50 あるべきものを、あるべき姿へと
本当のところを言えば、チェリーとて歌の練習は必要だと思っている。
家庭菜園でしゃがみこんで雑草を抜きつつ、もう音の聞こえなくなったピアノ室を意識してちらちらと屋敷の方を見ては溜め息をついていた。
(いまの私は、頭の中で鳴り響く姉さまの歌を真似ているだけ。姉さまが生きた証を残す意味でも録音には協力するつもりと言ってしまったけど……)
本格的にレコードを作るのはこれからであるが、コンラッドの用意した録音機器に向かって歌ったことはある。機械を通して、どんな風に自分の声が聞こえるのかはまだ聞いていないのでわからない。
「……どう、なんだろう」
麦わら帽子の陰から晴れ渡った空を見上げて呟く。
その途端、これまで目を逸らしてきた恐怖が心の中でいっせいに噴き出し、背筋にぞくっとした悪寒が走り鳥肌が立った。
冷静に考えてみれば、上手いはずがない。チェリーは歌えてなどいないのではないか。
ラモーナは毎日歌っていた上に、蜂蜜を舐めたりして喉に気を遣っていた。それにひきかえ、子どもの頃一緒に歌っていただけでろくに曲に合わせたこともないチェリーの歌唱力は、かなり劣るはずだ。
(バーナードさんに暗に練習をすすめられたのも……あれっ、もしかして「今のままじゃ人に聞かせるのは厳しい」という意味でしたか!?)
前日、バーナードに「君も音楽を習いたいと思っているんじゃないか」と言われたとき、チェリーは勢いよく否定してしまっていた。バーナードはものすごく何か言いたそうにしていたが、それ以上会話している時間もなく話は途中までとなってしまっている。
実のところ、チェリーはその時点ですでにニコラスの奏でる音楽に惹かれるものを感じていた。
チェリーの拙い言葉で表せばそれは「気になる」であり「好き」だ。
それをバーナードにうまく伝えられる自信がなかったために、ばっさり断ってしまったのだ。
(日常的に「好き」という言葉を口にすることはあまりないので、いざとなると言いにくいんですよね。「バーナードさんに対する気持ちとは全然違います、あの方の音楽が好きなだけです」って前置きするのも不自然ですし)
さらに言えば単純に「仕事を投げ出して音楽に時間を使うだなんて、自分には贅沢すぎる」という気持ちも少なからずあった。バーナードと結婚したからと言って平民の生まれは変わらない。いきなり貴族の奥様のように振る舞うなんて、分不相応すぎるという気持ちがあった。
バーナードに言えばもちろん「君は使用人ではなく、俺の妻だ」と言ってくれるだろう。場合によってはチェリーの仕事を丸ごと引き受けられるよう、新たに人を雇うこともしてくれるかもしれない。
たしかに、結婚しているのだからどこかのタイミングでチェリーは「貴族の奥様」になる必要はある。チェリーにはまだその覚悟が備わっていない。
チェリーは「変化」を恐れていた。
ぶちぶちと雑草をむしり取り、チェリーは自分の気持ちをひとつひとつ確かめる。バーナードのことは「好き」だ。一緒にいたい。そのために何をどうするのが最善なのか。
恐ろしいことに気づき、思わず声に出してしまった。
「好きって」
自分はこれまで、バーナード本人に対して言ったことがあるだろうか?
(プロポーズをされて、結婚するということに同意はしているけど……。もしかして私、自分から「好き」とは言ってないし「好き」とも言われていない?)
ぞっとしながら立ち上がったとき、ピアノ室から曲が聞こえ始めた。
胸の中にするりと流れ込んできて、傷口に触れるような優しい音色だった。ニコラスはこんな弾き方もできるのかと、チェリーは思わず屋敷の方を振り返る。
さくっと草を踏みしめる音がした。
視線を向けた先には、外出から戻ってきたらしいバーナードが立っていた。今にも声をかけようとしていたかのように、口を開きかけてチェリーを見つめていた。
言葉もなく見つめ合う。
ピアノの音は鳴り続けている。
バーナードはゆっくりとまばたきをしてから「ただいま」と言った。
その声を耳にして、チェリーは自分がひどく緊張していたことに気づく。ほっと息を吐き出しながらバーナードを見つめてなんとか表情筋を動かして笑いかけた。
「おかえりなさい。お疲れでしょう、まずはお茶をご用意しますよ」
** *
チェリーはお茶をいれるだけで休むつもりはなかったのに、キッチンで顔を合わせたマリアに「洗濯物取り込んでおきますね。お二人でごゆっくり」と言われて立ち去られてしまった。
部屋に荷物を置いてきたバーナードが入れ替わりにすぐ戻ってきて、お茶の準備を当たり前のように手伝おうとしてくる。
「休んでいてください! 裏のベンチに座っていて!」
訴えかけても「あ、でもそこの高い棚に鍋戻しておくよ」と片付けそびれていたキッチンの器具まで片付け始めるので、チェリーは思い切って広い背中に両手をついてぐいぐいと裏口へと押した。
諦めてバーナードが出て行ったのを見届けてから、チェリーはハッと我に返って自分の両手を見る。
(すっごく固い背中だった……)
チェリーより体温が高いのだろう、固い感触だけではなく温もりも手のひらに残っていて、意識してしまうと落ち着かなくなってきた。
つとめて気にしないようにしながら手早くお茶のセットを揃えて、ジンジャーブレッドケーキを添えて裏口から出る。
さぁっと緑の匂いを含んだ風が吹いた。
気持ち良さそうに目を細めていたバーナードが、チェリーに気づいて微笑んでくる。
「いつもありがとう」
「いえいえ、私は自分にできることをしているだけです。今日は朝からお疲れ様でした。呼びに来たのはコリンですよね、お母様の熱はいかがでしたか」
「できる限りのことはしてきた。お父様がいないみたいで、お母様が伏せてしまうと食事の用意も大変みたいだったから、少し手伝ってきたけど……後でまた何か届けようかと」
「わかりました。日持ちのするものをご用意いたしますね」
必要な会話をしながらお茶のカップを差し出す。バーナードは礼を言いながら受け取り、喉を潤してジンジャーブレッドをあっという間に一切れ食べてからほっとしたように表情を和ませた。
「チェリーさんが我が家にいなかったらどうなっていたことか。想像するのも恐ろしいよ。母上さまは本当に引きが強い。運が良いんだろうな。俺は今まで生きてきて運が良いと感じたことはあまりないのに。ああ、でも生きて戦後を迎えている時点でおそらくかなり強運なんだろう……」
軽口を叩いていたバーナードが、不意に言葉を詰まらせた。
これまでも、なんでもないことのように戦時中の話をしてから、遅れて思いがこみあげてきたように動きを止めてしまう姿はチェリーも何度か見てきた。黙って空になったカップにポットからお茶を注ぎ足す。
凍りついたようなこの場の時間が動き出すのを、ゆっくりと待つ。
梢が風にざわめいた。
鳥が鳴き、いつの間にか止まっていたピアノの音が再開した。
(聞いたことのない曲だわ。私はあまり曲を知らないから珍しいことではないのだけれど、なんだかすごく気になる。綺麗な……綺麗すぎる)
ニコラスの演奏も巧みなのだろう。頭の中に染み込んでくる。初めて聞いたはずなのに、もう懐かしい。知らないはずなのに、その先もすごく「好き」になるという確信がある。
もしこの曲に歌があったらどんな風に響くのだろうと、あれこれと想像が湧き出して止まらなくなった。
隣のバーナードの気配ではなく、意識を凝らして探るのはここではない場で鳴り続けているニコラスのピアノの音だった。
やがて曲が終わったとき、チェリーは自分が息を止めていたことに気づいて深く呼吸をした。
ふと視線に気づいて横を見ると、バーナードがチェリーを見ていた。
「彼の弾くピアノは、本当にうつくしいね」
まるで次の演奏の邪魔にならないように気を遣っているかのように、バーナードは声をひそめてひっそりと囁いてくる。あまりにも控えめだ。誰のためにバーナードがそう振る舞っているのかと言えば、チェリーのために他ならない。
真剣に聞いているチェリーの妨げにならないようにと配慮しているのだ。
ニコラスに対して身を引くかのような慎ましさで、チェリーは胸が押し潰されるような申し訳なさを感じた。
「とても、とても綺麗だったと思います。でもバーナードさんがそんなに声量を落とす必要はないですよ。普通におしゃべりしてくれたほうが私は嬉しいです」
「そう?」
なぜかはぐらかすように言ってから、バーナードは視線を前方の木立へと向けた。チェリーの方を見ないまま話を続けた。
「ニコラスの音楽の才能は本物だ。彼はチェリーさんが音楽の勉強をするべきだと考えているみたいだし、その手助けも快くしてくれるだろう。俺はその機会を逃すべきではないと思う」
「私が勉強、ですか……?」
そんな贅沢なことはいけないと言ってこの話を終わらせたいのに、どうしてもその一言が出てこない。むしろ、正反対の思いがいまにも口をついて出てしまいそうだった。
チェリーは苦労してその思いを隠そうとしているのに、バーナードはこともなく言い当ててしまう。
「チェリーさんには、ニコラスが必要だ。彼から音楽の手ほどきを受けるべきだと俺は思う。勉強は何も特別なことじゃない。あるべきものを、あるべき姿に戻すだけだ。君があの戦時中に望むべくもないとして失ったことを、これからでも遅くないと取り戻して欲しい」
その言葉に嘘はないのだろう。チェリーの胸に痛いほどに響いてくる。
泣き出しそうなほど嬉しい。それなのに、素直に喜べない。
(どうしてそんな大切なことを、私の方を見ないで言うのでしょうか)
バーナードの横顔を見て、チェリーはついに聞きたかったことを口にできないまま俯いた。胸がズキズキとする。
同時に、音楽を習うべきだと言われたことに心は早くも走り出そうとしていた。現金なものだ。
目を合わせないバーナードの様子を気にかけながらも、断るという選択肢はもはやチェリーの中にはなく「わかりました」と返事をしたのだった。




