20、開戦
――ジフ川は、まるで何も知らないかのように静かだった。
春の水面を朝靄が包み、川岸には有刺鉄線が張り巡らされた塹壕とトーチカと砲兵陣地群。急造とはいえ政府軍の構築した防衛線は、もはや陣地というより、小規模な要塞と呼んで差し支えなかった。
川にかかる橋はすべて爆破されている――だだし、一つを除いて。
その一本だけ残された橋、リッダヴ橋は、あまりにも整然と、あまりにも「渡ってください」と言わんばかりに静かに架かっていた。
「橋を一つだけ落としてないのは、明らかに『誘い』だな」
666大隊に割り当てられた陣地の幕舎。作戦会議の机に広げられた地図を見ながら、スカイはぼそりと呟く。ここに集っているのは大隊の幹部達である。
隣で腕を組むレベッカが、眉をひそめる。
「引っかかるかな? こんな見え透いた挑発」
「普通は乗らんだろ。橋に数千数万の人間が殺到したら大渋滞になる。そこに砲撃や空爆されたら……ダラと同じ。全て終わりだ」
スカイは乾いた声でそう言ったが、その目は僅かに楽しげでもあった。
666大隊の参謀席では、エリザベスが冷静に資料を並べていく。
「ここからは……長い我慢比べですね」
工具ケースを脇に置いたまま、アリスが小さく息を吐く。
「ソンムの戦いよろしく、前線は膠着。工兵と砲兵と補給班は忙しいだろうけど、戦闘班は……暇を持て余すかもね」
砲兵隊中隊長ヴィクトリアが、肩をすくめて笑う。
「私たちは大砲屋は、いつも暇なしよ」
「ま……暇になると良からぬ事を企む奴が出るかもしれないけどね。……スカイへの夜這い計画とか」
レベッカの視線が横から刺さり、スカイはさりげなく目を逸らした。
「今更ですが、13股目、おめでとうございます。……9から13に増えるまでが早いですよ」
無表情のまま毒を吐くエリザベス。
「やめろ。作戦会議中にプライベートな話は」
しかし、マリーが椅子にもたれながら呟く。
「むしろ、よく13で止まってるわよね……」
「皆、牽制し合ってるし、ああ見えてレベッカへの遠慮もあるからね」
クリスティーナが妙に真面目な顔でさらりと言い、スカイはもはや片手で顔を覆うしかなかった。
「――はい、私語終わり!エリザベス、続けろ!」
「ははっ。ではこちら、第二ヘリ旅団偵察ヘリによる空撮写真」
机に置かれた白黒写真に、スカイとレベッカが身を乗り出す。
「敵の先陣は第55機甲師団です」
エリザベスの言葉に、スカイの表情がわずかに動く。
「第8機甲師団と同等の練度――と聞いてたが……」
写真に映る集団。その中でスカイの眉が僅かに寄った。
「……気のせいかもしれないが。機甲師団にしては、やけに随伴歩兵の割合が多くないか?」
「慣れない土地で不意打ちを警戒しているのか。
参謀らしくメガネを、くい、と上げつつエリザベスは言う。
「はたまた――」
「はたまた?」
「燃料切れで途中で車両を放棄したか」
静寂。
「まさか。いくらなんでも、そんな事は――」
シャーロットが否定しかけるが、後続の声が遮る。
「いや、でもそれなら、この不思議な編成にも説明がついてしまいますよ……」
メアリーが続けて言い、さらにジュリアが肩を竦めた。
「てか戦車兵って、今日明日で歩兵に転職できるの? 明らかに元戦車兵が混じってるぞ。この数は」
「訓練はしてるって聞くけど……わざわざそんな事する理由がありませんわよね。普通なら」
オリヴィアの言葉が落ちた瞬間、全員の目が、写真へと静かに戻った。
映る兵士たち。泥と埃にまみれた装備。戦車の姿は――ほとんど無い。
これがラジオで華々しく宣伝されていた追討軍の『実態』。
一秒。
二秒。
三秒。
沈黙の末――
「……もしかして、ワンチャン勝てるか?この戦」
スカイが呟いた。
その瞬間、幕舎の空気が俄かに変わる。
――ジフ川攻防戦、開戦。
戦いの幕は静かに切って落とされた。




