第5節 王子様の好きな花と、薬草商からの返事
部屋へ戻ると、マリアがお茶を注いでくれた。
私は椅子へ座り、両足を揃える。
庭では気づかなかったけれど、靴の中の足が少し熱かった。
「リリア様。足置きをお使いになりますか?」
「はい」
マリアが低い台を寄せてくれる。
足を載せると、ほっと息が出た。
隣に座ったユリウス殿下が、こちらを見る。
「たくさん案内してくれて、ありがとう」
「いつもの、お庭です」
「でも、僕には初めてだったから」
殿下は窓の向こうへ目を向けた。
「あの道を通ると、噴水の水が見えるんだね。廊下からでは分からなかった」
私は庭を振り返った。
木の間から、ほんの少しだけ見える噴水。
いつもは音の方が先に聞こえる。
殿下は、あそこを見ていたのだ。
「こんど、近くも、行けます」
言ってから、慌てて付け足した。
「きょうは、お休みですけど」
「うん。次の楽しみにしておく」
殿下の返事に安心して、私は杯へ手を伸ばした。
両手で持って、一口飲む。
お茶は、熱すぎなかった。
◇
「でんか」
「何?」
「どのお花が、すきでしたか?」
庭から戻ったら聞こうと決めていたことだった。
殿下は少し考えた。
「名前が分からないんだけれど、道の端にあった、青い小さな花」
「青い……」
「背が低くて、石のそばに咲いていた」
私は目を瞬いた。
あの花だろうか。
花壇の真ん中ではなく、縁に沿って並んでいる、小さな花。
「大きな、赤いのじゃなくて?」
「赤い花もきれいだったよ。でも、青い方が好きかな」
私は膝の上の手を見た。
庭へ案内するとき、一番大きな花を見せようとしていた。
背の高い花。
たくさん咲いている花。
遠くからでも目立つ花。
殿下が喜んでくれると思ったからだ。
けれど、殿下が選んだのは、足元の小さな青だった。
「どうして、ですか?」
「ルゥの羽に似た色だから」
殿下が微笑む。
「それに、小さい花がたくさん並んでいるところが、少し楽しそうだった」
私は窓辺の小鳥の絵を見た。
そう言われると、確かに似ている。
「お名前、きいておきます」
「ありがとう」
「つぎ、分かるように」
今度は、大きな花だけではなく。
殿下が好きだと言った花を、私もよく見てみたい。
お兄様が隣で頷いた。
「庭師に聞いておこう。リリアの絵本にも載っているかもしれないね」
私は嬉しくなって、杯を置いた。
その拍子に、袖が皿の縁へ触れる。
焼き菓子が一つ、ころんと横になった。
「……あ」
落ちる前に止まってくれた。
私はそっと皿の中央へ戻した。
お父様が向かいで身を乗り出していたので、顔を上げる。
「だいじょうぶです」
「ああ。見ていた」
とてもよく見ていたのは、分かりました。
◇
お茶のあと、私たちは木馬で遊んだ。
お父様が用意した大きな箱は、結局、部屋の隅へ運ばれてきた。
ただし、全部を広げるのではなく、使いたいものだけ出す約束になった。
「お馬の、おうちがいります」
私が言うと、お父様はすぐに箱へ手を伸ばした。
「では、城を」
「馬小屋でよいのではありませんか?」
お母様が穏やかに尋ねる。
お父様の手が止まった。
私は箱の中の小さな建物を指さした。
「こっちです」
「……こちらか」
お父様は、屋根の低い木の家を取り出した。
殿下が口元を押さえている。
私も少し笑いながら、木馬を家の前へ置いた。
お兄様が積み木で道を作ってくれる。
殿下は、小さな柵を並べた。
三人で作ったので、道は途中から曲がっていた。
馬小屋の前には、少し広すぎる庭がある。
「ここ、何を置こうか」
殿下が尋ねる。
私は小さな木を一つ選んだ。
「日かげ、です」
「馬も休めるね」
「はい。いっぱい歩くと、つかれます」
言ってから、私自身が少し眠くなってきたことに気づいた。
木を持った指が止まる。
お兄様が、すぐにこちらを見た。
「リリア?」
まだ遊びたい。
せっかく殿下が来てくれたのだ。
でも、さっきから瞬きがゆっくりになっている。
「……ちょっと、ねむいです」
正直に言うと、殿下は並べかけていた柵を置いた。
「じゃあ、今日はここまでにしよう」
私は慌てて首を振った。
「でんかは、まだ、いていいです」
お父様やお兄様と遊んでいてもらえばいい。
そう考えたのに、殿下は少し驚いた顔をした。
「僕だけ?」
「はい。リリア、おきたら……」
どのくらい眠るのか、自分でも分からない。
途中で帰らなければいけなくなるかもしれない。
言葉が止まると、お母様が私の背中へ手を添えた。
「殿下にも、お帰りの時刻がありますからね」
私は頷いた。
分かっている。
けれど、帰ってしまうのは寂しかった。
殿下は私の手元を見てから、小さな木をそっと受け取った。
馬小屋の横へ置く。
「これで、お休みする場所はできた」
木馬を、その下へ動かした。
「続きは、また一緒に作ってもいい?」
私は顔を上げた。
「また?」
「うん。次は、この先に橋を作りたい」
曲がった道の先を、殿下が指さす。
私はそこへ、小さな橋が架かるところを思い浮かべた。
「川も、いります」
「そうだね」
「青い布、あります」
マリアを見ると、微笑んで頷いてくれた。
私はようやく、手を膝へ戻した。
「じゃあ、つぎです」
「約束だよ」
◇
玄関でお見送りするとき、私はお母様に抱かれていた。
眠くなると、足より先に、言葉がゆっくりになる。
「きょうは……ありがとう、ございました」
「こちらこそ。月鈴花も、絵も見せてもらえて嬉しかった」
殿下はそう言ってから、窓のある方へ少し目を向けた。
「僕たちの絵は、しばらくリリアーナのところだね」
「はい。だいじに、します」
「次に会うまで、よろしく」
私は頷いた。
殿下が馬車へ向かう。
その背中を見ているうちに、一つ、言い忘れたことを思い出した。
「でんか」
振り返ってくれる。
私はお母様の肩から顔を上げた。
「あの……リリアでも、いいです」
お兄様と、お父様がこちらを見た。
私は急に恥ずかしくなった。
けれど、もう言ってしまった。
「おうちでは、みんな、そうなので」
殿下は少しだけ黙った。
それから、確かめるように尋ねる。
「僕も、そう呼んでいいの?」
「はい」
胸がどきどきした。
変なことを言ってしまっただろうか。
でも、殿下は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。では、またね。リリア」
聞き慣れたはずの名前が、少し違って聞こえた。
「……はい。また」
私は小さく手を振った。
馬車が門の方へ進んでいく。
見えなくなるまで待っていると、お父様が隣へ来た。
「私たちだけの呼び名だったのだがな」
「リリアが、自分でお伝えできたのですよ」
お母様が笑う。
お兄様は少し考えたあと、私の顔を覗き込んだ。
「でも、お兄様と呼ばれるのは、僕だけだね」
私は頷いた。
「はい。おにいさまだけです」
お兄様の表情が、すぐに明るくなった。
……皆様、そんなに心配しなくても。
お父様も、お母様も、お兄様も。
私にとって、ほかの誰かと入れ替わる人たちではないのに。
そう伝えたかったけれど、大きな欠伸が先に出た。
お母様の肩へ頬をつける。
「おやすみ、リリア」
優しい声を聞きながら、私は目を閉じた。
◇
薬草商から返事が届いたのは、それから十日ほどたった午後だった。
私はエルナ先生との授業を終え、布玉を籠へ戻したところだった。
今日は、小さな光を一つ。
三つ数えて消すところまで、落ち着いてできた。
嬉しくて、もう一度やりたくなったけれど、約束は一回だった。
手を膝へ置くと、先生が頷いてくれた。
そこへ、お父様が入ってきた。
手には、封を開けた手紙がある。
「少し、話をしてもよいだろうか」
いつもの声より、低かった。
私は背筋を伸ばした。
先生がお父様の顔を見て、静かに席を譲る。
ほどなく、お母様とお兄様も呼ばれてきた。
「セドリック・ノルンの所在が分かった」
お父様が言った。
私は膝の上で手を握った。
月鈴花を屋敷へ運んだ人。
北東のルナリア地方から来た、薬草商。
これまで、名前と古い取引の記録だけを追っていた人だ。
「ご本人ですか?」
お母様が尋ねる。
「ああ。商人組合を通して届けた問い合わせに、返事があった。昔の納入先も、こちらの記録と合っている」
「今は、どちらに?」
「王都の南にある町だ。店を構えているらしい」
私はお父様を見上げた。
「遠い、ですか?」
「ルナリア地方ほどではない。だが、すぐに訪ねていくつもりはない」
お父様は手紙へ視線を戻した。
「まず、代理の者を送って話を聞く。先方にも、そのように伝えよう」
会いたい、と言いかけた口を閉じる。
私が知りたいのは、花のことだけではない。
銀の飾り。
月の守り手。
黒い紋章の指輪。
けれど、その人がどこまで知っているのか、まだ分からない。
「何と、書いてあるのですか?」
お兄様が尋ねた。
お父様は、手紙の一節をゆっくり読んだ。
「『月鈴花の苗は、確かに私がお届けしました。今も育てていただいていると知り、嬉しく存じます』」
そこで、一度言葉が切れた。
「『ただし、白灯花の鉢につきましては、私が仕入れた品ではありません』」
私は顔を上げた。
同じ日に届いた、別の花。
同じ薬草商が売ったのだと思っていた。
お兄様が、そっと尋ねる。
「では、誰が?」
お父様の指が、紙の上を押さえた。
「『途中の宿で、先代公爵家へ届けてほしいと頼まれ、預かったものです。依頼人は、王都の施療院に縁のある者だと名乗りました』」
部屋が静かになった。
施療院。
白灯花が、あとから送られた場所。
私はその二つを頭の中へ並べた。
同じ施療院なのだろうか。
もし同じなら、どうして最初からそこへ届けなかったのだろう。
「その方の、お名前は?」
お母様の問いに、お父様は首を横に振った。
「この手紙にはない。覚えていることを、詳しく伺う必要がある」
私は唇を結んだ。
名前を知りたい。
どんな顔だったのか。
何を話したのか。
そして、指輪をしていなかったか。
けれど、最後の問いだけは、そのまま口にできなかった。
私が黒い指輪を気にする理由を、皆は知らない。
前世で遊んだゲームの記憶。
そこにある破滅を、私はまだ、誰にも話せていないのだ。
◇
「リリア」
お母様の声に、私は顔を上げた。
指先へ、少し力が入っていた。
胸の奥も温かい。
私はゆっくり息を吐いた。
さっき籠へ戻した布玉を見て、柔らかな感触を思い出す。
温かさが、それ以上、手の方へ動かなくなった。
「気になることがありますか?」
お母様が尋ねる。
私は少し迷ってから、頷いた。
「その人……何を持ってたか、きけますか?」
「白灯花を預けた人のことか?」
お父様を見る。
「はい。お花だけか、ほかにも、あったか」
指輪とは言えなかった。
それでも、何も聞けずに終わるよりはいい。
お父様は考えてから、手元の別の紙へ書き留めた。
「そうだな。服装や持ち物も、覚えているか尋ねよう」
私は、ほっと息をついた。
お兄様が隣へ座り直す。
「僕も、気になったことを書いていいですか?」
「ああ」
「どうして、うちへ届けるように頼んだのか。それから、手紙や名札が添えられていなかったか」
お父様のペンが動く。
お母様も、静かに言葉を足した。
「白灯花を施療院へ移した際の記録と、日付を合わせて確かめたいですね」
一つずつ、質問が紙に並んでいく。
私には思いつかなかった問いもあった。
私はその様子を見ながら、握っていた手を開いた。
聞きたいことを、自分だけで全部覚えていなくてもよい。
私が一つ伝えれば、お兄様がもう一つ気づいてくれる。
お父様が書き、お母様が確かめてくれる。
「ほかにあるか、リリア?」
お父様が尋ねた。
私は考えてから、首を横に振った。
「いまは、これです」
「分かった。あとで思いついたら、また教えてくれ」
「はい」
お父様は質問を書いた紙を、手紙と一緒に揃えた。
調べは、そこから先へ進んでいく。
私は長椅子へ深く座り直した。
窓辺では、殿下と描いた花が、青い小鳥の隣に並んでいる。
その下には、まだ川のない木の橋。
次に殿下が来るときのために、お父様が箱から出しておいてくれたものだった。
私は橋を見つめ、それからお父様の手元へ目を戻した。
知りたいことが、また増えた。
少し怖くもなった。
けれど、今日は一つ、尋ねてほしいことを伝えられた。
「おとうさま」
「どうした?」
「お返事、きたら……また、教えてください」
お父様は頷いた。
「もちろんだ。一緒に読もう」
私はその返事を聞いて、ようやく肩を下ろした。




