第9節 小さな手紙と、白灯花を知る人
目を覚ますと、私は自分の寝台にいた。
薄い掛け布の上へ、片手が出ている。
その手を動かしてから、隣を見た。
椅子に座ったマリアが、繕い物から顔を上げた。
「お目覚めですか、リリア様」
「……おとうさまは?」
「書斎へお戻りになりました。お寝台へ移るとき、お声をかけてくださいましたよ」
私は少し考えた。
抱き上げられたような。
誰かに返事をしたような。
けれど、はっきり覚えていない。
「リリア、おへんじ、しましたか?」
「はい。『ねてません』と」
私は掛け布を見下ろした。
それは、たぶん、寝ていた人の返事だ。
マリアが小さく笑い、私の背中へ手を添えた。
「お水を召し上がったら、お手紙のご用意をしましょうか」
私は顔を上げた。
青い花のこと。
川にする布のこと。
殿下へ伝えたいことを、まだ覚えている。
「はい。きょう、書きます」
◇
机には、お母様が座ってくれた。
私は隣の椅子へ座り、紙を見つめる。
お兄様は絵を描く道具を持ってきてくれた。
「何から、お伝えしましょうか?」
お母様に尋ねられ、私は少し考えた。
「青いお花、近くで見ました」
お母様のペンが動く。
「思ったより、小さかったです」
そこまで言って、私は窓辺の絵を見た。
青い小鳥。
殿下と描いた花。
「でも、いっぱい、ありました」
「ええ」
「でんかが、すきなの、わかりました」
お母様が微笑んだ。
文字になっていくと、自分が言ったことなのに、少し立派に見える。
私は机の端へ指を置いた。
「それから、川のぬの。出せます」
「畳むことも、できたんだよね」
お兄様が言う。
私は頷いた。
「おとうさまも、たたみました」
「それも書く?」
尋ねられて、私は少し迷った。
お父様が布の端を引っ張りすぎたこと。
みんなで畳み直したこと。
思い出すと、また笑いたくなる。
「……書きます」
お母様は楽しそうに続きを記してくれた。
◇
最後には、私が描いた小さな花を添えることにした。
紙を一枚もらい、青い色を選ぶ。
丸を描いて、その周りへ花びらをつけた。
二つ目は、少し大きくなった。
三つ目を描こうとしたところで、手が止まる。
「どうしたの?」
お兄様が覗き込んだ。
「ちっちゃいの、むずかしいです」
庭の花は、もっと小さかった。
でも、同じくらいに描こうとすると、私の指では青い点になってしまう。
「絵本の花も、大きく描いてあったでしょう」
お母様が言った。
「よく見てもらうために、大きくしてもよいのですよ」
私は紙と、お母様を見比べた。
「お花も、よく見えますか?」
「ええ。リリアが花びらまで見たことも、分かります」
私はもう一つ、花を描いた。
今度は大きさを直さず、そのままにする。
隣へ、小さな緑の葉を二枚。
「できました」
お兄様が、紙の向きを変えて見てくれた。
「殿下も喜ぶと思うよ」
私は嬉しくなって、花の横へもう一枚、葉を足した。
それから、封筒へ入れるところまで見せてもらった。
お母様が宛名を書き、私の方へ向けてくれる。
「こちらは、ユリウス殿下へ」
私は頷いた。
怖いことを話した日にも、こんな手紙を書ける。
封筒がマリアの手へ渡るのを見ながら、私は机の上に残った青い色を、箱へ戻した。
◇
白灯花について、新しい話を聞けたのは、それから五日後だった。
朝食のあと、お父様が私たちへ言った。
「今日の午後、施療院で薬草園の世話をしていた方が来てくださる」
私は杯を置いた。
「お花、知ってる人ですか?」
「ああ。昔、屋敷から届いた白灯花を育てたことがあるそうだ」
私はお母様を見た。
お母様も、静かに頷いている。
「もう、おやめになった方なのですよね?」
「ああ。今は王都で、ご家族と暮らしておられる。こちらの問い合わせを、施療院から伝えてもらえた」
お父様が私を見る。
「少しなら、一緒に話を聞ける。ただし、途中で疲れたら知らせること」
「はい」
返事をしてから、私は慌てて付け足した。
「お花の絵、ありますか?」
「持ってきてくださるそうだ」
私は膝の上で両手を握った。
ようやく、本当の白灯花を見られる。
絵の中だけでも、今度は想像ではない花を。
◇
午後の客間へ来たのは、灰色の髪を後ろでまとめた、小柄な女性だった。
「ハンナと申します」
丁寧に頭を下げてから、私たちを見た。
お父様とお母様が挨拶をする。
お兄様も、姿勢を正して名乗った。
私はお母様の隣で、膝の上の手を揃えた。
「リリアーナです。お花のこと、教えてください」
ハンナさんの目元が、柔らかくなった。
「はい。私の覚えていることでよろしければ」
卓上へ、布に包んだ本が置かれた。
角が擦れている。
開くと、紙の端に、細い茶色の染みがあった。
「これは、当時の私の控えです。施療院の正式な帳面とは別に、世話の仕方を忘れないよう、絵も残しておりました」
ハンナさんが、頁を探す。
私は身を乗り出しかけて、お母様の手に気づいた。
膝の上へ添えられた、温かい手。
座り直して待っていると、本の向きをこちらへ変えてくれた。
「この花です」
白い花びら。
その下に、細長い葉。
私が描いた丸い花とは、ずいぶん違っていた。
「……ほそいです」
「花びらの先が、少し尖っておりますでしょう」
私は頷いた。
月鈴花とは、やはり別の姿をしている。
名前を聞いただけでは、分からなかったことだった。
◇
「屋敷から届いたときのことは、覚えていらっしゃいますか?」
お父様が尋ねた。
「ええ。珍しい花でしたので。鉢は一つでしたが、根元から新しい芽が幾つか出ておりました」
お父様が紙へ書き留める。
「では、届いたのは、切り分けた小さな苗ではなかったのですね」
「私が受け取ったときには、よく育った株でした。まず、そのまま置き場所に慣らしてから、株を分けております」
私はお兄様を見た。
お兄様も、少し考える顔をしていた。
根が落ち着いてから、施療院へ分けてほしい。
薬草商に頼まれた伝言と、少しずつつながっていく。
「どなたからの依頼だったかは、聞いておられますか?」
お母様の問いに、ハンナさんは首を横に振った。
「そこまでは。私は届いた鉢を育てるよう、当時の管理者から申しつかっただけでしたので」
「そうですか。ありがとうございます」
お母様が頷く。
ハンナさんは、本の端を押さえた。
「ただ、公爵家では、かなり気を配って育ててくださったのだと思います。長く運ぶと葉が傷みやすい花なのですが、枯れた葉は少のうございました」
私は絵へ目を戻した。
昔、この家の誰かが、同じ細い葉を見ていた。
水をやって。
置き場所を変えて。
私の知らない時間が、花のそばにあったのだ。
◇
「いまも、いますか?」
思わず尋ねると、ハンナさんがこちらを見た。
「白灯花ですか?」
「はい。せりょういんに」
「私が勤めを終えるまでは、育っておりました。今回、お話をいただいて尋ねましたら、今も株を残しているそうです」
私は顔を上げた。
「ありますか?」
「ええ。季節によっては花がなく、葉だけになりますけれど」
胸の中へ、温かいものが広がった。
なくなっていなかった。
古い帳面の中だけに、残った名前ではなかった。
「同じ、お花ですか?」
「最初の株から分けて、育て続けてきたものだそうですよ」
私はお母様の袖を、そっとつまんだ。
お母様が私を見る。
「よかったわね」
「……はい」
ハンナさんは本を少し戻し、別の小さな絵を示した。
鉢が二つ並んでいる。
その下には、日付と短い文章。
「増えたときの記録です。なかなか新しい芽を出さない年もあって、二鉢になったときは嬉しゅうございました」
絵の横に、丸い染みがついていた。
「ここは?」
私が尋ねると、ハンナさんは少し困ったように笑った。
「水をこぼしました」
私は瞬いた。
こんなに丁寧な本にも、失敗の跡がある。
「だいじな、ところです」
「ええ。乾かしてから、読めなくなった文字を書き直しました」
その答えに、私はもう一度、染みを見た。
失敗しても、本は捨てられなかった。
花の世話も、そこで終わらなかった。
◇
話の途中で、私は一度だけ、黒い指輪を思い出した。
けれど、ハンナさんの手元をじっと探すことはしなかった。
今日ここへ来てくれたのは、花を育てた話をするためだ。
お父様が尋ね、お母様が確かめている。
私は、今見せてもらっている頁へ目を戻した。
「白灯花って、光りますか?」
ハンナさんが、少し首を傾げた。
「光る、とは?」
「くらいところで……ぴかって」
王妃様の銀の飾りを思い出していた。
月の曲線の中央に、星。
白い石。
あの光と、この花に関わりがあるのかは、まだ分からない。
「私が世話をしていたあいだに、花が自ら光るのを見たことはございません。ただ、夕方になると花びらが開いて、白さがよく目立ちます」
私は頷いた。
光る花ではない。
少なくとも、ハンナさんは見ていない。
そのことも、覚えておこうと思った。
◇
やがて、お父様が本の写しを取らせてほしいと頼んだ。
ハンナさんは頷き、花の描かれた頁へ、細い紙を挟んだ。
私はその手を見ながら、少しだけ身体を動かした。
座り続けていた足が、重くなっている。
まだ聞きたい。
でも、さっきから背中も丸くなっていた。
「おかあさま」
袖を引くと、お母様がすぐに顔を寄せてくれた。
「どうしました?」
「すこし、お休みします」
お母様は頷いた。
お父様も、話を止めてこちらを見る。
「分かった。あとの話は、私たちが聞いておく」
私はハンナさんへ向き直った。
「ありがとうございました。お花、あって、うれしいです」
ハンナさんは、本から手を離した。
「私も、覚えていてくださる方がおられて、嬉しゅうございます」
私は小さく頭を下げた。
マリアに手を引いてもらい、椅子を下りる。
お兄様も一緒に立とうとしたので、私は首を横に振った。
「おにいさま、きいてて、いいです」
「でも」
「あとで、教えてください」
お兄様は私を見て、それから頷いた。
「うん。ちゃんと覚えておく」
◇
客間を出ると、廊下は静かだった。
私はマリアの手を握り、ゆっくり歩いた。
「リリア様。お疲れになりましたか?」
「ちょっとです」
「では、少し横になりましょう」
私は頷いた。
今日は、本当の白灯花の形を知った。
施療院で、今も育っていることも。
昔の鉢そのものではなくても、そこから分かれた花が残っている。
部屋へ戻ると、マリアが上着を脱がせてくれた。
長椅子へ座り、足を上げる。
私は窓辺の絵を見た。
「マリア」
「はい」
「白灯花も、いつか、見たいです」
「ご覧になれるか、お父様たちにご相談しましょうね」
私は頷いた。
今すぐ行かなければ、と立ち上がる気持ちにはならなかった。
客間には、続きを聞いてくれる人たちがいる。
あとで教えてくれるお兄様もいる。
私は掛けてもらった布の端を、胸元まで引き上げた。
次にあの絵へ白灯花を描くときは、細い花びらにしよう。
そのことを忘れないよう、小さく指を動かしてから、私は目を閉じた。




