第11節 夕暮れの薬草園と、花を届けた人の名前
施療院へ出かける日の朝、私の荷物は、私より先に玄関へ並んでいた。
膝掛け。
着替えの入った袋。
水を入れた小さな瓶。
その横へ、お父様がもう一枚、厚い布を置こうとする。
「アレクシス。それは馬車に備えつけのもので足りると思いますよ」
お母様に言われ、お父様の手が止まった。
「夕方は冷える」
「ですから、こちらを用意しました」
お母様が私の上着を示す。
私は二人を見上げ、それから、自分が持っている紙へ目を落とした。
白灯花の絵。
今日の持ち物で、私が選んだのは、これだけだった。
「おとうさま」
「どうした?」
「お花の、絵も、乗れますか?」
お父様は布を置き、私の前へ屈んだ。
「もちろんだ。リリアの隣へ置こう」
「つぶれませんか?」
「それなら、こちらへ入れましょう」
マリアが、薄い板の入った書類挟みを持ってきてくれた。
紙を収めると、絵が曲がらなくなる。
私は両手で受け取り、胸へ抱いた。
準備のできたお兄様が、玄関の段の下で待っている。
「さあ、白灯花に会いに行こうか」
私は頷いた。
◇
訪問できることが決まるまで、数日かかった。
施療院では、具合の悪い人たちの世話が一番先だ。
だから、私たちは診察をする建物へは入らず、薬草園へ続く脇の門から案内してもらうことになっていた。
夕方に花が開くと聞いて、出発も午後になった。
馬車が止まったとき、空はまだ明るかったけれど、屋根の影が庭へ長く伸びていた。
「足元に気をつけて」
お父様に抱いて下ろしてもらい、地面へ立つ。
知らない土の匂いがした。
乾かした草のような匂いも、少し混じっている。
門の中では、日に焼けた顔の園丁さんが待っていた。
お父様たちが挨拶を交わす。
私はお母様の手を握り、順番を待った。
「リリアーナです。見せてくださって、ありがとうございます」
「ようこそ、おいでくださいました。ハンナさんからも、お花を楽しみにしておられると伺っております」
園丁さんは腰をかがめ、私へ笑いかけた。
「白灯花は、こちらです」
◇
庭には、低い木の札が幾つも立っていた。
鉢に入っているもの。
土へ直接植えられているもの。
似た葉でも、札に書いてある名前は違うらしい。
私は足を止めたくなったけれど、まずは白灯花のところまで歩くことにした。
お兄様が、私の持つ書類挟みを見た。
「重くない?」
「まだ、持てます」
「疲れたら言ってね」
私は頷いた。
案内されたのは、建物の壁に沿って屋根をかけた、風の当たりにくい場所だった。
棚に鉢が並んでいる。
園丁さんが、そのうちの一つを、低い台へ移してくれた。
「こちらが、白灯花です」
私は息を吸った。
細長い葉。
その間から伸びた茎。
先についている白いものは、まだ、きゅっと閉じていた。
「……つぼみ、ですか?」
「ええ。今日は、この二つが開きそうです」
園丁さんが、触れずに指で示す。
私は絵を取り出した。
お兄様が書類挟みを支えてくれる。
絵の花と、目の前の蕾を、交互に見た。
同じ花なのに、今の形は少し違う。
「まだ、ほそいです」
「開くと、ハンナさんが描いた形になりますよ」
園丁さんの返事に、私は頷いた。
ここまで来れば、すぐに花が見られると思っていた。
けれど、花にも、開く時刻があるのだ。
◇
待つあいだ、近くの小部屋を使わせてもらえた。
窓から、白灯花の鉢が見える。
私は椅子へ座り、水を一口飲んだ。
お父様とお母様は、園丁さんから記録の説明を聞いている。
今日の訪問に合わせて、以前の受け入れ帳も確かめてくれたそうだ。
お兄様は、私と窓のそばにいた。
「お花、見ていますか?」
「うん。でも、ずっと見ていなくても大丈夫だと思うよ」
お兄様は窓の外へ目を向けた。
「急に咲いて、すぐ閉じるわけではないそうだから」
私は少し考え、持ってきた絵を膝へ置いた。
目を離したあいだに終わってしまう気がしていた。
けれど、園丁さんも近くにいる。
お兄様も、一緒に見てくれる。
「リリアも、おやすみ、します」
「そうしよう」
椅子の背へ身体を預けると、マリアが足置きを寄せてくれた。
靴を載せたら、足が楽になった。
◇
「公爵閣下。こちらに、受け入れ時の書き添えがございます」
園丁さんの声に、私は顔を向けた。
お父様の前には、大きな帳面が開かれていた。
「鉢の数や届け主とは別に、世話をする者への伝言を記した欄です」
「拝見しても?」
「どうぞ」
お父様が文字を追っている。
お母様も、横から頁を見た。
私は椅子の端へ身体を寄せた。
「おとうさま。リリアも、きけますか?」
お父様は顔を上げた。
「ああ。ちょうど、前にリリアが気にしていたことが書かれている」
「お花を、運んだ人?」
「そうだ」
私はお兄様の手を借りて椅子を下りた。
卓へ近づくと、お父様が場所を空けてくれる。
古い紙には、細かな文字が並んでいた。
黒いところと、薄く茶色になったところがある。
「『栽培についての不明点は、エドガー・ベルク殿を通じて照会されたし』」
お父様が、ゆっくり読んだ。
私は、その名前を心の中で繰り返した。
エドガー・ベルク。
初めて聞く名前だ。
「その人、お花の人ですか?」
「育て方について、問い合わせる相手だったようだ」
お父様は、続く行へ目を落とした。
「その下に、『月の守り手、薬草搬送の取り次ぎ』とある」
私は、お父様の袖をつまんだ。
月の守り手。
王妃様の手紙にあった、花や書物を届ける仕事。
その名前が、ここにも残っていた。
◇
「こちらの文字も、当時書かれたものでしょうか?」
お母様が尋ねた。
「筆跡は、当時の管理者のものです。詳しい経緯までは、私には分かりませんが」
園丁さんは、別の頁と見比べてくれた。
「ハンナさんが、管理者から世話を頼まれたと仰っていましたね」
「ああ」
お父様が頷く。
「この方のことを知っているか、改めて伺おう。それから、王宮に残る記録とも合わせてみる必要がある」
私は帳面を見た。
名前が分かった。
でも、それは、黒い指輪の持ち主が見つかったということではない。
「宿の、人と……いっしょですか?」
お父様は首を横に振った。
「まだ、そこまでは分からない。ノルン氏が鉢を預かった相手かもしれないし、その方とは別の、問い合わせを受ける者だったかもしれない」
「はい」
私は頷いた。
頭の中で、知らない人の顔を描きかけていた。
けれど、今分かったのは、名前と、ここに書かれた役目だけだ。
お兄様が、私のそばへ来た。
「前に描いた、花が通った場所の絵に、書き足せるね」
「どこに、ですか?」
「そこも、父上と確かめてからにしよう。まだ、宿の前か、施療院の横か、決められないから」
私は少し考えた。
「べつの紙、です」
お兄様が私を見る。
「まず、名前だけ。まざらないように」
「うん。それがよさそうだね」
お父様も頷き、新しい紙へ名前を書き留めてくれた。
◇
窓の外から、園丁さんの声がしたのは、そのあとだった。
「少し開いてきましたよ」
私は顔を上げた。
お父様が帳面から手を離す。
お母様も、一緒に立ってくれた。
外へ出ると、さっきより影が濃くなっていた。
鉢のそばへ行く。
閉じていた白い蕾の先が、ほどけている。
「……ほんとです」
私はお母様の手を握ったまま、顔を近づけすぎないところで止まった。
一枚。
もう一枚。
見ているうちに動きが分かるほど速くはない。
それでも、さっきとは違う形だった。
「お花が、ひらいています」
「ええ」
お母様の声が、隣でした。
私は自分の指を見た。
光を出していない。
魔力を使おうともしていない。
花は、私が何かしなくても、開こうとしていた。
胸の中が、少し不思議な気持ちになった。
特別なことが起こるのを、どこかで待っていたのかもしれない。
けれど、目の前にあるのは、長いあいだ誰かが世話をして、今日も夕方に咲く花だ。
「ハンナさんの、絵と、おなじです」
私が言うと、園丁さんが嬉しそうに笑った。
「よく描いてありましたでしょう」
「はい」
私は頷いた。
◇
少し離れたところで、お父様と園丁さんが話をしていた。
帳面の写しを取る相談らしい。
私はそれを聞きながらも、花から目を離せなかった。
お兄様が隣へ屈む。
「そろそろ、絵と見比べてみる?」
私は頷きかけて、首を横に振った。
「いまは、見ます」
「うん」
「絵は、おうちでも、見られます」
お兄様は持っていた書類挟みを閉じた。
そして、私と並んで花を見た。
白い花びらの先が、少し反っている。
葉の一本には、小さな傷があった。
ハンナさんの絵にはなかった傷。
今、この鉢で育っている花の姿だった。
◇
帰るころには、二つ目の蕾も少し緩んでいた。
全部開くまで見たかったけれど、手が冷たくなってきた。
私はお母様の袖に触れた。
「そろそろ、帰れます」
お母様は私の指を包んだ。
「ええ。今日は、よく見られましたね」
園丁さんへお礼を言い、門へ向かう。
途中で振り返ると、屋根の下に、小さな白い花が見えた。
「ありがとうございました」
もう一度言うと、園丁さんが頭を下げてくれた。
馬車へ乗せてもらい、膝掛けをかけてもらう。
朝、お母様に止められていた厚い布のことを思い出し、私はお父様を見た。
「これで、あたたかいです」
「そうか」
お父様は安心したように、膝掛けの端を直した。
お兄様が、花の絵を私の隣へ置いてくれる。
私は書類挟みへ手を載せた。
今日、持ってきた絵は一枚。
帰りには、覚えて帰るものが増えていた。
白灯花の開きかけた姿。
葉の小さな傷。
それから、エドガー・ベルクという名前。
「おとうさま」
「どうした?」
「あのお名前、わかったら、また、教えてください」
「ああ。調べたことは、一緒に確かめよう」
私は頷いた。
馬車が、ゆっくり動き出す。
窓の外では、施療院の門が少しずつ遠ざかっていた。
あの向こうで、白灯花は今も開いている。
私は膝掛けの中で冷えた指を重ね、見てきた花の形を、もう一度、心の中になぞった。




