第8節 青い花のそばで、はじめて言えたこと
翌朝、私は玄関の椅子で、靴を履かせてもらっていた。
マリアが留め具を確かめるあいだ、膝の上で両手を揃える。
お兄様は、もう支度を終えていた。
扉のそばで待ちながら、外の様子を見ている。
「風は、つめたいですか?」
「少しだけ。歩けば、ちょうどよいと思うよ」
お兄様が振り返った。
私は頷いて、椅子から下りようとする。
「リリア様、こちらを」
マリアが、薄い上着を広げて待っていた。
「きています」
「ええ。もう一枚です」
私は自分の服を見下ろした。
ちゃんと袖もある。
首元も、寒くない。
けれど、マリアの手には、私の上着がある。
お兄様が口元を緩めた。
「途中で暑くなったら、脱いで預けよう」
それなら、と私は腕を伸ばした。
着せてもらい、今度こそ椅子を下りる。
「お待たせしました」
「うん。行こうか」
差し出された手へ、自分の手を重ねた。
◇
庭の道には、まだ朝の湿り気が残っていた。
日陰の石が、少し濃い色になっている。
私は踏む場所を見ながら、お兄様の隣を歩いた。
マリアは、少し後ろからついてきてくれる。
青い花は、思っていたより低いところに咲いていた。
殿下と歩いたときにも見ていたはずなのに、近づくと、ほとんど足元だ。
「ここだね」
お兄様が立ち止まる。
私は頷いて、膝を曲げようとした。
「待って。こっちの石の上は滑りそうだよ」
お兄様が乾いた場所へ移り、先に屈む。
私はその肩へ手を置いて、ゆっくりしゃがんだ。
すぐそばに、青い花があった。
絵本で見たものより、ずっと小さい。
細い茎が、風に合わせて揺れている。
「……ちっちゃいです」
「うん」
「でんか、よく、見つけました」
私が見せようとしていた大きな花は、ここからでもよく見える。
でも、この花を見るには、足を止めなければならない。
お兄様が、花壇の縁を指さした。
「ここをずっと並んで咲いているんだね」
私は青い点々を目で追った。
石のそばから、少し先の木陰まで。
殿下が、楽しそうだと言ったのを思い出す。
確かに、一つだけで咲いているより、賑やかに見えた。
◇
しばらく眺めてから、近くの長椅子へ移った。
マリアが座面を確かめ、私を座らせてくれる。
お兄様も隣へ腰を下ろした。
私の足は、地面へ届かない。
靴の先を揃え、膝の上へ手を置く。
「殿下に、お手紙を書く?」
お兄様が尋ねた。
「お花、見ましたって?」
「そう。近くで見ると小さかった、とか」
私は頷いた。
書いてもらいたいことが、一つできた。
けれど、そのことを考えているうちに、昨日のお父様の声も思い出した。
話せることができたら、そのとき教えてくれ。
私は、膝の上の指を見つめた。
「おにいさま」
「何?」
顔を上げると、お兄様は、もうこちらを見ていた。
言葉を探す。
昨日より、少しだけ先を。
「こわいもの、ありますか?」
お兄様はすぐには答えなかった。
少し考えてから、頷く。
「あるよ」
「おばけ?」
「お化けも、急に出てきたら驚くと思う」
私は目を瞬いた。
お兄様でも、驚くのだ。
「でも、今、一番に思いついたのは、リリアが階段から落ちそうになることかな」
「……おちてません」
「うん。だから、落ちないように手をつなぐ」
お兄様が、私の隣へ手を置いた。
「怖いと思ったら、できることをするんだ」
私は、その手を見た。
昨日も、こうして待っていてくれた。
すぐに握って、うまく話せないことを隠してしまいたくなる。
けれど今日は、先に声を出した。
「リリアは……みんなが、いなくなるの、こわいです」
お兄様の指が、少し動いた。
私は膝を見つめたまま、続けた。
「おとうさまと、おかあさまと。おにいさまも、マリアも」
「うん」
「朝、いなくて……もう、会えないの」
喉が狭くなった。
ゲームの中のリリアーナが、どんな気持ちで家族を失ったのかは分からない。
画面の向こうで読んでいたときは、次の場面へ進むこともできた。
でも、今は違う。
お父様が帰ってくる足音を知っている。
お母様の膝が温かいことも。
お兄様が、私に合わせてゆっくり歩いてくれることも。
なくなってよいものなんて、一つもない。
「黒い、ゆびわ……」
言った瞬間、胸が詰まった。
私は息を吸い直した。
「思い出すと、そうなる気が、します」
◇
お兄様は、花壇を一度見てから、私の方へ身体を向けた。
「その指輪を見ると、家族に何かある気がするんだね」
私は頷いた。
お兄様の顔を見るのが、少し怖かった。
どうして、と聞かれたら。
そんなはずはない、と笑われたら。
けれど、お兄様は笑わなかった。
「話してくれて、ありがとう」
その一言に、目の奥が熱くなった。
「へん、ですか?」
「僕には、まだ分からないところがある。でも、リリアが怖がっているのは分かったよ」
お兄様が手を差し出す。
私は今度こそ、その手を握った。
「父上と母上にも、今のことを伝えてよい?」
私は唇を結んだ。
全部話すことは、まだできない。
でも、昨日のお父様は待ってくれた。
お母様も、一緒に考えようと言ってくれた。
「……いっしょに、です」
「うん。一緒に話そう」
「マリアも」
「はい。私も、ご一緒します」
すぐそばで声がした。
顔を上げると、マリアが屈んでいた。
差し出された布で、目の下をそっと押さえてくれる。
泣くつもりは、なかったのだけれど。
「お鼻も、よろしいですか?」
私は小さく頷いた。
大事なお話の途中でも、鼻は出るらしい。
◇
お父様は書斎にいた。
マリアが先に話を通してくれたので、私たちが着いたときには、お母様も来ていた。
机の上には、私が描いた鉢の絵がある。
大切な書類の横に置かれているのが見えて、少しだけ胸が温かくなった。
「庭は、寒くなかったか?」
お父様の問いに、私は首を横に振る。
「お花、見ました」
「そうか」
お父様は立ち上がり、長椅子の方へ来てくれた。
お母様の隣に私。
反対側には、お兄様。
マリアも、見えるところにいてくれる。
私はお兄様の手を握ったまま、さっき話したことを、少しずつ繰り返した。
黒い指輪を思い出すと、家族がいなくなる気がすること。
何かある前に、気をつけてほしいこと。
途中で言葉が止まったところは、お兄様が確かめながら手伝ってくれた。
お父様は、最後まで聞いていた。
「それで、指輪の持ち主を気にしていたのだな」
私は頷いた。
「お花を、持ってた人と……同じかは、わかりません」
「ああ。そのことは、分けて考えよう」
お父様が、静かに答える。
私は、お母様の袖をつまんだ。
「でも、おとうさまたちに、気をつけて、ほしいです」
「分かった」
返事は、はっきりしていた。
お父様は、私の目の高さへ顔を寄せた。
「王宮への出入りについては、今も確認を進めている。屋敷へ来る者も、これまでどおり確かめる。何か気になるものを見つけたら、リリアから近づかず、私たちに知らせてくれ」
「はい」
「家族を守るために、リリアが一人でその人物を探す必要はない」
私は目を伏せた。
もし見つけたら、目を離さないようにしよう。
何をするのか、確かめよう。
心のどこかで、そう考えていたのかもしれない。
お母様の手が、私の肩を包んだ。
「私たちにも、リリアを守らせてくださいね」
私はお母様を見上げた。
その顔を見ているうちに、また涙が出そうになった。
「……はい」
今度は、ちゃんと返事ができた。
◇
少し落ち着いてから、お父様が尋ねた。
「指輪の色は、黒なのだな?」
「はい」
「形については、描けそうか?」
私は考えた。
暗い画面。
そこに見えた、紋章のある指輪。
覚えているはずなのに、細かな線を思い出そうとすると、曖昧になる。
「くろくて……しるし、あります」
「うん」
「でも、線は……まちがうかも、しれません」
お父様は頷き、小さな紙を手元へ置いた。
「では、今確かなことだけ、書いておこう」
黒い色。
紋章がある。
細部は、まだはっきりしない。
お父様のペンが動く。
私は、それを見ていた。
全部思い出せなければ、話してはいけないと思っていた。
理由を説明できなければ、聞いてもらえない気もしていた。
けれど、目の前の紙には、今の私が言えたことだけが並んでいる。
「今日は、ここまででよいか?」
お父様に聞かれ、私は頷いた。
「はい。きょうは、ここです」
「分かった」
お父様は紙を丁寧に揃えた。
そして、少し迷うように私を見た。
「抱いてもよいか?」
私は驚いてから、両手を伸ばした。
◇
お父様の腕の中は、いつもと同じだった。
上着の布が、頬に少し硬い。
胸に耳を寄せると、静かな音がする。
私はそこへ、しばらくくっついていた。
「……おしごと、ありますか?」
「あるが、このくらいの時間は取れる」
お父様が私の背中を撫でる。
お母様が、袖口から出ていた私の手を温めてくれた。
お兄様は隣で、庭の花の話をしている。
「絵本より小さかったんです。リリアが、殿下はよく見つけたと言っていました」
「それは、お手紙に書いてお伝えしたいわね」
お母様が微笑む。
私はお父様の肩から顔を上げた。
「はい。書きます」
「今、用意しましょうか?」
マリアに尋ねられ、私は少し考えた。
泣いたせいか、目が重い。
指先にも、もう力があまり入らなかった。
「あとで、です」
「では、お休みのあとに」
私は頷いた。
殿下への手紙には、青い花を近くで見たことを書こう。
川の布を、自分で出せるようになったことも。
黒い指輪については、まだ分からないことが多い。
それでも、私が何を怖がっているのか、家族はもう知っている。
「おとうさま」
「どうした?」
「おろすとき、言ってください」
お父様の腕に、少しだけ力がこもった。
「ああ。黙ってどこかへ行ったりはしない」
私は安心して、頬を戻した。
目を閉じる前に、お兄様の指が、私の手へそっと触れた。
握り返すと、同じ強さで返ってくる。
その手を離さず、私は少しだけ、眠ることにした。




