第13節 残された手帳と、二つの日付
雨の日が、二日続いた。
庭へ出られないあいだ、私はお兄様と、小さな町を広げていた。
橋の向こうに置いた休憩の家。
その隣へ、積み木で屋根を作る。
「お馬の、ごはん、ぬれます」
私が言うと、お兄様は屋根を少し長くしてくれた。
「これなら、雨の日も食べられるね」
「はい」
木馬を下へ入れようとした。
けれど、耳が屋根に引っかかった。
「……はいれません」
お兄様が口元を押さえる。
私は木馬と屋根を見比べた。
ご飯が濡れないようにして、肝心の馬を入れられなくしてしまった。
「もう一つ、上げようか」
「はい。お耳の、ぶんです」
積み木を一段足すと、今度はうまく入った。
ちょうどそこへ、お母様が来た。
「こちらは、ずいぶん賑やかになりましたね」
私は屋根を指さした。
「お馬、入れました」
「ええ。よかったわね」
お母様は微笑み、それから私たちの前へ屈んだ。
「お父様のお話が済んだら、居間へ来てもらえますか。ベルクさんのご家族から、お預かりしたものがあるそうよ」
私は木馬から手を離した。
エドガー・ベルク。
会うことのできない人の名前を、心の中で繰り返した。
◇
居間の卓には、茶色い表紙の手帳が置かれていた。
端が擦れて、背のところを糸で補修してある。
その下には、柔らかな布。
お父様は、私たちが座るのを待ってから口を開いた。
「ベルク氏の娘さんが、関係しそうな記録を選んで貸してくださった」
「その人も、お花の、おしごとですか?」
私が尋ねると、お父様は首を横に振った。
「別の仕事をしておられる。当時はまだ子どもで、お父上の仕事を詳しくは知らなかったそうだ」
私は頷いた。
お父様のお仕事だって、私の知らないことばかりだ。
同じ家にいても、全部を知っているわけではない。
「ありがとう、いって、くれましたか?」
「ああ。リリアからの言葉もお伝えした」
お父様は、手帳の隣へ手紙を置いた。
「花が今も育っていると知って、嬉しいと返事をくださったよ」
私は白灯花の細い葉を思い出した。
その話が、また一人、別の人へ届いた。
「お花の絵、見せたいです」
「それはよいわね。写しをお送りしてよいか、伺いましょう」
お母様の言葉に、私は頷いた。
◇
手帳を開く前に、お父様が私たちを見た。
「借りている大切なものだ。頁は私がめくろう。近くで見たいところがあれば、言ってくれ」
「はい」
お兄様と、声が重なった。
最初の頁には、名前があった。
その下へ、細かな文字。
お父様が、挟まれていた紙のところを開く。
「ここに、白灯花の運搬について書かれている」
私は少し背筋を伸ばした。
「ノルン氏に預けた鉢のことだ。宿の名前と、公爵家への届け先がある」
お母様が、別に用意していた紙を見た。
「ノルン氏の覚え書きと、日付も合いますね」
「ああ。伝言も同じだ」
根が落ち着いてから、施療院へ。
何度か聞いた言葉が、今度はこの手帳にも残っていた。
「じゃあ、宿の人……ベルクさん、ですか?」
「そう考えてよさそうだ。ただ、ノルン氏にも、この記録の内容を確かめてもらおう」
私は手帳を見た。
灰色の外套。
小さな革袋。
手袋をしていた人。
名前のなかった人が、少しだけ、はっきりした。
けれど、お顔はまだ分からない。
私は想像で描こうとせず、紙に書かれた文字を見つめていた。
◇
「どうして、公爵家へ預けたのですか?」
お兄様が尋ねた。
お父様は、次の行へ指を移した。
「先代が、屋敷の庭で育てられるか試すことを引き受けていたそうだ。施療院の薬草園では、その年、育てる場所の整備が終わっていなかったらしい」
「では、最初にこちらで育て、そのあとで施療院へ移す予定だったのですね」
お母様が言った。
「ああ。その相談をつないだのが、ベルク氏だったようだ」
私は、お父様の書斎にある絵を思い出した。
宿から屋敷へ。
屋敷から施療院へ。
線は、もう引いてある。
でも、どうしてその道を通ったかは、空いたままだった。
「お花の、場所、できるまでですか?」
「そうだな」
お父様が頷く。
「迎え入れる支度が済むまで、こちらで世話をしていた」
私は、お馬の屋根を思い出した。
ご飯があっても、馬が入れなければ困る。
花も、届けばよいというわけではないのだ。
◇
頁の下には、小さな四角い絵があった。
その中に、丸い印。
お父様が紙を傾け、私たちから見えるようにしてくれた。
「これは、荷を渡すときに使った印の控えだそうだ」
月の曲線。
中央の星。
その下に、短い二本の線。
私は、お母様の袖へ指を添えた。
「王妃さまの、紙と……にてます」
「ああ。王妃陛下から送っていただいた印と、よく似ている」
お父様の声は静かだった。
私は絵へ目を戻した。
丸い印の横には、横向きの小さな輪も描かれていた。
「こっちは、何ですか?」
「指にはめて使う形の印章だ」
胸が、どくんと鳴った。
指輪。
お父様は私の顔を見て、少し待ってくれた。
私は息を吐き、絵をもう一度見た。
紙には、黒い線で描かれている。
でも、それだけでは、本物が黒かったかどうかは分からない。
「色は、ありますか?」
「この頁には書かれていない」
「……はい」
私は膝の上へ手を戻した。
見つかったと思って、すぐに決めたくなる。
けれど、これは昔の仕事の記録だ。
前世の記憶にある、あの暗い場面ではない。
「リリア」
お母様が呼んだ。
「少し離して見ましょうか」
私は頷いた。
お父様が手帳を卓へ戻すと、近くにあった絵が、少し小さくなった。
それだけで、息がしやすくなった。
◇
お話を聞いたあと、私は部屋へ戻って、ベルクさんの娘さんへ見せる絵を選んだ。
想像で描いた白灯花。
ハンナさんの絵を見て描いたもの。
施療院へ持っていった一枚。
「どれになさいますか?」
マリアが、三枚を並べてくれる。
私は最後の一枚を指さした。
「これに、お花、たします」
開きかけていた白灯花を思い出し、細い花びらを描いた。
横へ、長い葉。
一本だけ、小さな傷もつける。
描き終えるころ、お兄様が来た。
「僕が、言葉を書こうか?」
私は頷いた。
何を伝えよう。
お花はありました。
夕方に開きました。
そこまで考えて、ベルクさんの手帳の、直した背を思い出した。
「手帳、かしてくれて、ありがとう、です」
お兄様のペンが動く。
「お花、きれいでした」
「うん」
「みんなが、おせわ、してました」
お兄様は書き終えると、最初から読んでくれた。
私は頷き、紙の端をそっと撫でた。
◇
夕食の前、お父様は、王宮から来た使いの者と話をしていた。
私はマリアと一緒に、廊下で待った。
絵を見せてから食堂へ行こうと思っていたのだ。
書斎の扉が開く。
出てきたお父様は、私たちを見ると立ち止まった。
「待っていたのか」
「絵、できました」
差し出すと、お父様は受け取って目を通した。
「よいお便りだな。娘さんへお届けしよう」
いつもの声だった。
けれど、絵を持つ手とは反対の手に、折った紙がある。
お父様はそれを、上着の内側へしまった。
私は顔を上げた。
「おとうさま。何か、ありましたか?」
お父様は、一度、廊下の先を見た。
「少し、確かめなければならないことができた」
「お花、ですか?」
「王宮の、荷の受け入れについてだ」
私は唇を結んだ。
お父様が、その場へ屈んでくれる。
「今すぐ、リリアに何かしてもらう話ではない。まず、母上と話をする」
私は頷いた。
「あとで、きいても、いいですか?」
「ああ。話せることを整理してから、伝える」
お父様は、私の持っていた紙の端を直した。
「先に食堂へ行っていてくれるか。私も、少ししたら向かう」
「はい」
返事をして、マリアの手を握った。
お父様は、お母様のいる部屋へ向かった。
◇
夕食は、いつもの時間より少し遅く始まった。
お父様も、お母様も席にいる。
お兄様は私の隣にいた。
食事のあいだ、お父様は道の修繕が進んだ話をしてくれた。
私は温かいスープを飲み、パンも食べた。
でも、食後に居間へ移ると、お父様の方から、私たちを呼んだ。
「短く、伝えておこうと思う」
お母様が、私の隣へ座った。
お父様は、昼間の手帳の写しと、先ほどの紙を卓へ置いた。
「王宮の荷の受け入れ記録に、ベルク氏の名があった」
私は目を瞬いた。
「昔の、ですか?」
お父様は首を横に振った。
「今回見つかったのは、最近の記録だ」
部屋が静かになった。
私は、お母様の手を探した。
すぐに、指を包んでもらえる。
「でも……ベルクさん、もう」
「ああ。亡くなられた方が運んだはずはない」
お父様の返事は、はっきりしていた。
私は卓の上の二枚を見た。
古い手帳の写し。
新しい紙。
「おなじ、お名前の、人ですか?」
「その可能性も含めて確かめている。名前の写し間違いか、古い書類を使ったのか、それとも、誰かがその名を名乗ったのか」
お父様は一度、言葉を切った。
「王宮の警備へは、すでに伝えた。荷と書類、受け取った者の話を合わせて調べている」
私は、お母様の手を握り返した。
ずっと昔の花をたどっていた。
けれど、その名前は、私たちが生きている今の記録にもあった。
◇
「リリア。今、ここは寒くないか?」
お父様に聞かれ、私は首を横に振った。
寒くはない。
でも、指先に力が入っていた。
「少し、おとうさまの、そば、いいですか?」
言うと、お父様はすぐに隣へ来てくれた。
私はお母様の手を離し、お父様の上着へつかまった。
「だっこ、です」
「ああ」
抱き上げられる。
お兄様が、私の膝へ掛け布を載せてくれた。
私はお父様の肩へ頬を寄せたまま、卓を見た。
あの手帳は、誰かを助けるための仕事を記したものだった。
その持ち主の名前を、今、別の誰かが使っているのだろうか。
「おとうさま」
「どうした?」
「ベルクさんの、手帳。だいじに、してください」
お父様の手が、背中をゆっくり撫でた。
「もちろんだ。お借りしたものは、大切にお返しする」
私は頷いた。
怖いことと、大切にしなければならないものが、同じ名前のそばにある。
混ぜてしまわないように。
私は、ベルクさんの娘さんへ送る絵のことを、もう一度思い出した。




