第12節 約束の橋と、木馬が帰る場所
ユリウス殿下が来ると聞いた朝、私は箱の蓋を開けて、青い布があることを確かめた。
一番上。
小さく畳んで、橋の部品の隣。
ちゃんと、そこにあった。
「リリア様。ご確認は済みましたか?」
マリアに尋ねられ、私は頷いた。
「はい。あります」
「では、お支度をいたしましょう」
差し出された手を取ってから、もう一度だけ箱を振り返る。
そのとき、扉のところにいたお兄様と目が合った。
「僕も見ておくから、大丈夫だよ」
「……なくなりません」
「うん。僕も、そう思う」
お兄様は笑って、箱の蓋を閉めてくれた。
私は少し恥ずかしくなり、マリアの手を引いた。
今日は、ずっと約束していた川を作る日だ。
◇
殿下は、私が描いた青い花の絵を持ってきていた。
折れないよう、厚い紙に挟んである。
居間で挨拶を終えると、それを私へ見せてくれた。
「お手紙をありがとう。ルゥにも見せたよ」
「ルゥ、見ましたか?」
「うん。近くへ来て、首を傾げていた」
私は窓辺の小鳥の絵を見た。
本当のルゥが、私の花を見ているところを想像する。
「お花って、わかりましたか?」
「どうだろう。聞いても、返事は鳴き声だったから」
殿下が少し困ったように言う。
お兄様が、隣で笑った。
「では、また来たときに、庭の花と見比べてもらわないと」
「そうだね」
殿下は頷き、絵を丁寧に挟み直した。
私はその手元を見ていた。
前の手紙に添えた紙。
もう殿下のところへ届いたものなのに、こうして大切に持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
私が言うと、殿下が顔を上げた。
「僕の方こそ」
それから、部屋の隅へ目を向ける。
小さな馬小屋。
積み木の道。
まだ何も敷かれていない、橋の下。
「今日は、あの続きができる?」
私は嬉しくなって、頷いた。
◇
お母様が見守る中、私たちは敷物の上へ座った。
お父様は少し離れた椅子にいる。
けれど、私が箱へ手を伸ばすと、すぐに立ち上がりかけた。
「出せます」
先に言うと、お父様は腰を浮かせたまま止まった。
私は蓋を開け、青い布を持ち上げた。
両手で、落とさないように。
「これです」
「きれいな色だね」
殿下が言った。
私は頷き、お兄様へ片方の端を渡す。
畳む練習は、たくさんした。
今日は、その反対だ。
一つ開いて、もう一つ。
青い布が敷物へ広がった。
「かわ、です」
「うん」
殿下が橋を持ち上げる。
お兄様と私で布を下へ通すと、木の橋が、初めて川の上に架かった。
私はしばらく、それを見つめた。
ずっと置いてあった橋なのに、違うものに見える。
「わたれます」
木馬を持って近づけたところで、足が止まった。
道と橋の間に、少しだけ隙間がある。
「……ここ、あぶないです」
殿下が屈んで確かめた。
「本当だ。馬の足が落ちそうだね」
「板を足そうか」
お兄様が薄い積み木を選んでくれた。
三人で位置を直す。
今度は、道から橋へ、木馬を動かせた。
こつん、こつん。
木の足が、橋を通る。
渡り終えたところで、私は顔を上げた。
「できました」
殿下も、お兄様も笑っていた。
◇
橋の向こうには、まだ何もなかった。
私は箱の中から、小さな木を二つ出す。
「森にする?」
殿下に聞かれ、頷いた。
「お花も、いります」
「花は、どうしようか」
お兄様が箱を覗く。
木はある。
柵もある。
でも、花の形のものは見つからなかった。
私はお父様を見そうになって、手元へ目を戻した。
きっと、頼めば用意してくれる。
けれど、今すぐここで使いたかった。
「紙、ありますか?」
マリアが顔を上げる。
「絵を描く紙でしたら」
「お花、かきます」
私が言うと、殿下が頷いた。
「それを、木のそばへ置けばいいね」
小さく切ってもらった紙へ、それぞれ花を描いた。
殿下は、青い花。
お兄様は、赤い花。
私は、細い花びらの白灯花を描く。
「これは、何という花?」
殿下が尋ねた。
「はくとうか、です。見に、行きました」
「施療院にあった花だね」
「はい。ゆうがたに、ひらきます」
私は筆を置き、両手を閉じてから、少しずつ開いてみせた。
殿下は真剣に見ていた。
「朝には、閉じているの?」
「朝は……見てません」
答えてから、私は少し考えた。
ハンナさんの話を聞き、本の写しも見せてもらった。
けれど、自分で見たのは、あの夕方だけだ。
「こんど、ききます」
「僕も知りたい。分かったら教えて」
私は頷いた。
花の話をすると、知りたいことが増えていく。
怖いことにつながる問いばかりではないのが、少し嬉しかった。
◇
紙の花を並べ、森のそばへ小さな家を置いた。
殿下が選んだのは、箱の隅にあった、屋根の低い家だった。
「ここで休めるようにしよう」
「お馬も?」
「うん。人も、馬も」
私は木馬を家の前へ運んだ。
それから、馬小屋の方を振り返る。
「でも、おうち、むこうです」
橋を渡って、森を通って。
ここで休んだら、また帰る。
私は来た道へ木馬を向けた。
殿下は、少し黙ってそれを見ていた。
「……帰る道も、作っておいてよかった」
声が静かだったので、私は顔を上げた。
殿下は橋へ目を向けていた。
「おうち、わからなく、なりますか?」
「この馬は、大丈夫そうだね」
殿下が微笑む。
私は木馬を見下ろした。
ちゃんと道がある。
曲がっているけれど、馬小屋までつながっている。
殿下は、小さな柵を指で直した。
「僕は昨日、先生に叱られたんだ」
急なお話に、私は目を瞬いた。
「おべんきょう、ですか?」
「うん。前に習ったところを、忘れてしまって」
「……リリアも、わすれます」
殿下がこちらを見た。
「一度に?」
「いっぱい、です」
お兄様が、隣で咳をするように笑った。
私は少しだけ頬を膨らませたけれど、間違ってはいない。
字も、花の名前も。
一度聞いただけでは、全部覚えられない。
殿下は口元を緩めた。
「僕も、もう一度教えてくださいと言えばよかったのかな」
「はい」
私は頷いた。
「エルナせんせい、きいて、くれます」
お兄様も、静かに言葉を足した。
「分からない場所が伝われば、教える方も説明しやすいと思います」
殿下は少し考えてから、頷いた。
「次は、そう言ってみる」
私は木馬を、殿下の方へ差し出した。
「じゃあ、お馬、かえしますか?」
「うん」
殿下の手が、木馬を受け取る。
こつん、こつん。
橋を渡って、曲がった道を進んで。
木馬は、最初に作った馬小屋へ帰った。
◇
お茶の時間には、お父様が、私たちの作った町を見に来た。
橋の前で立ち止まり、腕を組む。
「ずいぶん立派になったな」
「三人で、つくりました」
「ああ。よくできている」
私は馬小屋を指さした。
「お馬、かえりました」
「それは何よりだ」
お父様の声が柔らかくなる。
殿下は少し照れたように、杯へ手を伸ばした。
そのあと、お父様は殿下とお兄様へ、川を渡る本当の橋の話をしてくれた。
大雨のあとには、見た目が変わらなくても確かめなければならないこと。
板を直す人がいて、道を見回る人がいること。
私は、積み木を一枚足した場所を見た。
あそこが空いていたら、木馬の足が落ちていた。
「なおす人も、いります」
呟くと、お父様が頷いた。
「そうだな。作ったあとも、仕事は続く」
私はもう一度、小さな橋へ目を向けた。
◇
殿下を見送ったあと、私はお兄様と一緒に、紙の花を片づけた。
橋と川は、今日はそのまま残しておくことになった。
「お花は、こちらへ入れておこう」
お兄様が浅い箱を出してくれる。
青い花。
赤い花。
白い花。
三枚を重ねすぎないよう並べたところで、お父様が部屋へ来た。
「リリア。ベルク氏について、一つ知らせがあった」
私は手を止めた。
エドガー・ベルク。
施療院の帳面に書かれていた名前。
お兄様も顔を上げる。
「お話を伺えるのですか?」
お父様は、少し間を置いた。
「ご本人は、すでに亡くなられていた。リリアが生まれる前のことだ」
私はお父様を見つめた。
会って、花のことを聞けるかもしれない。
知らないうちに、そう思っていたらしい。
「……もう、きけませんか?」
「ご本人からは、な」
お父様が隣へ座った。
「ただ、ご家族が、当時の仕事の書類を残しておられるそうだ。整理に時間はかかるが、関係するものがあれば見せてくださるという」
私は膝へ手を置いた。
その人が亡くなっても、書いたものや、届けた花は残っている。
施療院で見た白灯花を思い出した。
「その人の、おうちの人……かなしいですか?」
お父様は私の顔を見てから、頷いた。
「名前を聞いて、寂しくなることはあるだろうな」
私は浅い箱の中を見た。
今日、殿下と話したこと。
木馬が帰る場所。
誰かが待っている家。
「おしごと、きくとき。ありがとうも、いってください」
お父様の手が、私の頭へ触れた。
「分かった。必ず伝えよう」
◇
夕食の前、私はもう一度、橋を見に行った。
マリアがそばで待ってくれている。
青い布の上に、小さな木の橋。
その向こうには、花を片づけた森がある。
私は馬小屋の前へ木馬を置き直した。
「今日は、ここですか?」
マリアに尋ねられ、頷く。
「はい。もう、かえりました」
「では、お休みの時間ですね」
私は木馬の背を、指先でそっと撫でた。
エドガー・ベルクという人には、会えない。
それは残念で、少し寂しい。
けれど、その人がしていたことを覚えている人や、残してくれたものには、これから会えるかもしれない。
「リリア様。お食事のご用意ができました」
廊下から、お母様の声がした。
私は立ち上がり、マリアへ手を伸ばす。
「はい。いきます」
扉のところには、お兄様も待っていた。
私は二人と一緒に、明かりのついた食堂へ向かった。




