51 儚くも強く
「万事順調、何事もなし。『焦って顔を出す必要はない』って伝えておいてね、アーシュラ公爵閣下に。そうでも言わないと時間やりくりして来ちゃうだろうからさ。寝る間もないくらい忙しいくせに」
泊まり込みに必要な着替えなど、細々とした私物を運んできたカミングス伯爵家の使いにシャーリーは玄関先でそう言付けて帰していた。
対応に出たヘンリエットがドアの外まで見送りに出ようとしたところ、シャーリーは丁重に礼を言ってから「荷物は自分で部屋に運びます」とトランクケースとバスケットを持ち上げる。
「お手伝いするよ!」
キャロライナのスカートの陰に隠れて見ていたノエルが、ぱっと顔を出した。
「なんだって。紳士に気遣われたのは百年ぶりだな」
軽々と両手に荷物を持ったシャーリーは、おどけたように言って笑う。「そうだな……」と思案するように呟きながらバスケットを持つ手を軽く上げて「こっちかな?」とノエルに片目を瞑ってみせた。
「うん!」
「待って、私が」
やる気で走り出したノエルの後にキャロライナが続く。どう見てもノエルの手に負える荷物には見えなかったせいだ。
ノエルの頭越しに手を出したキャロライナに、シャーリーは肩をすくめて「開けてみて」とバスケットを突き出した。言われるがままにキャロライナが蓋を開けると、すかさず「その一番上の包みを紳士に渡してあげて」と目当てのものを示す。素直にそれを手にして、キャロライナはノエルに渡した。ずしっとした重みがあった。
「ノエルには少し重いかもしれないわ。気をつけて持ってね」
「大丈夫だよ、軽い。なんだろう、すごく甘い匂いがする!」
布にくるまれた包みを手にしてノエルは目を見開いた。「勝手に開けちゃだめよ」とハラハラしながらキャロライナが釘を刺す。
「私が思うにそれはレモンケーキだな。奥様に渡して夕食後のデザートに加えてもらってもいいけど、小腹に余裕があるならいま食べてしまってもいいよ。荷物が軽くなって私も助かる」
唇の端を吊り上げて笑い、シャーリーは荷物を持って二人の元から立ち去ろうとする。キャロライナはその背中に駆け寄って「持ちますよ」とバスケットに手を伸ばした。
肩越しに振り返ったシャーリーは「大丈夫だ」と目を細めてキャロライナの頭からつま先までさっと見た。
「お嬢さんは私の以前の主に似ている。腕の細さが特にね。主にこの荷物は持たせられない」
「あなたはお客様で、私は主さんではないです」
「そういう考え方もあるけど、実のところ私はお嬢さんの護衛としてこの屋敷にいるんだ。擬似的な主従関係と言って良い。という表現で納得しないなら『アーシュラ公爵閣下の命令だから』と言うべきかな? 閣下はこの家族を……そうだな、偏愛している」
偏愛、と聞き慣れない言葉をキャロライナは口の中で繰り返した。
ふっと小さく笑うとシャーリーはすたすたと歩き、ピアノ室まで進んだ。結局手ぶらのままついてきたキャロライナに「ドアを開けてくれるかな?」と言う。
余計なもののないがらんとしたピアノだけの部屋である。普段と違う光景といえば、ピアノの下にひとが倒れているくらいだ。
「おい、そこのサボり。音楽を奏でるのがいまの仕事だというのなら、指が折れるまで弾けばいいものを。何をのんきに寝ているんだ」
トランクケースを壁際に置いて、シャーリーは寝転がっているニコラスに容赦のない口ぶりで声をかけた。
「ニコラスさんもお客様で、十分に働いてくださってまして……」
乱暴な会話に慣れないキャロライナが、どこまで本気か計りかねてとりなすように懸命に訴えかける。その焦りには気づいているだろうに、シャーリーは「まだまだこんなものではないですよ」と極めてそっけなく告げた。
「実は私はこの男が……そうですね、ノエルくんよりもう少し大きいくらいから知っているんですけど、なんと子どもの頃のほうが働いていたんですよ」
「え……ええええっ、そ、それって、幼馴染さんですか!?」
思いがけない告白に、キャロライナは過剰な反応を示した。後ろからついてきたノエルも、自分の名前が出たことで「えー?」と声を上げている。
シャーリーは気を良くしたように笑顔になった。
「ここで再会するとは思っていなかったので、私もびっくりしましたけどね。まあ私とあの男に縁のようなものは昔から今に至るまで何も無いので、運命の神様というのがいるにしても間違えただけだとは思いますが」
知り合いだけど無関係だし思い入れも何もない。シャーリーが言っているのはそういうことである。
ふう、と重い溜息をつきながらピアノの下に半身をつっこんでいたニコラスが体を起こした。そのまま足をかばいつつ、のそのそと椅子まで這い上がる。
「ずいぶん失礼なことを考えていたんだな、姫君の護衛は。育ちの割に口が悪いと言うべきか」
「つるんでいた相手の影響かもしれません。多くの命が失われたあの戦争がなければ、継ぐ爵位もなく平民になっていたような男が友人で」
何気なく始まった会話に、キャロライナは落ち着かなくドアの方を見た。ノエルを連れて出て行くべきか悩む仕草だった。
ニコラスもシャーリーも気づいてはいたが、構わずに話し続ける。
ピアノの蓋を開けながら、ニコラスは「友人ねえ」と言って鍵盤に手を置いた。
「私に友達がいてはいけませんか。あなただって、どなたかの話をしていたでしょう」
「音楽をかじったことのある相手に名前を言えば、十人に一人ないし百人に一人は知っている奴だ。戦時下ではおよそ演奏すらかなわない四管編成の大曲を遺している。歌曲だ」
前を見たまま、ニコラスは独白のように答えた。
抑揚もなく平坦な声でことさら張り上げているわけでもないのに、深く響く。音楽的な美しい声であった。
「あなたはその曲を演奏したいのですか」
シャーリーの質問に、ニコラスは何の変哲もない天井をゆっくりと見上げる。
「そのために生かされている」
言い終えてから、首を回してシャーリーに視線を向けてにやりと笑った。
「僕の話はいい。そちらの友人の男の話でも聞こうか」
「生きていますよ。私の主は死ぬ間際までずっと彼のことを気にかけていました。もし自分が彼の帰りを待たずに死んでも戦場にいる彼へ知らせなくていいと私に何度も強く念押ししていたので、言いませんでした。それで私、帰ってきた彼にちょっと怒られたんです。二人の間に挟まれて理不尽なことだと思いました」
口を挟まずに聞いていたニコラスは、首を傾げて「友人?」とだけ呟いた。
その一言だけで通じるものがあったように、シャーリーは苦い笑みを浮かべた。
「私の主とは気軽に会える身分ではないひとだったので、一度提案したことがあるんです。『私の夫になれば、いまよりも堂々と主に面会することができます。もちろん形式上の夫で、私を愛する必要はありません』と。断られましたけどね。いい考えだと思ったのですが」
じーっとニコラスはシャーリーを見つめ続けている。「やめてください、穴が開く」とシャーリーは横を向いた。
立ち去るタイミングを失っていたキャロライナがそこにいて、ばちっと目が合った。シャーリーは照れたように薄く笑った。
言葉もなく、キャロライナは立ち尽くしていた。
鍵盤を一音指で叩いたニコラスが、やはり平坦な声で呟いた。
「皮肉なものだな。男の身分が追いついたときにはもう姫君はこの世のひとではなかったのか。どうあっても結ばれない恋愛など、詩や劇の題材で十分だというのに」




