第10節 王妃様の手紙と、月の守り手の印
お兄様が部屋へ来たとき、私は机の上に紙を広げていた。
白灯花を描き直そうと思ったのだ。
細い花びら。
少し尖った先。
その下に、長い葉。
頭では覚えているのに、紙の上では、花びらが一枚だけ太くなった。
「……ここ、ちがいます」
私が呟くと、お兄様が隣から覗き込んだ。
「ハンナさんの絵の写しができたら、それを見ながら描いてみようか」
「いまは、まだですか?」
「うん。文字も一緒に写しているからね」
私は色の棒を置いた。
描きかけの花が、こちらを向いている。
太い花びらは、そのまま残しておくことにした。
「おはなし、終わりましたか?」
「終わったよ」
お兄様は、私の隣へ椅子を寄せた。
私は身体ごと、そちらを向いた。
客間で聞けなかった続き。
お兄様に、あとで教えてほしいと頼んでいたのだ。
「白灯花は、水をたくさんやればよいわけではないんだって」
「そうですか?」
「土の様子を見てから。寒いときは、置く場所も変えるそうだよ」
私は描きかけの葉へ目を落とした。
今も残っている花。
ただ、何年も同じ場所に置かれていたわけではない。
誰かが土を見て、運んで、世話をしていた。
「お花の、ひとたち、がんばりました」
「うん。ハンナさんも、今の世話をしている方もね」
お兄様が頷く。
「それから、父上が、施療院の方と相談してくださるって」
「何を、ですか?」
「リリアが、白灯花を見られるかどうか」
私は顔を上げた。
「いけますか?」
「そこは、まだ決まっていないよ」
お兄様が、私の膝から落ちそうになった紙を押さえてくれた。
「花を動かしてよいか、庭に人が入っても困らないか。先に聞いておくそうだ」
私は頷いて、椅子へ座り直した。
見たい、と言ったことが、ちゃんと届いている。
今は、それが嬉しかった。
◇
翌日の午前中、私はエルナ先生と向かい合っていた。
机の上には、いつもの布玉が一つある。
小さな光を出して、三つ数えたら消す。
前にもできたことだけれど、今日は始める前から、少し落ち着かなかった。
白灯花のことを思い出す。
お兄様が教えてくれた話も。
「リリアーナ様。今、何を考えていらっしゃいますか?」
先生に尋ねられ、私は布玉から顔を上げた。
「お花、です」
「楽しみなことですか?」
「はい。見られるかも、しれません」
先生は微笑んだ。
「では、そのお話を、先に少し聞かせてください」
私は驚いた。
「れんしゅうは?」
「お話が済んでから、始めましょう」
私は白灯花の形を、両手で説明した。
花びらは細くて、先が尖っていること。
夕方に開くこと。
昔、この家から施療院へ行ったこと。
先生は途中で頷きながら聞いてくれた。
話し終えると、胸の中で弾んでいたものが、少し静かになった。
「そろそろ、始められそうですか?」
私は布玉を見て、頷いた。
「はい」
指先へ意識を向ける。
小さな光が、一つ生まれた。
一つ。
二つ。
三つ。
消そうとしたとき、ほんの少し惜しくなった。
もう少し、見ていたい。
けれど、その気持ちと一緒に息を吐くと、光は静かに消えた。
「……できました」
「ええ。今日は、始める前に気持ちを整えられましたね」
私は自分の手を見た。
楽しいことでも、気持ちは忙しくなる。
怖いときだけ、気をつけるわけではないのだ。
◇
お母様に呼ばれたのは、授業が終わってからだった。
居間へ行くと、お父様もいた。
卓上には、封を開けた手紙が置かれている。
その隣に、細長く折られた紙が一枚。
「王妃陛下から、お返事が届いたの」
お母様が言った。
私は足を止めた。
王妃様。
優しい声と、銀の飾り。
月の曲線の中央にある星。
白い石が光った、あの瞬間。
お母様が手を差し出してくれたので、私はそのそばまで歩いた。
「かざりの、ことですか?」
「ええ。以前から調べてくださっていたことについて、お知らせがありました」
お父様が、折られた紙を開く。
中にあったのは、文章ではなく、絵だった。
月の曲線。
その中央に、小さな星。
私は息を止めた。
「……にてます」
「王妃陛下の飾りに、だな」
お父様の問いに、私は頷いた。
けれど、同じではなかった。
絵には、白い石がない。
月の下には、短い線が二本添えられている。
私はその部分を指さしかけ、紙へ触れる前に手を止めた。
「ここ、ちがいます」
「ああ。こちらは飾りそのものの絵ではない」
お父様は紙を、私から見やすい向きへ置いた。
「古い文書に押されていた印を、写してくださったそうだ」
◇
お兄様も呼ばれ、私たちは並んで話を聞いた。
お母様が、王妃様の手紙を読んでくれる。
銀の飾りについて、王家に残る品の記録を調べていたこと。
その中で、よく似た意匠を使った古い文書が見つかったこと。
そして。
「この印は、『月の守り手』と呼ばれた人々に関わるものだそうです」
私は膝の上で手を握った。
胸の奥が、きゅっと狭くなる。
お母様は読むのを止め、私を見た。
「続きを聞けますか?」
私はすぐには頷かなかった。
布玉の感触を思い出す。
息を、ゆっくり吐く。
指先へ目を落とすと、光は出ていなかった。
「……はい。ききます」
お父様が、私のそばへ椅子を寄せた。
その気配を確かめてから、私はもう一度、紙の印を見た。
月の守り手。
今までは、私の記憶と、少しずつ集めてきた話の中にあった名前。
それが、王宮に残っていた文書にも書かれていた。
「わるい人、ですか?」
尋ねると、お父様は首を横に振った。
「この文書に書かれている仕事は、薬草や、それに関する書物を守り、必要な場所へ届けることだ」
私は顔を上げた。
「お花を?」
「ああ。道中の護衛や、届け先との取り次ぎを引き受けた記録があるらしい」
お兄様が、印の絵へ視線を落とした。
「それなら、施療院とも関わりがあったのでしょうか」
「その点を、王妃陛下も引き続き確かめてくださるそうだ」
私は唇を結んだ。
花を守る人。
書物を届ける人。
思い浮かべていたものと、少し違う。
前世のゲームで、私が知ったのは、その人々の全部だったのだろうか。
名前が出た場面だけを覚えて、そこにあった説明を忘れてはいないだろうか。
考えようとすると、記憶の中の文字は、うまく並ばなかった。
◇
「黒い指輪のことは、この手紙には書かれていない」
お父様が言った。
私は、はっとして顔を上げた。
「この印を知っていることと、誰が指輪を持っているかは、別に確かめる必要がある」
「……はい」
「古い文書にある人々と、今その名を使っている者が、同じ考えで動いているとも限らない」
お父様は、紙を見下ろした。
「だから、王宮での調べも続ける」
私は少しずつ、握っていた手を開いた。
月の守り手という名前が分かれば、怖いものの正体も分かると思っていた。
けれど、名前の下にいるのは、一人ではなかった。
昔の人もいる。
今の人もいるかもしれない。
花を届けた人がいて、その花を育てた人もいる。
私は隣のお兄様を見た。
「おぼえること、ふえました」
「うん。僕も、あとでもう一度読ませてもらおうと思う」
お兄様は正直に答えた。
その返事に、少しだけほっとした。
私だけが、一度に分からないわけではなかった。
◇
「おかあさま」
「何かしら?」
「王妃さまの、白い石。どうして、光りましたか?」
お母様は手紙へ目を戻した。
「それは、まだ分からないそうよ。ただ、飾りには石を使っていて、この印にはないでしょう。その違いも調べてくださると書いてあります」
私は紙の星を見た。
似ているところ。
違うところ。
どちらも、見なければいけない。
「王妃さまに、ありがとう、いいます」
「ええ。お返事を書きましょうね」
私は頷いた。
王妃様も、あの日は驚いていた。
私だけが、何も分からずにいたのではない。
王妃様も、調べながら返事を待っていたのだ。
そう思うと、銀の飾りが光った瞬間の記憶が、少し変わった。
怖い出来事の始まりだけではなく。
一緒に確かめてくれる人と、つながった日でもあったのかもしれない。
◇
お話が終わると、お父様が私の手を見た。
「今日は、光を出す練習もしたそうだな」
「はい。三つで、けしました」
「今も、落ち着いて聞けていた」
私は自分の胸へ手を当てた。
「ちょっと、どきどき、しました」
「そうか」
「でも、きけました」
お父様が微笑んだ。
大きな手が伸びてきたので、私は少し頭を寄せる。
髪を撫でてもらうと、隣からお兄様の声がした。
「リリアは、ちゃんと、途中で考えてから返事をしたね」
「すぐ、言えませんでした」
「急いで『はい』と言わなくてもよいんだよ」
お母様も頷いてくれた。
私は三人の顔を、順番に見た。
まだ、家族へ話せていないことはある。
自分が前世の記憶を持っていること。
この世界を、物語として知っていたこと。
けれど、今ここで交わされている言葉は、私の覚えている台詞ではない。
私が尋ねたから、お父様が答えてくれた。
私が怖がったから、お母様が読むのを止めてくれた。
そのことを、忘れずにいたかった。
◇
夕方、お兄様と一緒に、花の絵を仕上げた。
ハンナさんの本の写しが届き、細い花びらを見ながら描けるようになったのだ。
最初の太い花びらは、消さなかった。
その隣へ、もう一輪描く。
「二つになったね」
「こっちは、前のです」
「うん」
「こっちは、見てから、です」
お兄様が、それぞれの下へ小さく書いてくれた。
想像して描いた花。
絵を見て描いた花。
並べると、違いがよく分かる。
私は紙の端を押さえた。
「これ、おとうさまにも、見せます」
「では、乾いてから持っていこう」
窓の外が、少しずつ暗くなっている。
施療院の白灯花も、今ごろ開いているのだろうか。
誰かが鉢のそばへ行き、土を確かめているかもしれない。
私は描いたばかりの細い花びらを見た。
月の守り手が、守って運んだもの。
その中に、この花もあったのか。
次に聞きたいことが、一つできた。




