52 未来のためにいま出来ること
歌が上手くなりたい。
そんな簡単なことが、チェリーはいままでどうしても言えなかった。
言葉にしようとすると、喉につかえて出てこない。「それ」はいまじゃなくていい、やるべきことはたくさんあるのだから、まずは他の大切なことをしなければ。「自分のこと」は最後。
順番が前後するなんて些細なことで、自分は傷つかないと思っていた。
優先されないのも、自分から「大丈夫です」と後回しにするのも慣れていたのだ。
誰かにそうしろと言われたわけではない。そうした方が良いとチェリー自身で考えたことだった。自分で選んだ生き方だとずっと思ってきた。
「まだ仕事があるだろう、俺がやっておくから。行っておいで」
バーナードはそう言って、チェリーの背を押してくれる。
自分がひとにそう言うのは慣れていたのに、チェリーは自分が言われる側になるとは思っていなかった。
(ううん。これまでだって、まったくなかったわけじゃないわ。王宮の夜会に招かれたときもそうだった。「まだ自分の番ではないから」と、キャロライナさんが送り出してくれた。そのときに、私はどう思ったかしら。「絶対にキャロライナさんの番も来るから、そのときは私が全力で協力するから」って)
その気持ちは本当だ。キャロライナの番が来たら、出来る限りのことをしてあげたいと懸命に考えて準備するはずだ。
キャロライナはチェリーとは血のつながった妹ではないが、この家で一緒に暮らすようになって以来、姉のように慕ってくれている。ラモーナのことを「チェリーさんのお姉さまなら私のお義姉さまでもあるもの、三姉妹の長女ね」とまで言ってくれた。
思い出すだけでも胸が熱くなる。
二人は絶対にこの世界で出会うことはないのだけれど、チェリーの想像の中でラモーナは照れくさそうに笑っていた。
ノエルと手を繋いでいるキャロライナを優しい目で見ている。
――ありがとう
失われたもの。二度と聞くこともない声。
いまはもうチェリーの想像の中にしかない。
いつか、身近なひとだけではなくてこの時代に生きる誰かへと届けたい。
途方もない望みだとわかっている。
だけど、チェリーに失ったものがあるように、いま生きているひとは皆大なり小なり取り返しのつかないものを失っているのだ。たしかにあるその痛みを無視し振り切って、前を向いて進んで行こうとしている。
もし……チェリーが歌うことで、それを聞いたたった一人でも自分が今日生きていること、明日も生きていくことを悲しみではなく人生の良い部分だと感じられるのであれば。
(大切なひとを奪われたという恨みも憎しみも怒りも、私の糧にはならなかった。私を突き動かし、生かしてくれたのは守らなければいけないノエルの存在で、迎えに来てくれたヘンリエット様をはじめ私たちを受け入れてくれたアストン家の家族で、顔も知らない一度も会ったこともない私の元へ「帰って」来てくれたバーナードさんで)
彼の「帰り」を待っていたあのときの気持ち。
歌を聞くひとに何を届けたいのかと聞かれたら、チェリーの中ではもう決まっている。
気が急くままに、バーナードを裏庭に残してチェリーはピアノ室へと向かった。
曲が終わったタイミングで、中に彼がいるのはわかっているとドアを開ける。
「ニコラスさん! 私のリクエストしたい、好きな曲を考えてきました!」
* * *
「どこかへお出かけですか?」
キッチンでバスケットに食料を詰めていたバーナードに、シャーリーが声をかけてきた。
「今朝、往診した家へ行って来ます。子どもだけで満足に食事の準備もできないようだったので、その場で出来ることはしてきたんですが、足りない分を届けに」
ふーん、と興味があるのか無いのかわからない口ぶりで相槌を打ち、シャーリーは自分が手にしていたバスケットを台に置いた。「ええと……」と言いながら、布の包みを取り出してバーナードへと差し出してくる。
「これはたぶん焼菓子です。ビスケットかな。日持ちがするからあとで食べてって一緒に持っていってください」
「ありがとう」
受け取りつつ、バーナードはどこからどう見ても貴族の令嬢というより麗しい青年であるシャーリーの目を見る。「へ?」とおどけたような声を上げてシャーリーはバーナードに笑いかけてきた。
「なに? 顔に何かついてます?」
「いや、そういうわけではなく。俺が見舞っている一家は平民の……あなたのような立場のあるひとが、何も聞かず協力してくれるものかと」
「なんだ、そんなこと?」
軽い口ぶりで笑い飛ばし、シャーリーはキッチンの台に腰を預けて寄りかかり下の角度からバーナードの顔を見上げた。
「戦争のときは、どこもかしこも人手が足りなかったですよね。たとえば前線にほど近い医療機関。手足が吹き飛び、泣いたり喚いたりしている怪我人がどんどん運び込まれてきて正規の看護人だけでは到底看病しきれない。だからといって新たにひとを雇い入れる金銭的余裕もなければ、訓練を施す時間もない。そこに駆けつけたのは誰だかわかりますか?」
実際に戦地を経験しているバーナードにとって、それは難しい問いではない。
「対価を受け取らず、仕事だけに従事してくれる……貴族階級の女性がずいぶんいたとは聞いている」
にこっと笑って、シャーリーは姿勢を正した。
「その通りです。生まれたときにはまさかそんな時代が来るとは考えていなかった、戦争が始まったときですら自分がその場に行くとは考えていなかったお嬢さんたちが、ずいぶんあの場にいたんですよ。もっとも、ご令嬢たちがそこへ行くまでに考えていたのは、せいぜい自分に出来るのは怪我をした兵士たちの横に腰掛けてその手を握り『しっかりなさってください』と励ますことだろうと。仕事量があまりにも多くて、そんなことしている暇はまったくなかったわけですが」
そういった拠点まで後退する機会が滅多になかったバーナードは、正確に状況を目にしたわけではないが、シャーリーの言うことは理解できた。
「あなたもそこへ?」
「主が天に召されてから終戦までの短い時間です。何年もそこにいたような強者にはまったくかないません。それでも……平民と呼ばれる階層が自分たちとなんら変わらない人間であることはよくわかりました。このお菓子はアストン家にお世話になるお近づきのしるしのつもりだったんですけど、この家のひとは自分たちの明日のおやつにするより困った子どもの食事になったほうが嬉しいのでしょう?」
シャーリーは、少しクセのある話し方をする。ストレートではない。
それでも、バーナードの理解の範疇であった。貴族の令嬢として生まれ育ち、姫君のそばに仕えていた女性でありながら、シャーリーは柔軟な考えの持ち主のようだった。
戦地で共に過ごしたコンラッドにも通じるものがあるように感じ、バーナードは二人が「友人」であることを実感した。
受け取った焼き菓子をバスケットの一番上にのせて、蓋を閉める。
そのタイミングを待っていたように、シャーリーがさりげない調子で尋ねてきた。
「奥様のことです。ニコラスのピアノ特訓を受けるんですね。なるべくそばについているようにしますし、そうでなければドアを開けておくようにしますが、それでご主人様は大丈夫ですか?」
顔色が変わらないように気をつけつつ、バーナードは「構わない」と答えた。
「俺から勧めたんだ。彼女は才能のあるひとだけど、伸ばせる環境になかった。ニコラスの存在は彼女の今後を決める上でかなり重要だ。限りある時間を、有効に使って欲しい。彼が彼女にしてあげられることはたくさんあるだろう。それは、俺にはできないことだ」
言うだけ言うと、感情を探られる前にとバーナードはバスケットを手にして「行ってきます」とシャーリーに背を向ける。
一瞬、シャーリーが口の端を吊り上げて笑うのが見えた。いってらっしゃい! と明るい声を背中で聞いた。




