアは何も言わなかった。
でも、止めなかった。
神殿は街の北にあった。
白い石造りの建物。手入れが行き届いていて、清潔だった。でも——人の気配が薄かった。
入口に、衛兵が二人いた。
「面会を求めたい」
「お断りします」
即答だった。
「理由を聞いてもいいか」
「エリス様は面会を受け付けておりません」
「エリス様本人がそう言っているのか、それとも神殿の方針か」
衛兵が少し固まった。
「……神殿の方針です」
「エリス様の意思は確認されているか」
「それは——」
「俺はエリス様と話がしたい。
神殿の方針は理解した。
でも、本人の意思を確認せずに追い返すのは——
エリス様のためになっているのか」
衛兵たちが顔を見合わせる。
いつもの感覚が走る。
二人とも——迷っている。
「……少々お待ちください」
一人が中に消えた。
五分ほど待った。
戻ってきた衛兵は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「エリス様は——お会いになれないと」
「エリス様が直接、そう言ったのか」
「……はい」
嘘じゃない。
でも——
何かが、引っかかった。
「分かった」
俺は引いた。
無理に押すのは違う気がした。
神殿を背にして、歩き出す。
「……本人が言ったなら」
呟く。
でも——
さっきの衛兵の顔が、頭に残っていた。
申し訳なさそうな、あの顔。
エリスの言葉を伝えたときの——あの、わずかな間。
「……本当に、本人が言ったのか」
分からない。
でも——何かが、おかしい気がした。
夕方、ノアに報告した。
「追い返されたか」
「ああ」
「言っただろう」
「でも——一個だけ、引っかかってる」
ノアが手を止めた。
「何が」
「エリス様が直接断ったって言われた。でも衛兵の顔が——」
「顔が」
「申し訳なさそうだった」
沈黙。
「……それだけか」
「それだけだ」
「根拠にならない」
「分かってる」
俺は続けた。
「でも、もう一回行く」
ノアはしばらく黙っていた。
羊皮紙に視線を落として、また上げた。
「……一つだけ教える」
「なんだ」
「五年前、エリスと話したとき——彼女は一言だけ言った」
「何を」
ノアは少し止まった。
「『疲れた』と」
それだけだった。
「鑑定の話でも、能力の話でもなかった。開口一番、それだけ言った」
俺は黙った。
「参考になるかは分からない。ただのデータだ」
「……ありがとう」
「礼はいらない」
ノアは羊皮紙に戻った。
でも——耳が、また少し赤かった。
神殿に向かった。
夜の入口には、昼とは別の衛兵がいた。
「面会を——」
「お断りします」
「そうか」
俺は引かなかった。
神殿の壁に背を預けて、座った。
「……何をしている」
衛兵が困惑している。
「待ってる」
「何をですか」
「エリス様が、自分で扉を開けるのを」
「……それは」
「いつになるかは分からない。でも——閉じこもっている人間は、必ず一回は外を見る」
衛兵は何も言えなかった。
俺は壁に背を預けたまま、夜空を見上げた。
星が多かった。
「……届くかな」
誰にも聞こえない声で、呟いた。




