第7節 薬草商の覚え書きと、お兄様の手
青い布は、箱の一番下に入っていた。
私はマリアに見守られながら、両手でそっと持ち上げた。
畳まれていると、小さな四角。
けれど、一枚ずつ開いていくと、膝の上から端が滑り落ちた。
「あ……」
「大丈夫ですよ。床はきれいにしてあります」
マリアが布の端を拾い、私の手元へ戻してくれた。
お兄様が、積み木の橋を少し持ち上げる。
「下に通してみる?」
私は首を横に振った。
「きょうは、たたむ、れんしゅうです」
「そうだったね」
殿下と川を作る約束は、まだ取っておく。
でも、そのとき自分で布を出せるようにしたかった。
私は端と端を合わせようとした。
右側を引くと、左側がずれる。
左を直すと、今度は真ん中に皺が寄った。
「……川が、まがります」
「川は、曲がっていてもよいのでは?」
マリアの言葉に、お兄様が笑った。
「橋のところだけ平らにすれば、馬は渡れそうだよ」
私は布を見下ろした。
確かに、庭で見た水の流れも、いつもまっすぐではなかった。
それでも今日は、畳む練習だ。
「こっち、持ってください」
「ここかな?」
「はい。そこです」
お兄様に片方を持ってもらうと、今度はうまく重ねられた。
二人で半分。
もう一度、半分。
少し膨らんだけれど、箱へ収まる大きさになった。
「できました」
「うん。次は、リリアが出せるね」
私は頷いて、布を箱の上の方へ置いた。
どこにあるか、今度はちゃんと覚えている。
◇
その日の夕方、お父様のお帰りは、いつもより遅かった。
夕食の前に会えると思っていた私は、居間の時計を見上げた。
針の場所は、マリアが教えてくれたところを過ぎている。
「おとうさま、まだですか?」
「少し、お仕事が長引いているそうですよ」
お母様が答えた。
「先に食事を始めていてほしいと、お伝えがありました」
私は膝の上の手を見た。
お仕事。
手紙。
王宮の警備のこと。
白灯花のこと。
最近のお父様は、私が気にしていることを、たくさん調べてくれている。
「リリアの、せいですか?」
お母様が、こちらへ顔を向けた。
「何がかしら?」
「おとうさま、いそがしいの」
言ってから、胸が少し痛くなった。
家族を助けたいと思っていたのに。
私が何かを見つけるたび、お父様のお仕事が増えている。
お母様は私の隣へ座った。
「お父様には、もともとお仕事がたくさんあります。でも、今日どうして遅くなったのかは、お帰りになったら聞いてみましょう」
「……はい」
「リリアが、一人で理由を決めなくてもよいのよ」
私はお母様を見上げた。
昨日、絵の中に空けておいた場所を思い出す。
分からないところへ、勝手に線を引かない。
花のことでは、そうしようと思ったのに。
お父様のことになると、また忘れていた。
◇
食事が半分ほど進んだころ、お父様が帰ってきた。
扉が開き、いつもの姿が見える。
私は匙を置いた。
「おかえりなさい」
「ただいま。遅くなってすまなかった」
お父様は手を洗ってから席についた。
お皿が運ばれてくるまでのあいだ、私は何度か口を開きかけた。
けれど、お父様が私を見ると、うまく声が出なかった。
お兄様が、隣からそっと尋ねる。
「聞きたいことがあったんだよね?」
私は頷いた。
「おとうさま。きょう……リリアのお花で、おそかったですか?」
お父様の手が止まる。
それから、私の方へ椅子を少し向けた。
「白灯花の報告も届いた。だが、遅くなったのは、別の書類を確かめていたからだ」
「べつの?」
「領地の道を直すための相談だ。雨で傷んだ場所がある」
私は目を瞬いた。
私の知らないところで、道が壊れている。
それを直す話も、お父様のお仕事なのだ。
「お花だけ、じゃないですか?」
「ああ」
お父様は頷いた。
「それに、花について調べると決めたのは、私だ。必要な仕事として、ほかの者にも手伝ってもらっている」
私はお皿の縁へ目を落とした。
「おとうさま、つかれませんか?」
「疲れる日はある」
正直な答えだった。
顔を上げると、お父様が少し微笑んだ。
「だから、帰ってきたら、こうして座って食事をする。リリアたちの顔も見られる」
「……リリアも?」
「もちろんだ。今日は何をしていた?」
私は少し考えた。
すぐに思いつくのは、手紙でも花でもなかった。
「青いぬの、たためました」
お父様が、嬉しそうに目を細める。
「それは、あとで見せてもらいたいな」
「おにいさまと、いっしょです」
「では、二人に教えてもらおう」
お兄様が頷いた。
お母様は私のお皿を見て、柔らかく声をかける。
「お話の続きの前に、こちらもいただきましょうか」
私は置いていた匙を持った。
お父様のお皿からも、湯気が上がっている。
白灯花の報告が気にならなかったわけではない。
けれど、今は温かいうちに食べようと思った。
◇
食事のあと、お父様は居間へ小さな紙の束を持ってきた。
私はお母様の隣へ座った。
お兄様は、その反対側に腰を下ろす。
「ノルン氏に会った者から、報告が届いた」
お父様が一枚目を開いた。
月鈴花を運んだ薬草商。
白灯花を、途中の宿で預かった人。
私は膝の上で両手を重ねた。
「おぼえて、いましたか?」
「すべてではないが、当時の覚え書きを残していたそうだ」
お父様が、別の紙を並べる。
元の帳面から、書き写してもらったものだという。
「白灯花には、届け先を書いた札が結んであった。先代の名と、この屋敷の場所が記されていたそうだ」
「では、宛先を間違えたわけではないのですね」
お母様の問いに、お父様が頷く。
「ああ。そして、預けた人物からは、短い伝言も頼まれていた」
私はお父様の指先を見た。
紙の上を、ゆっくり動いていく。
「『根が落ち着いてから、施療院へ分けていただきたい』」
お父様が読み上げた。
私は言葉を頭の中で繰り返した。
根が落ち着いてから。
施療院へ。
「さいしょから……行く、おやくそく?」
「その可能性はある。ただ、先代がその伝言をどう受け取ったかは、別に確かめる必要がある」
お父様は、そこで読むのを止めた。
「ノルン氏が頼まれたのは、鉢と伝言を届けるところまでだ。その後については、知らないそうだ」
私は頷いた。
施療院へ行った理由が、少し見えてきた。
けれど、どうして一度うちへ来たのか。
どうして先代に頼んだのか。
そこは、まだ空いている。
「その方の、お名前は?」
お母様が尋ねた。
「名乗ったそうだが、ノルン氏は覚えていなかった。帳面にも記していない」
私は唇を結んだ。
胸の中で、次の問いが大きくなる。
服は。
手は。
黒い指輪は。
「持ち物については、何か?」
お兄様が聞いてくれた。
お父様は、もう一枚へ目を通した。
「灰色の外套を着て、小さな革袋を持っていた。手袋もしていたそうだ」
手袋。
私は重ねた指へ目を落とした。
「ゆびは……」
声が漏れた。
三人が、こちらを見る。
私は慌てて口を閉じそうになった。
けれど、途中まで出た言葉は、もう戻せない。
「ゆびわ、とか。見えません、でしたか?」
お父様は私を見たあと、紙へ視線を戻した。
「手袋の下に何かつけていたかまでは、分からないそうだ」
「……そうですか」
指輪がなかった、とは言われていない。
あった、とも言われていない。
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
お母様の手が、背中へ添えられた。
◇
「リリアは、その方の指輪が気になるの?」
お母様が静かに尋ねた。
私はすぐには答えられなかった。
前世で遊んだゲーム。
暗い場面に映った、黒い紋章。
それを話せば、どうして知っているのかと聞かれる。
何から説明すればよいのか、まだ分からない。
膝の上で指が曲がった。
そのとき、お兄様の手が、私のすぐそばへ置かれた。
握ってくるのではなく、手のひらを上にして待っている。
私はその上へ、自分の手を載せた。
「……うまく、いえません」
ようやく、それだけ言えた。
お父様が紙を伏せた。
「今、話せるところまででよい」
私はお父様を見た。
「でも、きになります」
「ああ。それは分かった」
お父様は頷いた。
「ただ、この人物が、リリアの気にしている指輪の持ち主かどうかは、まだ分からない。花の記録と、王宮での調べは、両方続けている」
「はい」
「分かったことがあれば伝える。思い出したことや、話せることができたら、そのとき教えてくれ」
私は頷こうとして、少しだけ俯いた。
お父様は、もっと聞けるはずだった。
どんな指輪なのか。
どこで見たのか。
それでも今は、待ってくれている。
「ごめんなさい」
小さく言うと、お兄様が私の手を握った。
「言葉を探しているんでしょう?」
私は頷いた。
「じゃあ、もう少し探そう。僕も、一緒に聞くから」
その声を聞いているうちに、喉の奥が熱くなった。
私はお兄様の手を、ぎゅっと握り返した。
◇
お話が終わってから、お父様は約束どおり、青い布を見に来てくれた。
私は箱の蓋を開けた。
上の方に置いた布を取り出す。
今度は、迷わず見つけられた。
「これです」
「きれいに畳めているな」
お父様が受け取ろうとしたので、私は慌てて首を振った。
「ひらくと、また、たたみます」
「……なるほど」
隣で、お兄様が笑う。
「父上も、練習しますか?」
「そうしよう」
結局、布は一度、全部広げられた。
お父様の大きな手と、私の小さな手。
端を合わせるところは、お兄様が見てくれた。
「おとうさま、そっち、ちょっとです」
「こちらか?」
「はい。ひっぱりすぎです」
「これは難しいな」
困った顔のお父様がおかしくて、私は少し笑った。
マリアが箱を押さえ、お母様が皺になったところを撫でてくれる。
みんなで畳んだ布は、最初より平らになった。
私はそれを箱へ戻した。
指輪のことは、まだうまく話せない。
それでも、言えないと言うところまでは、できた。
箱の蓋へ手を置いていると、お兄様が隣に屈んだ。
「明日は、何をしようか」
私は少し考えてから、お兄様の袖に触れた。
「おにいさまと、お庭、行きたいです」
「うん。行こう」
「あの、青いお花。近くで、見ます」
お兄様が頷く。
私はその手を取って、立ち上がった。
明日、花のそばまで歩いたら。
もう少しだけ、言葉が見つかるかもしれない。




