第3節 月鈴花が教えてくれた秘密
――見間違い、だったのかな。
私は寝台の中で、昨夜の出来事を思い返していた。
窓の外に見えた黒い影。
月明かりの下で、ほんの一瞬だけ動いた人影。
あれが本当に誰かだったのか、それとも木の枝が揺れただけなのか。
結局、確かめることはできなかった。
「……うー」
私は小さな手を握りしめた。
今の私には、窓まで歩いていくことさえできない。
ましてや、怪しい人物を追いかけるなんて絶対に無理だ。
……赤ちゃんって、こんなにも不便だったんですね。
でも、昨夜はもう一つ気になることがあった。
月鈴花だ。
私が魔力を意識すると、あの白い花は淡く光る。
そして、あの影を見た直後にも、花は光った。
……偶然?
それとも、何か関係があるの?
「リリア様、おはようございます」
考え込んでいると、侍女のマリアが入ってきた。
「今日もよく眠れましたか?」
「あぅ」
「まあ、可愛らしいお返事」
マリアは微笑みながら私を抱き上げた。
「今日は旦那様から、リリア様のお部屋に新しいものを置くようにとご指示があったんですよ」
……新しいもの?
まさか、またぬいぐるみでしょうか。
すでにお兄様からもらった白い兎があるのに。
「ふふっ。何だと思います?」
マリアは楽しそうに言った。
「小さな鈴ですよ」
……鈴?
「魔除けのお守りとして、昔から使われているものだそうです」
マリアは窓際を指さした。
そこには、銀色の小さな鈴が飾られていた。
細い紫色の紐に結ばれた、可愛らしい鈴。
……魔除け。
その言葉に、私は少しだけ緊張した。
もしかして、お父様は何かに気づいているのだろうか。
「旦那様は、リリア様が安心して眠れるようにと」
マリアが優しく笑う。
「本当に、お優しいお父様ですね」
……はい。
それは、よく知っています。
でも。
あの鈴が、ただのお守りとは思えなかった。
◇
朝食の時間が過ぎた頃。
お母様が私の部屋を訪れた。
「リリア、おはよう」
「あぅ!」
「まあ、今日はご機嫌ね」
お母様は私を抱き上げ、頬を寄せた。
「昨日はよく眠れた?」
「うー」
「ふふっ。そう。よかったわ」
……お母様。
実は、ちょっと怖いものを見たんです。
そう言えたら、どれほど楽だろう。
でも、今の私には赤ちゃん言葉しか出せない。
「そうそう、リリア」
お母様が窓際を見た。
「月鈴花が、また綺麗に咲いているわね」
私は思わず花を見つめた。
白い花びらは、朝の光を受けて静かに揺れている。
「この花はね、昔から『幸せを知らせる花』とも呼ばれているのよ」
……幸せを知らせる花?
「大切な人のそばで咲くと、光が強くなるという言い伝えがあるの」
お母様は懐かしそうに微笑んだ。
「もちろん、ただの昔話かもしれないけれど」
私は目を瞬かせた。
大切な人のそばで光る。
……それって。
もしかして、私の気持ちに反応しているの?
家族を守りたいと思ったとき。
月鈴花は、いつも強く光っていた。
偶然だと思っていたけれど。
もし、本当に感情と関係があるのなら……。
「……あぅ」
私は小さな手を伸ばした。
「リリア?」
お母様が首を傾げる。
「お花が気になるの?」
「うー!」
「ふふっ。そんなに好きなのね」
お母様は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もう少し近くで見てみましょうか」
……えっ。
いいんですか!?
私は目を輝かせた。
お母様は私を抱いたまま、窓際へ近づいた。
月鈴花が、すぐ目の前にある。
白い花びら。
淡い香り。
そして――。
ほんの一瞬。
花の中心に、小さな光が灯った。
「……!」
私は息を呑んだ。
お母様も気づいたらしい。
「あら?」
花を覗き込む。
「今、光ったかしら?」
「……あぅ」
私は慌てて視線を逸らした。
……しまった。
近づいただけで反応するなんて。
これでは、いつかバレてしまう。
「不思議ね」
お母様は穏やかに微笑んだ。
「リリアが来ると、嬉しいのかしら」
……お母様。
そんな可愛らしい理由だったら、どれほどよかったでしょう。
◇
昼過ぎ。
お兄様が、いつものように私の部屋へやってきた。
「リリア!」
「あぅ!」
「今日はね、面白い本を見つけたんだ!」
お兄様の手には、少し古びた本があった。
表紙には、銀色の月と白い花が描かれている。
……あれ?
その花、月鈴花に似ている。
「これは、昔の魔法について書かれた本なんだ」
お兄様は嬉しそうに言った。
「先生が、図書室の奥にあったものを貸してくれたんだよ」
……お兄様!
素晴らしいです!
私は思わず手を伸ばした。
「そんなに気になる?」
「きゃう!」
「よかった!」
お兄様は椅子に座り、本を開いた。
「えっと……『月鈴花は、古くから魔力を感じ取る花として知られている』」
――やっぱり!
私は心の中で叫んだ。
「『通常は夜に淡く光るが、強い魔力や特定の感情に反応すると、昼間でも光を放つことがある』」
……特定の感情。
やっぱり、関係があるんだ。
「へえ。不思議な花だね」
お兄様は感心したように言った。
「リリアのお部屋にある花も、そうなのかな」
「……うー」
私は少し緊張した。
お兄様がページをめくる。
「『ただし、月鈴花が強く反応する魔力には、いくつかの種類がある』」
……種類?
「『一般的な魔力のほか、守護や癒やしに関わる力にも反応することがある』」
私は目を見開いた。
守護。
癒やし。
その言葉が、胸の奥に残った。
……もしかして。
私の力は、そういうものなの?
ゲームでは、リリアーナは魔法が苦手だった。
だから、聖女候補と比較されて苦しんだ。
でも。
今の私には、何か別の可能性があるのかもしれない。
「リリア?」
お兄様が顔を覗き込んだ。
「難しかった?」
「あぅ!」
「ふふっ。そうでもないみたいだね」
お兄様は優しく笑った。
「リリアは本当に賢いなあ」
……お兄様。
褒めすぎです。
でも、嬉しいです。
「僕ももっと勉強しないと」
お兄様は本を閉じた。
「リリアに何でも教えてあげられる兄になりたいからね」
私は胸が温かくなった。
お兄様。
あなたは、もう十分素敵なお兄様です。
「……あぅ」
私は小さな手を伸ばした。
お兄様の指を、ぎゅっと握る。
「……!」
お兄様が固まった。
「リリア……!」
そして、嬉しそうに笑った。
「僕、もっと頑張るね!」
……あ。
またやる気を出させてしまった。
でも。
お兄様が笑ってくれるなら、それでいい。
◇
夕方。
お父様の執務室では、執事長が一通の報告書を差し出していた。
「旦那様。昨夜の巡回について、ご報告がございます」
「……何かあったのか?」
「東側の庭園付近で、不審な足跡が見つかりました」
お父様の表情が険しくなる。
「屋敷の敷地内か?」
「いえ。外壁の外側です」
「……そうか」
お父様は少し考え込んだ。
「侵入の形跡は?」
「今のところ、ございません」
「警備を緩めるな」
「かしこまりました」
執事長は頷いた。
「それから、もう一つ」
「何だ?」
「例の紋章について、少しだけ分かったことがございます」
お父様が顔を上げた。
「話せ」
「王都の紋章商が、数年前に同じ印を扱ったことがあるそうです」
「依頼人は?」
「記録には残っておりません。ただ、古い帳簿に一つだけ、手がかりがございました」
「……手がかり?」
執事長は静かに言った。
「『月の守り手』という言葉です」
お父様の目が細くなった。
「月の守り手……」
「ご存じですか?」
「いや」
お父様は首を横に振った。
「だが、気になる名前だ」
執事長は深く頷いた。
「引き続き調査いたします」
「ああ。頼む」
お父様は窓の外を見つめた。
そこには、夕暮れの庭園が広がっている。
「……リリアには、何も起こさせない」
その声は、静かだった。
けれど、強い決意が込められていた。
◇
その夜。
私は、また月鈴花を見つめていた。
今日、お兄様が読んでくれた本の内容を思い出す。
守護。
癒やし。
特定の感情。
……もし、本当に私の魔力がそういう力なのだとしたら。
家族を守るために使えるかもしれない。
私はゆっくりと目を閉じた。
胸の奥にある、温かなものを探す。
……あった。
小さな光。
柔らかな感覚。
まるで、誰かに抱きしめられているような温かさ。
「……あぅ」
私は小さく息を吐いた。
その瞬間。
――ちりん。
窓際の銀色の鈴が、小さく鳴った。
……え?
私は目を開いた。
窓は閉まっている。
風はない。
なのに、鈴が揺れている。
そして。
月鈴花が、淡く光り始めた。
「……!」
私は息を呑んだ。
花の光が、いつもより少し強い。
白い花びらの周りに、細かな光の粒が浮かんでいる。
……綺麗。
思わず、見入ってしまった。
すると。
――ちりん、ちりん。
鈴が、もう一度鳴った。
今度は、少しだけ強く。
「……あぅ?」
私は不思議に思った。
もしかして。
この鈴も、魔力に反応しているの?
私は小さな手を伸ばした。
もちろん、鈴には届かない。
けれど。
胸の奥にある温かさが、少しだけ強くなった。
その瞬間。
――ぱあっ。
月鈴花が、柔らかな光を放った。
同時に、銀色の鈴が澄んだ音を響かせる。
「……!」
私は目を見開いた。
そして。
窓の外。
庭園の向こうで。
何かが、きらりと光った。
……え?
私は息を呑んだ。
暗い木々の間。
そこに、黒い影が見えた。
昨夜と同じ場所。
同じような人影。
……やっぱり!
誰かがいる!
「……うぅ!」
私は思わず声を上げた。
すると。
「リリア様?」
マリアが慌てて近づいてきた。
「どうなさいました?」
「あぅ! あぅ!」
私は必死に窓の方へ手を伸ばした。
「窓?」
マリアが首を傾げる。
「何か見えるのですか?」
「うー!」
私はさらに声を上げた。
お願い!
外を見て!
あそこに誰かいるんです!
マリアは私の様子を見て、少し不思議そうに窓へ近づいた。
そして、外を覗き込む。
「……あら?」
その表情が変わった。
――気づいた!?
私は期待した。
けれど。
「……何か、動いたような」
マリアは小さく呟いた。
次の瞬間。
庭園の向こうで、黒い影が素早く動いた。
「……!」
マリアが息を呑む。
「誰か!」
彼女はすぐに扉へ向かった。
「警備の方を呼んでください!」
廊下に声が響く。
私は寝台の中で、小さな拳を握った。
――やった!
伝わった!
赤ちゃんでも、ちゃんと知らせることができた!
けれど。
安心するのは、まだ早かった。
◇
しばらくして。
お父様が、騎士たちを連れて私の部屋へやってきた。
「リリア!」
お父様は真っ先に私の寝台へ駆け寄った。
「無事か!?」
「あぅ!」
「よかった……!」
お父様は大きく息を吐いた。
そして、マリアへ視線を向ける。
「何があった?」
「申し訳ございません。リリア様が窓の外を気になさっていたので確認したところ、不審な影を見つけました」
「……リリアが?」
「はい」
お父様は私を見つめた。
「お前が、知らせてくれたのか?」
「……あぅ」
私は小さく頷こうとした。
けれど、上手く動かせない。
お父様はそんな私を優しく抱き上げた。
「……ありがとう、リリア」
その声は、とても温かかった。
「お前のおかげで、気づくことができた」
私は胸がいっぱいになった。
……お父様。
少しでも、役に立てたなら。
それだけで、嬉しいです。
「旦那様」
騎士が声をかける。
「外壁付近に、何者かがいた形跡がございます」
「追跡は?」
「現在、別の隊が向かっております」
「分かった」
お父様は静かに頷いた。
「リリアの部屋の警備を増やせ。窓の外にも見張りを置く」
「はっ!」
騎士たちが動き始める。
私はお父様の胸に頬を寄せた。
……これで、少しは安心できるかな。
そう思ったとき。
窓際の月鈴花が、ふわりと光った。
「……?」
お父様が顔を上げる。
「今のは……」
マリアも驚いたように花を見つめた。
「旦那様、また光りました」
お父様はしばらく黙っていた。
そして、私を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
「……なるほど」
その声は、どこか考え込むようだった。
◇
翌朝。
私は、お母様の腕の中で朝日を浴びていた。
「リリア、昨夜は怖かったわね」
「あぅ」
「でも、もう大丈夫よ」
お母様は優しく微笑んだ。
「お父様が、しっかり守ってくださるから」
私は小さな手を伸ばした。
お母様の指を握る。
「ふふっ。ありがとう、リリア」
……お母様。
私も、守ります。
まだ小さな身体だけれど。
できることは、きっとある。
昨日だって、マリアに知らせることができた。
ほんの小さな一歩。
でも、確かな一歩だ。
「リリア!」
そこへ、お兄様が駆け込んできた。
「昨日、怖い思いをしたんだって!?」
「あぅ!」
「もう大丈夫だからね!」
お兄様は私の手を握った。
「僕が守るから!」
……お兄様。
ありがとうございます。
でも。
私だって、守りたいんです。
私はお兄様の指をぎゅっと握り返した。
「……!」
お兄様が目を見開いた。
「母上!」
「どうしたの?」
「リリアが、僕の手を握り返してくれました!」
「まあ、よかったわね」
お母様が微笑む。
お兄様は嬉しそうに笑った。
「絶対に守るからね、リリア!」
私は心の中で、小さく頷いた。
――私もです。
お父様も。
お母様も。
お兄様も。
この家族全員を、必ず守ってみせます。
そのとき。
窓際の月鈴花が、朝の光を受けて淡く輝いた。
まるで、私の決意に応えるように。
そして――。
遠く離れた王都の一室。
黒い紋章の指輪をはめた人物が、静かに呟いた。
「……月の守り手が、目覚め始めたか」
その声には、わずかな緊張が混じっていた。
「だが、まだ早い」
人物は、窓の外を見つめた。
「王家が動く前に、確かめなければならない」
そして、机の上に置かれた一通の手紙を手に取った。
そこには、短い言葉が記されていた。
『アルヴェルディ公爵家の第二子。月鈴花への反応を確認』
人物は、ゆっくりと目を細めた。
「……やはり、あの子なのか」
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
リリアーナは、まだ知らない。
自分の小さな魔力が、長い間隠されてきた秘密を少しずつ呼び覚ましていることを。
そして。
その秘密が、やがて王太子ユリウスとの運命を大きく変えることになるなど、今はまだ想像もしていなかった。
赤ちゃん悪役令嬢リリアーナの未来改変計画は、こうして新たな局面へと進み始めたのだった。




