53 秘書官の夜
「……寝てた」
重い頭を上げて、コンラッドは机の上でゆらゆらと揺れているランプの灯火を見た。
書類を書いているときではなく、読んでいるときで良かったと思う。以前何か書きながら寝てしまったときは、紙の上に悲惨なインク溜まりが出来ていた。
覚醒した意識が明瞭になるまで、動かずに待つ。自然と、夜の気配に耳を澄ますことになる。
机の正面には大きな窓。背後には光の届かない広い空間があり、壁を隔てた向こう側には静まり返った王宮の廊下が続いている。
ここは安全な場所。
働いている者もいるが、大半は清潔なベッドで体を休めている時間だ。
もう何に対しても身構える必要はない。
そうとわかっていても、コンラッドは空気の中に違和感はないか、背中から無数の糸を伸ばすイメージで神経を張り巡らして慎重に探ってしまう。
糸の先が、何かに触れた。違和感だ。
すぐに「気を抜いている場合ではない」という緊張が全身に満ちる。コンラッドは腹の底に力を入れて声を出した。
「ご自分の部屋で休まれてはいかがです。もうひとりで寝られないような小さな子どもではないでしょう、ヒューゴー殿下」
灯りも持たず、暗がりに同化するかのように室内に身を潜めていた主が答えた。
「眠れないんだ。コンラッドは寝ないから、ちょうどいいと思って来た」
自分が夜もあまり寝ていないのをこの主に知られてしまったのは失敗だった、とコンラッドはつくづく思う。おかげで、しばしば終業後の自由な時間まで夜間対応を仕事に上乗せされている。コンラッドにとってはまったく「ちょうどよくない」だ。
「寝ないのは子どもにご本を読んであげるためではなくてですね。仕事が終わらないからです」
相手にしている暇はないんですよと追い払おうとしたが、おそらくソファに腰掛けているであろうヒューゴーはふふっと笑った。
「以前は、部屋に訪れる前に気づかれた。少し前は部屋に入った時点で『どうなさいました』と声がかかった。今日は部屋の中に入り込んでも寝ていたな」
それがなんだ、うるせぇな。
反射的に言い返そうになったが、コンラッドはぐっと堪えた。
(まるで俺の警戒心を突破できるようになったみたいなことを言う。べつに気を許したからというわけじゃない)
誰に対しても本当の意味で心を許すことなどないと、コンラッドは確信している。いつだって神経は張り詰めたままだ。自分はもう、戦地に行く前の自分には戻れない。
相手が年若い王子であるというのに、原液みたいなその感情を手加減せずそのまま言い返しそうになる。
コンラッドはとっさに机の上に手を伸ばし、何も書いていない便箋を掴んでくしゃくしゃに丸めて、ぽいっと机の後ろに投げた。
ヒューゴーに憎まれ口を叩きたくなるのは戦場で習い性となった「隙を見せた相手はすかさず痛めつけねばならない」という嗜虐心めいたものが自分の中に依然としてあるからだ。そればかりか、おそらく誰かに罰されたい破滅志向もあるのだろう。
そんなもの後生大事に抱えて何になると思い直して、投げ捨てたのだ。
なるべく穏便な表現で、穏当な会話を試みる。
「オッサンなので、いい加減疲労に勝てなくなっているみたいです」
「つまり、この時間は机に向かっていても仕事にならないんだろう? 寝ればいいのに」
黙れ小僧、お前に何がわかるんだ。
(だめだだめだ、大人になれ。俺は王子の秘書官だ。あの戦場を生き延びて、今度はこの白い戦場で生きていくと決めただろう。少なくとも、この王子をどうにか王室外交のできる一角の人物に育て上げるまで……)
果てしない。
自分で思い描いた未来があまりにも遠く感じられて、コンラッドは奥歯を噛み締めた。
よほど別の人物にすげ替えられるものならそうしたいと言いたいところであるが、そんなあてはない。人間は育てなければ育たない、当たり前のことだ。
それに、王族の生まれというのはそれ自体が価値のあるものなのだ。
たとえどれほど王家に不信を抱く者でも、実際に当人と面と向かうと「生まれ育ちの貴さ」に圧倒される。王家に生まれた者とは、そうでなければいけない。
そういった選ばれし人間だからこそ、できることがある。
ヒューゴーにはぜひともその自覚を持ってもらいたい。
まだ政情不安定な昨今、他国との関係に揺らぎが見えたときに真っ先に手を打つとして「国民に愛される王室」は強力なカードになり得るのだ。
なんのために、数百年もの間国と国を結びつける手段としての「政略結婚」なるものが政治の選択肢としてあったのか。それを決して軽視すべきではない。
時代が変わりつつあるとしても、使えるうちは使うべきだとコンラッドは考えている。それこそ、荷物に余裕があるのであれば腐った食べ物とていざというときのために持ち運ぶ。そのくらいの気構えだ。
もちろん一番良いのは腐らせないことである。
そのためにも周囲の人間がときに手本となり、ときに叱咤する教師ともなって、しっかりと彼に教えるのだ。
他の人間に丁寧に接し、常に親切であること。嘘をつかずに正直な発言を心がけ、笑顔を見せること。
ヒューゴーには、そばにいる人間が「この方のために、力になりたい」そう思って自然に動いてくれるような王子になってもらう必要があるのだから。
コンラッドは椅子から立ち上がる。
正しい人間を育てるために、自分が手本とならなければいけない。「俺が?」という内なる言葉は封殺する。
「わかりました。殿下は私の体を気遣ってくれているのですね。ありがとうございます。殿下が部屋からいなくなってくれたら寝ますよ」
「そう言って、また椅子で寝るんだろう? 心配だからコンラッドがベッドで寝るのを見届けてから部屋に戻るよ。えーと、寝かしつけっていうのかな?」
「言わせねぇよ、あ、いや、なんでもありません。その気遣いは死ぬほど不要ですのでさっさとお帰りください。ドアはあちらですよ」
「そうだ、よく寝られるように何か軽く食べたらどうだろう?」
まったく会話が噛み合っていない。
(俺がおかしいのか? いや、俺は部屋を出て行けって言ったよな。なんで無視されたんだ?)
いまは空腹ではない。普段から寝酒の習慣もない。人の気配があると寝られない。
全部言わなければ伝わらないのか? と思ったが、いちいち説明するのは面倒過ぎると言う前から徒労感に襲われた。
コンラッドが言い返さなかったことを都合よく解釈したらしく、ヒューゴーは「実はおやつを持ってきているんだ」と言いながら、ローテーブルに何かを広げ始めた。
机の上の灯りを手にして、コンラッドはそちらへ向かう。
ピクニックセットでも作ってもらっていたのか、ヒューゴーはバスケットから次々と食べ物を取り出しながら言った。
「以前、私がこの部屋でメイドを呼ぼうとしたら『何時だと思っているんだ。起こされる側のことを考えろ』とコンラッドに叱られた。だから、起きているうちから準備してもらったんだ」
「俺が寝ていたら無駄になっただろう」
「寝ていたけど起きたから無駄にならなかった」
それは……という説明をコンラッドは放棄した。もう労働時間外だというのに、いつまでも秘書官の仕事をしているのも馬鹿らしいと割り切ったからだ。
ヒューゴーと向かい合う席に座り、並べているものを眺めてみる。
そのうちのひとつ、切り分けたレモンケーキを見つけて考える前に手が伸びた。
目ざとく気づいたヒューゴーが、ぱっと笑顔を向けてくる。
「コンラッドの好物を考えてお願いしたんだ」
手にしただけで、コンラッドはまだ口にしていなかった。だが、期待のまなざしを向けられていたのでひとくち食べて、噛みしめる。口の中に甘酸っぱさが広がる。昔よく食べた、懐かしい味だった。
懐かしさを感じたことに大いに動揺して、コンラッドは咳込んだ。
「飲み物もいる?」
ヒューゴーが気を遣ってくる。大丈夫ともいらないとも言えないまま、コンラッドはもう一口レモンケーキを食べてから、間をもたせるように呟いた。
「少し昔のことを思い出して、喉に詰まっただけです。よく食べました。シャーリーとあなたのお姉様と……」
言ってから、ふっと思い出した。
(あれから何日経った……?)
バーナードと会った日に心配事を聞き、旧友であるシャーリーに「時間があるなら見に行って欲しい」とお願いした。そのシャーリーから「自分がしばらく滞在するので、あなたは来なくていい。心配いらない、万事順調」という伝言があり、素直に受け止めて仕事に没頭していた。
王宮主催の行事に招聘するはずの隣国の音楽家が行方不明になったと聞いて、対応に追われていたのだ。
その音楽家の素性が問題だった。隣国の王子である。
ただでさえ最近まで戦争をしてい相手国から人を招くのは国民感情を考えると難しい中、両国で友好を深めるための行事の必要性を訴えかけたところ「行く」と快諾してくれたのだ。
うまくいけばかなり効果の見込めるイベントになるはずであったが、隣国とのやりとりがある時点から妙にやりにくくなった。それでも諦めずに連絡を取り続けたところ、なんと数日前に「当人が姿をくらませてしまって、捜索中だ」と打ち明けられたのだ。
おかげで、単純に断られるよりも難しい事態となってしまった。
王子自身が素晴らしい音楽家で、そのピアノコンサートを行事の目玉として計画を進めていたのである。「では他の方で」とはいかない。
一般に向けて発表をする前の段階であったが、コンラッドの敵は王宮内に無数にいるので噂が広まるのは時間の問題であった。
コンラッドとしては自分のことはいくら悪く言ってくれても構わないといったところだが、問題は「隣国と仲良くやっていくのはやはり難しい」という論調に力を与えてしまうことである。
どうにか表沙汰になる前に代替案を……と奔走していたのがここ最近の多忙の理由であった。
ヒューゴーも事情は知っているだけに、コンラッドのことを心配していたのだろう。
言葉を選びながら言ってきた。
「予定していたコンサートの開催が難しくなっていると、聞いた。その……交流行事には先方の国の高官か誰か他の王族に来てもらい、コンサートは国内の音楽家主導で開催することはできないだろうか」
「ああ、まあ、それが現実的ですね」
その方針でコンラッドも考えていた。そしてちらちらと浮かんでは否定してきた案がある。その案を採用しないために、他の手段を探っていたとも言える。
しかし、ヒューゴーはコンラッドにそれから目を逸らすなとばかりに、思い知らせるように言ってきたのだった。
「痩せ我慢をしているよな。『歌姫』に協力願うことを真剣に考えたほうがいいんじゃないだろうか?」




