第2節 赤ちゃんの私に、魔法の才能があるかもしれません!
――大変なことになりました。
いえ、正確には。
私がちょっと身体を動かしただけなのに、公爵家が大騒ぎになっている。
「リリアが寝返りを打っただと!?」
廊下の向こうから、お父様の声が響いてきた。
……お父様。
まだ完全な寝返りではありません。
ほんの少し、横を向いただけです。
「旦那様、落ち着いてくださいませ!」
続いて聞こえてきたのは、執事長の声。
「落ち着いていられるか! 娘の成長だぞ!」
「お気持ちは分かりますが、廊下を走らないでください!」
……ああ。
また執事長が苦労している。
私は寝台の上で、小さくため息をついた。
「……あぅ」
すると、扉が勢いよく開いた。
「リリア!」
現れたのは、もちろんお父様だった。
その後ろには、お母様とお兄様までいる。
「リリア、寝返りができたの!?」
お母様が目を輝かせる。
「リリア! 僕にも見せて!」
お兄様が身を乗り出した。
……いや、あの。
皆さん。
そんなに期待されても困るんですけど。
「マリア、本当なのか?」
お父様が尋ねる。
「はい、旦那様。リリア様がご自分で身体を横に向けられました」
「素晴らしい!」
お父様が感激したように頷いた。
「さすが、私の娘だ!」
……お父様。
寝返りと公爵家の血筋は、たぶん関係ありません。
「リリア、もう一度できるかしら?」
お母様が優しく尋ねる。
「あぅ……」
私は困った。
だって、さっきの動きだって偶然に近かったのだ。
もう一度やれと言われても。
……でも。
みんなが、こんなに嬉しそうにしている。
それなら。
少しだけ、頑張ってみようかな。
「……んっ!」
私は小さな身体をひねった。
右へ。
もう少し。
あとちょっと……!
「……んんっ!」
ころん。
身体が、ほんの少しだけ横を向いた。
「おおっ!」
お父様が声を上げた。
「できた!」
お兄様が拍手する。
「まあ、リリア!」
お母様が嬉しそうに微笑んだ。
……やりました。
ほんの少しだけですけれど。
でも。
「……ふぇ」
疲れた。
ものすごく疲れた。
赤ちゃんの身体って、本当に大変なんですね。
「リリア?」
お母様が顔を覗き込む。
「疲れちゃったのね」
「……うぅ」
「頑張ったわね」
お母様は私を優しく抱き上げた。
「今日はもう、ゆっくりしましょう」
……はい。
それがいいと思います。
私はお母様の胸に頬を寄せた。
温かい。
安心する。
すると、お父様が少し残念そうに呟いた。
「……もう一度見たかったのだが」
「あなた」
お母様が微笑んだ。
「リリアが疲れてしまいますよ」
「……そうだな」
お父様は素直に頷いた。
……お母様、強い。
この屋敷で一番強いのは、もしかするとお母様なのかもしれない。
◇
その日の午後。
私はお母様の部屋で、ゆっくり過ごしていた。
窓際には、昨日と同じ白い月鈴花が飾られている。
……あの花。
昨日の夜、確かに光った。
しかも、普通の月鈴花とは違う光り方だったらしい。
マリアが、お父様に報告していたのを覚えている。
もしかして。
あれは、私の魔力に反応したのだろうか。
「……うー」
私は花を見つめた。
白い花びら。
細い茎。
柔らかな香り。
今は、ごく普通の花に見える。
「リリア?」
お母様が私の視線に気づいた。
「月鈴花が気になるの?」
「あぅ!」
「ふふっ。綺麗でしょう?」
お母様は微笑んだ。
「この花はね、夜になると淡く光るのよ」
……知っています。
でも、昨日は違ったんです。
「昔から、不思議な花だと言われているの」
お母様は懐かしそうに目を細めた。
「魔力の強い場所では、いつもより明るく光ることもあるそうよ」
――えっ。
私は思わず目を見開いた。
魔力の強い場所?
ということは。
昨日、花が光ったのは……。
私の魔力が原因だった可能性がある!?
「……あぅ!」
私は思わず声を上げた。
「まあ、そんなに興味があるの?」
お母様がくすりと笑う。
「リリアは、お花が好きなのね」
……いえ。
正確には、魔力の方に興味があります。
でも、今はそれでいいです。
私は小さな手を握りしめた。
もしかしたら。
私にも、魔法の才能があるのかもしれない。
◇
夕方になると、お兄様が部屋を訪れた。
「リリア!」
「あぅ!」
「今日は、また本を持ってきたよ!」
お兄様の手には、昨日とは違う本があった。
少し厚めの表紙。
そこには、綺麗な魔法陣が描かれている。
「今日はね、魔法の種類について書かれた本なんだ」
――お兄様!
素晴らしいです!
私は思わず両手を伸ばした。
「そんなに嬉しい?」
「きゃう!」
「よかった!」
お兄様は嬉しそうに笑い、私の隣に座った。
「じゃあ、読んであげるね」
ページが開かれる。
「『魔法には、火、水、風、土、光などの属性があります』」
私は真剣に耳を傾けた。
「『人によって得意な属性は異なり、魔力量や適性によって使える魔法も変わります』」
……なるほど。
やっぱり、ゲームと同じ設定だ。
ゲームでは、王太子ユリウスが光属性を得意としていた。
そして、聖女候補の少女も、特別な光の魔法を使う。
一方、悪役令嬢リリアーナは、魔法の才能に恵まれていなかった。
だからこそ、周囲から比較され、劣等感を抱くようになった。
……でも。
それは、ゲームの中の話。
今の私は、まだ何も試していない。
もしかしたら、違う結果になるかもしれない。
「リリア?」
お兄様が顔を覗き込んだ。
「難しいかな?」
「あぅ!」
「大丈夫?」
「うー!」
大丈夫です!
むしろ、もっと聞きたいです!
「ふふっ。リリアは本当に本が好きだね」
お兄様は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、次は魔力の感じ方について読もうか」
――お願いします!
私は小さな拳を握った。
「『魔力は、身体の内側に流れる温かな力です』」
お兄様が読み進める。
「『目を閉じ、呼吸を整え、自分の内側に意識を向けることで、その存在を感じられるようになります』」
……昨日、私がやったことと同じだ。
ということは。
あの温かさは、やっぱり魔力だったのかもしれない。
「でもね、リリア」
お兄様が少し真面目な顔になった。
「魔法は、無理に使おうとすると疲れちゃうんだって」
……え?
「先生が言っていたんだ。魔力を使いすぎると、身体に負担がかかることもあるって」
私は思わず固まった。
……昨日、急に眠くなったのは。
もしかして、魔力を使ったせい?
「だから、僕も練習するときは気をつけているんだ」
お兄様はにっこり笑った。
「リリアも、大きくなったら一緒に練習しようね」
「あぅ……」
……はい。
ぜひ、お願いします。
でも。
その前に、少しだけ確かめたいことがあるんです。
◇
その夜。
私は寝台の中で、静かに目を閉じていた。
今日、お兄様が読んでくれた本の内容を思い出す。
魔力は、身体の内側に流れる温かな力。
意識を向ければ、その存在を感じられる。
……よし。
もう一度だけ、試してみよう。
もちろん、無理はしない。
赤ちゃんの身体に負担をかけるわけにはいかないから。
私はゆっくり呼吸した。
小さな胸が上下する。
指先に意識を向ける。
……温かい。
昨日と同じ感覚だ。
胸の奥から、何かが広がっていく。
まるで、柔らかな光が身体の中を流れているような。
「……あ」
私は小さく声を漏らした。
その瞬間。
――ぽうっ。
窓際の月鈴花が、淡く光った。
……!
私は目を開いた。
白い花びらが、ほんのり輝いている。
昨日よりも、はっきりと。
しかも。
私が意識を集中すると、光が少し強くなる。
意識を緩めると、光が弱くなる。
……まさか。
本当に、私の魔力に反応している!?
「……あぅ!」
私は思わず声を上げた。
すると。
「リリア様?」
部屋の隅にいたマリアが、こちらを振り向いた。
「どうなさいました?」
……しまった!
私は慌てて目を閉じた。
同時に、月鈴花の光も消える。
「……あら?」
マリアが首を傾げた。
「今、何か光ったような……」
私は寝たふりをした。
……すやぁ。
もちろん、本当に眠っているわけではない。
でも、赤ちゃんの寝たふりなんて、誰も疑わないはず。
「ふふっ。気のせいかしら」
マリアは優しく微笑んだ。
「おやすみなさいませ、リリア様」
……危なかった。
私は心の中で息を吐いた。
どうやら、私の魔力は本物らしい。
でも。
まだ誰にも知られない方がいい。
だって。
生まれたばかりの赤ちゃんが魔法を使えるなんて、普通ではないはずだから。
……それに。
もし、謎の人物たちに知られてしまったら。
何が起こるか分からない。
私は小さな拳を握りしめた。
――慎重に。
焦らず、少しずつ。
まずは、自分の力を知ることから始めよう。
◇
翌朝。
私は、お母様の腕の中で朝の光を浴びていた。
「リリア、今日はご機嫌ね」
「あぅ!」
「ふふっ。いい子ね」
お母様が優しく頬を撫でてくれる。
私は嬉しくなって、小さな手を伸ばした。
すると。
――ふわり。
お母様の髪が、ほんの少し揺れた。
「……あら?」
お母様が首を傾げる。
「風かしら?」
……え?
私は目を見開いた。
窓は閉まっている。
風なんて吹いていない。
なのに。
お母様の髪が、確かに揺れた。
……まさか。
これも、私の魔力?
「リリア?」
お母様が顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「あ、あぅ……」
私は慌てて笑った。
「ふふっ。可愛いわね」
お母様は何も気づいていない様子だった。
……よかった。
でも。
少しだけ、怖くなった。
もし、自分の意思とは関係なく魔法が出てしまうのなら。
誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だ。
私は小さな手を握りしめた。
――ちゃんと、制御できるようにならなきゃ。
家族を守るための力で、家族を傷つけるなんて。
そんなこと、あってはならない。
◇
その日の午後。
お父様の執務室では、執事長が一通の報告書を差し出していた。
「旦那様。少々、気になることがございます」
「何だ?」
「リリア様のお部屋に飾られている月鈴花についてです」
お父様が顔を上げた。
「月鈴花?」
「はい。昨夜も、通常とは異なる光を放ったとの報告がありました」
「……またか」
お父様の表情が険しくなる。
「原因は?」
「まだ分かっておりません。ただ……」
執事長は少し言葉を選んだ。
「魔力に反応している可能性がございます」
「魔力?」
「はい」
お父様はしばらく黙り込んだ。
「……リリアの部屋で、か」
「はい」
その言葉に、お父様は深く考え込んだ。
「魔力測定は、まだ先のはずだ」
「通常は、ある程度成長してから行います」
「そうだな」
お父様は窓の外を見つめた。
「だが……」
その声には、わずかな不安が混じっていた。
「もし、リリアに特別な力があるのだとしたら」
執事長は静かに頷いた。
「慎重に対応する必要がございます」
「ああ」
お父様は、机の上に置かれた書類を見つめた。
そこには、王宮から届いた婚約者候補に関する文書があった。
「……今は、余計な注目を集めたくない」
「承知しております」
「この件は、屋敷の中だけに留めておけ」
「かしこまりました」
お父様は小さく息を吐いた。
「リリアには、普通の子どもとして育ってほしい」
その声は、とても優しかった。
「たとえ、どんな力を持っていたとしてもな」
◇
その夜。
私は、また月鈴花を見つめていた。
白い花びら。
柔らかな光。
そして、胸の奥に感じる温かさ。
……やっぱり。
私には、何か特別な力があるのかもしれない。
でも。
それが何なのかは、まだ分からない。
ゲームの中では、リリアーナは魔法が得意ではなかった。
それなのに。
今の私は、魔力を感じることができる。
月鈴花を光らせることもできる。
もしかしたら、風のようなものまで起こしてしまった。
……これって。
かなり大きな違いなのでは?
「……うー」
私は小さな拳を握りしめた。
未来が変わり始めている。
少しずつ。
でも、確実に。
だったら。
私は、この変化を恐れたくない。
もちろん、危険なことはしない。
無理もしない。
でも。
自分の力を知りたい。
そして、いつか。
大切な家族を守るために使いたい。
「……あぅ!」
私は小さく声を上げた。
その瞬間。
月鈴花が、ふわりと光った。
まるで、私の決意に応えるように。
私は目を細めた。
……うん。
きっと、大丈夫。
今はまだ、赤ちゃんだけれど。
いつか必ず。
この力を、自分のものにしてみせる。
そして。
ゲームで決められていた悲しい未来を、絶対に変えてみせる!
――そう心に誓ったときだった。
窓の外で、何かが動いた。
「……?」
私は目を開いた。
暗い庭園。
揺れる木々。
そして、遠くに見える屋敷の塀。
そこに。
一瞬だけ、黒い影が見えた気がした。
……え?
私は息を呑んだ。
まさか。
あの不審者?
けれど、次の瞬間には何も見えなくなっていた。
私は小さな身体をこわばらせた。
……気のせい?
それとも。
本当に、誰かが見ていた?
胸の奥が、ざわつく。
私は白い兎のぬいぐるみを握りしめた。
――大丈夫。
お父様がいる。
お母様も、お兄様もいる。
騎士たちだって、屋敷を守ってくれている。
でも。
もし、あの影が本物だったのなら。
謎の人物たちは、まだ諦めていない。
私は小さな拳を握った。
――絶対に、負けません。
たとえ、どんな未来が待っていても。
私は、この家族を守ってみせる。
その決意に応えるように。
月鈴花が、もう一度だけ淡く輝いた。
そして――。
遠く離れた王都の一室で。
黒い封蝋の紋章を刻んだ指輪が、わずかに光を放った。
「……動き始めたか」
暗闇の中で、誰かが呟いた。
「やはり、あの子なのかもしれないな」
その声は、静かな部屋に消えていった。
リリアーナは、まだ知らない。
自分の中に眠る力が、ゲームの物語には描かれなかった秘密と深く関わっていることを。
そして。
その力が、王家と公爵家の運命を大きく変えることになるなど、今はまだ想像もしていなかった。
赤ちゃん悪役令嬢リリアーナの未来改変計画は、こうして新たな一歩を踏み出したのだった。




