第6節 白灯花の記録と、待つあいだにできること
お父様と一緒に手紙を読んだ翌朝、私は朝食の席で、何度も扉の方を見ていた。
マリアがお皿を置いてくれる。
小さく切られたパンと、柔らかく煮た野菜。
いつもなら、先にパンへ手を伸ばすところだ。
けれど今日は、廊下を通る足音がするたび、顔がそちらへ向いてしまう。
「リリア。誰かを待っているの?」
お母様に尋ねられ、私は持ち上げかけた匙を止めた。
「おてがみ、です」
「昨日のお返事かしら」
「はい」
お父様が、向かいの席で杯を置いた。
「使いの者も、まだ出発の支度をしているところだ。返事が届くまでには、何日かかかる」
「……そうでした」
昨日、ちゃんと聞いたはずだった。
まず、薬草商のセドリック・ノルンに会って、詳しく話を聞いてもらう。
それから、その内容を知らせてもらう。
手紙を書けば、すぐに次の手紙が来るわけではない。
頭では分かっているのに、気持ちだけが先へ進んでいた。
お兄様が私の方へ身を寄せる。
「僕たちがここで朝ご飯を食べているあいだにも、準備は進んでいるよ」
「はい」
「だから、リリアのパンが冷たくなるまで見張っていなくても大丈夫」
私はお皿を見下ろした。
匙を持ったまま、まだ一口も食べていない。
「……見はって、ないです」
「そう?」
お兄様が笑う。
私はパンを一つつまんで、口へ運んだ。
少しだけ、見張っていたかもしれない。
◇
午前中は、お母様と絵本を読んだ。
いつもの物語の本ではなく、庭の花が描かれた本だった。
ユリウス殿下が好きだと教えてくれた、青い小さな花。
その名前を庭師に聞いて、お兄様が本を探してくれたのだ。
私は膝の上の頁を、じっと見つめた。
「これ、ですか?」
「ええ。庭師の話では、この花だそうよ」
お母様が指さした絵には、細い茎の先に、小さな青い花が幾つもついていた。
庭で見たものより、大きく描かれている。
花びらを数えようと指を近づけたところで、お母様が本を少し持ち直してくれた。
「お庭では、こんなに、見えませんでした」
「近くで見ないと気づかないこともあるわね」
私は頷いた。
殿下は、ルゥの羽に似ていると言っていた。
名前だけ覚えておけばよいと思っていたけれど、絵を見ると、ほかにも知りたいことが出てくる。
「これ、いつまで、咲きますか?」
「それは、お母様も庭師に聞いてみないと分からないわ」
「おかあさまも?」
「ええ。知らないことは、たくさんありますよ」
お母様は、少し楽しそうに答えた。
私はもう一度、青い花を見た。
知らないときは、尋ねればいい。
昨日も、そうしていた。
お父様も、お母様も、お兄様も。
それなのに私は、黒い指輪のことになると、いつも口を閉じてしまう。
ゲームの中で見たものを、どこまで話せるのだろう。
夢で見たと言えば、信じてもらえるだろうか。
けれど、夢ではない。
嘘を一つついたら、そのあとも、同じ嘘を覚えていなければならなくなる。
「リリア?」
お母様の声がした。
気づくと、私は絵本の端を握っていた。
慌てて指を離す。
「ごめんなさい」
「本は破れていませんよ」
お母様は頁を確かめ、それから私の手を包んだ。
「お花のこととは、別のことを考えていた?」
私は少し迷って、頷いた。
「お返事が、こわかったら……」
そこまで言って、言葉が止まる。
お母様は続きを急かさなかった。
私は膝の上へ目を落とした。
「しらないほうが、よかったって、なりますか?」
お母様の手が、私の指をゆっくり撫でた。
「読んですぐには、そう思うこともあるかもしれないわ」
私は顔を上げた。
お母様は、いつもの穏やかな顔で私を見ていた。
「でも、何が分かったかによって、できることが変わるでしょう。気をつける場所が分かったり、誰かに助けを頼めたり」
「……はい」
「怖いお返事だったら、一緒に考えましょう。リリアだけで、読まなくていいのよ」
昨日、お父様も一緒に読もうと言ってくれた。
私はお母様の指を握り返した。
「おかあさまも、いてください」
「もちろん」
すぐに返ってきた声に、胸の奥が少し緩んだ。
◇
王都の施療院から知らせが届いたのは、その三日後だった。
私はお兄様と、積み木の道を直していた。
木馬の家から続く道の先には、小さな橋が置かれている。
橋の下へ敷く青い布は、マリアが畳んで箱に入れておいてくれた。
「川は、まだ?」
お兄様が尋ねる。
私は頷いた。
「でんかと、つくります」
「そうだったね」
お兄様は橋を動かさず、その手前の積み木を一つ置き直した。
そこへ、お父様が入ってきた。
手に紙を持っている。
私は思わず立ち上がろうとして、裾を膝に引っかけた。
「おっと」
お兄様が腕を支えてくれる。
お父様も、すぐにこちらへ来た。
「急がなくてよい。今、話せるか?」
「はい」
返事をしてから、私は座ったまま裾を直した。
今度こそ、ゆっくり立つ。
お兄様の手は、立ち上がるまで離れなかった。
◇
居間には、お母様も来てくれた。
私はお母様の隣に座り、お父様が紙を広げるのを待った。
「施療院で、白灯花を受け取った記録が見つかったそうだ」
「うちから、行った、お花ですか?」
「ああ。先代公爵家から、一鉢。こちらの帳面にある日付とも合っている」
お父様は、紙の一部分を指で押さえた。
私は文字を追おうとしたけれど、小さくてよく分からなかった。
「何のために、送ったのですか?」
お兄様が尋ねた。
「薬草を育てる庭で、試しに育てるためだそうだ。ただ、今回見つかったのは受け取りの記録だけで、その後の様子までは書かれていない」
「いまも、ありますか?」
「それも確認を頼んでいる」
私は小さく息を吐いた。
白灯花は、確かに施療院へ届いていた。
そこまでは分かった。
でも、今も咲いているかどうかは、まだ分からない。
お母様が紙へ目を向ける。
「届けた者の名前は、残っていますか?」
「屋敷の使いの名がある。以前の使用人名簿にも載っていた」
「では、その方にお話を伺えるかもしれませんね」
「所在を確かめさせよう」
大人たちの会話を聞きながら、私は膝の上で指を揃えた。
宿で白灯花を預けた人。
屋敷で受け取った人。
施療院へ届けた人。
同じ鉢の花に、いろいろな人が関わっている。
私はつい、その中の誰かが、あの指輪の人物ではないかと考えてしまう。
けれど、そうだと決まったわけではない。
「おとうさま」
「どうした?」
「お花、持ってた人……みんな、あやしいですか?」
お父様はすぐには答えなかった。
私の顔を見てから、手元の紙へ視線を戻す。
「今は、誰かが悪いことをしたと分かったわけではない。白灯花がどこから来て、どう扱われたのかを確かめているところだ」
「……はい」
「古い話だから、覚えていないこともあるだろう。記録を見ながら、一つずつ聞いていく」
私は頷いた。
花を運んだだけの人もいる。
頼まれた仕事をしただけかもしれない。
怖いことを思い出すと、私はすぐに、その先へあの黒い指輪を置いてしまう。
目の前の紙には、まだ、そんなことは書かれていなかった。
◇
「絵に、してもいいですか?」
私が尋ねると、お父様が首を傾げた。
「白灯花の絵か?」
「お花が、行ったところです」
うまく説明できず、私は両手で小さな鉢の形を作った。
「いっぱいで……まざります」
お兄様が、ああ、と頷いた。
「どこから、どこへ運ばれたのか、並べたいんだね」
「はい」
すぐに紙と、色を塗るための道具を持ってきてくれた。
机の上へ紙を置く。
私は茶色を選び、小さな鉢を描いた。
その上に、白い花を描こうとして手が止まる。
白い紙に、白い花。
「……見えません」
「輪郭を薄い灰色にしてみようか」
お兄様が教えてくれる。
私は頷いて、丸い花びらを描いた。
見たことのない花だから、形は仮のものだ。
本当の白灯花がこんな姿かは、分からない。
そのことを言うと、お母様が紙の隅へ小さく書き添えてくれた。
お兄様には、宿と、お屋敷と、施療院を描いてもらった。
宿から屋敷へ。
屋敷から施療院へ。
私は二つの線を引いた。
「月鈴花は?」
お兄様に聞かれて、別の鉢を描き足す。
「こっちは、おうちに、います」
「そうだね」
並べてみると、少し分かりやすくなった。
一緒に屋敷へ来た二つの花。
けれど、仕入れた人も、その後の行き先も同じではない。
私は宿の絵の前を指さした。
「ここが、まだ、わかりません」
「ああ」
お父様が頷いた。
「そこは、ノルン氏の話を待とう」
私は線を足さず、色の棒を机へ置いた。
分からないところを、空けておく。
それだけなのに、少し我慢が必要だった。
何か描けば、埋まる気がする。
でも、私が想像した人を描いても、分かったことにはならないのだ。
◇
片づける前に、お父様が私の絵を手に取った。
「これは、私が預かってもよいか?」
「おしごとに、持っていきますか?」
「机に置いておこうと思う」
私は自分の描いた鉢を見た。
片方だけ、少し斜めになっている。
線も、お兄様のようにまっすぐではない。
「もっと、きれいなの……」
「私は、これがよい」
お父様は真面目な顔で言った。
隣で、お母様が微笑む。
「リリアが考えた順番が、よく分かりますものね」
私は少し迷ってから、頷いた。
「じゃあ、どうぞ」
「ありがとう」
お父様が紙を置き、私を抱き上げた。
急に高くなった景色の中で、私はお父様の肩につかまる。
「お返事は、届いたら知らせる。だから、それまでは、遊んだり、眠ったりしていてよいのだぞ」
「ごはんも?」
「もちろん。今朝はきちんと食べたか?」
「たべました」
「パンも?」
「パンも、です」
お兄様が小さく笑った。
見張りながら冷ましてしまった朝食のことを、まだ覚えているらしい。
私はお父様の肩へ頬を寄せた。
王宮の警備について調べてもらっていることも、白灯花のことも、まだ途中だ。
黒い指輪を思い出せば、やっぱり怖い。
それでも、今日は、分かったことを紙の上へ並べられた。
分からないところは、空けたままにできた。
「おとうさま」
「うん?」
「つぎ、わかったら、あそこに、かいてください」
「あの空いているところか?」
「はい」
お父様は、私の背中をそっと撫でた。
「リリアと一緒に書こう」
私は頷いた。
机の上には、まだ途中の絵がある。
遊び部屋には、殿下と作るための橋が待っている。
お父様に抱かれたまま、私はそちらの部屋へ目を向けた。
「おにいさま」
「何かな?」
「お馬の、ごはん、まだでした」
「それは大変だ。戻ったら、用意しよう」
お兄様が手を差し出してくれる。
私はお父様に下ろしてもらい、その手を握った。
返事を待つあいだにも、今日の続きはある。
まずは木馬のご飯を用意して、それから、マリアに青い布の場所をもう一度教えてもらおう。
次に殿下が来たとき、私から出せるように。
私はお兄様と並び、遊び部屋へ戻っていった。




