第14節 届かなかった依頼と、家族で囲む朝
翌朝、お父様の席には、まだ誰も座っていなかった。
私は椅子によじ登ろうとして、マリアに支えてもらった。
座ってから、扉を見る。
昨夜は、お父様に抱いてもらったあと、寝室まで送ってもらった。
お休みを言ったときも、いつものお父様だった。
けれど、朝になると、また気になった。
王宮の記録にあった、亡くなった人の名前。
お父様が調べに行って、そのまま帰ってこなかったら。
そこまで考えて、私は膝の上の指を握った。
「おかあさま」
「はい」
「おとうさま、どこですか?」
お母様はパンを置き、私の方を向いた。
「書斎で、朝届いたお手紙を読んでいます。あとからいらっしゃいますよ」
「おうち、ですか?」
「ええ。この家にいます」
私は小さく息を吐いた。
廊下の向こうにいる。
そう分かるだけで、お腹のあたりが少し楽になった。
お兄様が、私の皿を見た。
「リリアのパンは、もう来ているよ」
私は頷いた。
今日は、冷める前に食べよう。
◇
お父様は、私がスープを半分ほど飲んだころに来た。
「遅くなった」
声を聞いて、顔を上げる。
ちゃんと、いつもの上着を着ている。
髪も、乱れていない。
「おはようございます」
「ああ。おはよう、リリア」
お父様が席へ着く。
私はその手元を見た。
今日は、紙を持っていなかった。
お母様が温かいお茶を勧める。
お父様は一口飲んでから、私たちへ顔を向けた。
「今日は午前中、王宮へ行ってくる」
匙を持った手が止まった。
お母様は知っていたらしく、静かに頷いた。
「お帰りは、お昼を過ぎますか?」
「そのつもりだ。遅くなる場合は、使いを出す」
私は匙を置いた。
「おとうさま」
「どうした?」
「帰ったら、リリアに、いってください」
お父様が私を見た。
私は膝の上へ、両手を揃えた。
「寝てたら……おきてから、です」
お父様の表情が、少し柔らかくなった。
「分かった。起きているリリアに、ただいまと言おう」
私は頷き、匙を持ち直した。
◇
お父様を見送ったあとは、お兄様の勉強が終わるまで、お母様と過ごした。
いつもなら、私も絵本を開くところだ。
でも今日は、お母様の袖へ触れたまま、窓の外を見てしまう。
馬車は、とっくに門を出ていた。
「リリア。こちらへ座りますか?」
お母様が膝を示した。
私は少し迷ってから、頷いた。
抱き上げてもらうと、窓がよく見える。
お母様の腕も、すぐそばにある。
「おとうさま、おしごと、です」
「ええ」
「わかってます」
お母様は、私の髪へ頬を寄せた。
「分かっていても、寂しいことはありますよ」
私は袖をつまんだ。
寂しいだけではない。
けれど、怖いと何度も言えば、お父様を家に閉じ込めてしまいそうだった。
「行かないでって……いっても、いいですか?」
お母様の手が、私の背をゆっくり撫でる。
「言いたくなる気持ちは、教えてください。ただ、お父様には出かけてしなければならないお仕事もあります」
私は頷いた。
「そのときは、どうしたら待ちやすいか、一緒に考えましょう」
私は少し考えた。
帰ってきたら、教えてもらう。
遅くなったら、使いの人が来る。
朝、もう約束してくれたことだ。
「リリア、お手紙、しまいます」
「ベルクさんの娘さんへのお便り?」
「はい。つぶれないように」
お母様が頷いた。
窓から離れるのは、少しだけ勇気がいった。
でも、私は膝から下ろしてもらい、机の方へ歩いた。
◇
絵は、きれいな紙と一緒に封筒へ収めた。
お母様が宛名を書いているあいだ、私は横で見ていた。
自分の名前も書けたらよいのに、と思う。
「リリアも、かけますか?」
「お名前を?」
私は頷いた。
お母様は別の紙へ、大きな文字を書いてくれた。
リリアーナ。
この世界の文字で書かれた、自分の名前。
最初の一文字を教えてもらい、真似をする。
線が、途中から曲がった。
「……ちがいます」
「ここから、もう少し上へ」
お母様の指が、紙の上を動く。
もう一度、隣へ書いた。
今度は、少し似ている。
私は嬉しくなり、三つ目へ手を伸ばしかけた。
けれど、指先が疲れていた。
「きょうは、二こです」
「ええ。続きは、またにしましょう」
お母様は、二つの文字が並ぶ紙を乾かす場所へ置いてくれた。
封筒には、まだお母様に名前を書いてもらった。
いつか、最後の一文字まで、自分で書きたい。
◇
お父様が帰ってきたのは、昼食が終わって少ししてからだった。
私はお兄様と絵本を見ていた。
扉が開き、お父様が顔を覗かせる。
「ただいま、リリア」
私は本から顔を上げた。
立とうとして、お兄様に本を預ける。
「おかえりなさい」
お父様が屈んでくれたので、そばまで歩いた。
上着の袖へ触れる。
外の空気で、少し冷たかった。
「おやくそく、です」
「ああ。忘れていない」
お父様が微笑んだ。
私は、それだけで抱っこを頼みそうになった。
けれど、お父様はまだ手袋を持っていた。
「お手て、あらいますか?」
「そうだな。そのあと、お話をしよう」
私は頷いて、お兄様のところへ戻った。
◇
居間には、お母様も来てくれた。
お父様はお茶を一口飲み、卓へ一枚の紙を置いた。
「ベルク氏の名が、どう使われていたか分かった」
私はお母様の隣で、背筋を伸ばした。
「荷を運んだ者が、その名を名乗ったわけではなかった。荷に添えられた書類に、照会先として記されていたそうだ」
照会先。
施療院の古い帳面にも、似た言葉があった。
分からないことを、尋ねる相手。
「むかしの、紙ですか?」
「昔の書類を、もとにしたらしい。だが、今回の荷に添えられた紙は、新しく用意されたものだった」
お兄様が、卓へ目を向ける。
「何を届けたのですか?」
「古い薬草書を数冊。王宮の蔵書と比べてほしい、という申し出だった」
私は、お父様の声を聞いていた。
本なら、悪いものではないように思える。
でも、お父様の話は、そこで終わらなかった。
「そして、別の添え状に、銀の装身具の点検も引き受けられると書いてあった」
私はお母様を見た。
お母様の顔は、静かだった。
私の手へ重ねられた指が、少しだけ動いた。
「王妃さまの、かざり?」
お父様は頷いた。
「月と星の意匠を持つ品、と指定があったそうだ」
◇
胸が、どきんと鳴った。
月の曲線。
中央の星。
白い石。
あの飾りへ、誰かが手を伸ばそうとしていた。
「わたしましたか?」
声が、思ったより大きく出た。
お父様はすぐに首を横に振った。
「渡していない」
私はお父様を見つめた。
「王妃陛下は、そのような点検を頼んでおられなかった。書類を確かめている途中だったため、品も、人も、奥へは通していない」
私は息を吸った。
うまく吐けずにいると、お母様が背中へ手を添えてくれた。
「リリア。ゆっくりで大丈夫」
頷いて、少しずつ息を吐く。
まだ、渡していない。
その言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。
「では、誰かが、許しを得たように見せていたのですか?」
お兄様が尋ねた。
「その疑いがある。ベルク氏の名だけでなく、月の守り手に関わる古い印も使われていた」
お父様は紙を伏せた。
「今は、誰が書類を用意し、運ぶ者へ渡したのかを調べている」
「運んだ人は?」
「話を聞いている。運ぶ仕事を頼まれただけという可能性もあるからな」
私は頷いた。
花を運んだノルンさんのことを思い出した。
荷を持っていたからといって、その中のことを全部知っているわけではない。
それでも、今度の書類には、亡くなった人の名が使われていた。
◇
「おとうさま。黒い、ゆびわは?」
尋ねると、お父様は私の顔を見た。
「今のところ、この件で、リリアの気にしている指輪を確かめたわけではない」
「……はい」
私は膝の上の手を開いた。
つながった、と思いそうになる。
けれど、まだ分からない。
指輪の人物。
書類を作った人。
飾りへ近づこうとした人。
同じかどうかは、大人たちが調べている。
「王妃さま、こわく、ないですか?」
お母様が、私の手を包んだ。
「驚かれたとは思います。でも、周りの方々と相談して、飾りも大切に保管しておられるそうよ」
「でんかも?」
お父様が答えた。
「殿下の身の回りについても、王宮で気を配っている」
私は窓辺の絵を見た。
青い小鳥と、花。
昨日までと同じように並んでいる。
殿下が、次もその絵を見に来られるように。
そう思うと、また喉が狭くなった。
◇
「リリアが、お花、きいたから……わかりましたか?」
言ってから、私は少し戸惑った。
自分のおかげだと、言いたかったわけではない。
けれど、あの日、黙っていたら。
白灯花のことを聞かず、指輪を怖がっていることも話さなかったら。
お父様は、少し考えてから答えた。
「ベルク氏の古い記録と、最近の書類を比べるきっかけにはなった」
私は顔を上げた。
「ただ、書類を確かめた王宮の者もいた。手帳を貸してくださった方も、施療院で帳面を探してくださった方もいる」
「……いっぱい、です」
「ああ。リリアの言葉も、その一つだ」
私は、お父様の手元を見た。
一人ではなかった。
知らないところで、誰かが紙を止め、誰かが帳面を開いてくれた。
そのおかげで、飾りは渡されなかった。
お兄様が、そっと私の手へ触れた。
「話してくれてよかったよ、リリア」
私は頷いた。
小さくても、声にしてよかった。
◇
その日の夕方、お父様は、私の書いた二つの文字を見てくれた。
「こちらが、リリアの名前の最初か」
「はい。こっち、二こめです」
「少し形が揃ったな」
お父様は、二つを丁寧に見比べた。
私は嬉しくなって、紙の端を押さえる。
「ぜんぶ、かけたら、お手紙、します」
「楽しみにしている」
お兄様が隣から覗いた。
「僕にも?」
「はい」
お母様を見る。
「おかあさまにも、です」
「では、三通ですね」
マリアが笑った。
私は慌てて、その袖にも触れた。
「マリアも」
「ありがとうございます。では、四通、お待ちしております」
四通。
今の私には、なかなか大変な数だった。
でも、書きたい相手がいるのは嬉しい。
私は二つの文字を、もう一度見た。
今日すぐに、全部できなくてもよい。
続きは、また教えてもらえる。
窓の外では、雨が上がった庭に、薄い夕日が差していた。
「おとうさま」
「どうした?」
「あしたも、帰ったら、いってください」
お父様は私の頭へ手を置いた。
「ああ。ただいまと言おう」
私は頷き、まだ不揃いな文字の紙を、お母様へ渡した。
「これ、しまって、ください」
「ええ。次に書くとき、見られるところへ置きましょうね」
紙は、お母様の手で大切に重ねられた。
私はそのそばに座ったまま、明日の三つ目の文字を、指先で小さくなぞった。




