第3節 お兄様と読む、花の名前
王宮から帰った翌朝、私は窓辺で月鈴花を眺めていた。
花ではなく、葉を。
丸みのある形。
縁の、緩やかな曲線。
茎から少しずつずれて伸びているところ。
昨日見た古い絵の葉は、もっと細かった。
寝る前にお兄様へ尋ねようと思っていたのに、帰りの馬車で眠ってしまったのだ。
気づいたときには、もう寝台の上だった。
……王宮ではあれほど頑張って起きていたのですが。
「リリア様。そんなにお近くでご覧になると、鉢に額がぶつかりますよ」
マリアの声に、私は少し顔を引いた。
「はっぱ、見てました」
「ええ。先ほどから、真剣なお顔で」
「おにいさま、まだですか?」
「朝のお勉強を終えられてから、いらっしゃるそうです」
私は窓辺から扉へ目を向けた。
お兄様にも、お兄様の予定がある。
分かっている。
分かっているけれど、早く一緒に見たかった。
「それまで、お支度を済ませましょうね」
マリアが服を広げる。
私は頷いて、窓から離れた。
まずは着替える。
それから朝ご飯。
待っている間にも、できることはある。
そう考えて袖へ腕を通したら、途中で指が引っかかった。
「……マリア」
「はい」
「ここ、たすけてください」
待つ練習の前に、着替えの練習が必要なようだった。
◇
お兄様が来たのは、朝食を終えてしばらくしてからだった。
片手に薄い書類入れ。
もう片方には、小さな帳面を持っている。
「お待たせ、リリア」
「おにいさま!」
私は長椅子から下り、迎えにいった。
途中で歩く速さが上がったけれど、敷物の端で立ち止まる。
ここは、ときどき足が引っかかる。
またいでから、残りの数歩を進んだ。
お兄様がしゃがんで、両手を広げる。
「今日は、僕の番だったね」
昨日の約束を覚えていてくれたのだ。
私は笑って、その首へ腕を回した。
「はい。おにいさまの番です」
抱き上げられると、見える景色が高くなる。
お兄様の肩越しに、お父様が扉の前へ来たのが見えた。
ほんの少し、足が止まった。
「……先に来ていたか」
「父上も、ご一緒に見ますか?」
「ああ。庭師も呼んである」
お父様の手には、別の古い帳簿があった。
私を抱くために来たわけではない。
たぶん。
「おとうさまも、こっちです」
卓を指さすと、お父様はすぐに頷いた。
「分かっている」
声が少し明るくなった気がした。
◇
月鈴花の鉢は、庭師が明るい卓の上へ移してくれた。
その横へ、王宮からいただいた絵を置く。
本物の葉と、紙に描かれた葉。
並べてみると、やはり違った。
「こちらは、白灯花と記されておりますね」
庭師が絵の下を読んだ。
「はく……とうか?」
真似をすると、少し舌がもつれた。
「白い灯りの花、と書きます」
お兄様が教えてくれる。
私は紙の文字を見た。
どれが白で、どれが灯りなのか。
まだ、すぐには分からない。
「月鈴花とは、ちがうお花ですか?」
庭師は頷いた。
「私の知っている白灯花であれば、別の花でございます。花の形は似ておりますが、葉も、根の張り方も違います」
「王宮の古い絵だけで、そう決められるか?」
お父様が尋ねる。
「絵の特徴と、書かれた名は合っております。ただ、実物が残っているか、ほかの記録も確かめた方がよろしいかと」
お父様は紙の端へ目を落とした。
「なるほど。まずは別の花として調べよう」
私は二つの葉を見比べた。
月鈴花の古い名前かもしれない。
そう思っていたけれど、違う花だったらしい。
胸の中が、少しだけ沈む。
銀の飾りへつながる手掛かりが、一つ遠ざかったように感じた。
せっかく、王妃様が探してくださったのに。
「……ざんねん、です」
ぽつりと言うと、お兄様がこちらを見た。
「同じ花ではなかったから?」
私は頷いた。
「でも、昨日は分からなかったことが、今日は少し分かったよ」
お兄様は、二枚の白紙を取り出した。
一枚には、月鈴花。
もう一枚には、白灯花。
ゆっくりと、大きな文字で書く。
「同じ名前で一緒に調べていたら、別の花のことを覚えてしまったかもしれないでしょう?」
私は紙を見た。
確かに、そうだ。
似ている花を、同じ花だと思ってしまう。
その先で何か見つかっても、本当に月鈴花のことなのか分からなくなる。
「ちがうって、分かりました」
「うん。それも、大事なことだと思う」
お兄様が私の前へ、二枚の紙を並べた。
私は少し考えてから、丸い葉の方を指さした。
「こっち、おうちのお花です」
「正解」
褒められて、少し顔が緩む。
……今のは、さすがに分かります。
けれど、お兄様が嬉しそうなので、そのままにしておこう。
◇
お父様が持ってきた帳簿は、昔の植物の受け入れ記録だった。
月鈴花を持ち込んだ薬草商、セドリック・ノルン。
その名が残っていた記録を、もう一度確かめるために取り寄せたらしい。
「ここに、月鈴花が二鉢とある」
お父様の指が、古い文字の上を滑る。
お兄様が隣から覗き込む。
「その下にも、花の名前がありますね」
「ああ。白灯花、一鉢」
私は顔を上げた。
「いっしょ?」
「同じ日に届いたものとして、書かれている」
庭師が、帳簿を少し近くへ寄せてもらった。
その表情が、申し訳なさそうになる。
「こちらは、以前の庭師の記録でございます。月鈴花の鉢を調べた際には、その名の行ばかり追っておりました」
「私も同じだ」
お父様は静かに答えた。
「白灯花を探してはいなかったからな」
私は帳簿を見つめた。
手掛かりが遠ざかったと思ったばかりだったのに。
別の花の名前が、今度は我が家の記録に出てきた。
けれど、同じ日に届いたことと、銀の飾りへ関係があることは違う。
そこまでは、私にも分かる。
だから、まず知りたいのは。
「そのお花、どこですか?」
庭師が少し考え込んだ。
「今の庭で、白灯花として育てているものはございません。移したのか、枯れてしまったのか、続きの記録を探してみます」
「受け入れの翌年も確かめよう。薬草園の方へ移した可能性もある」
お父様が帳簿へ細い紙を挟んだ。
これから調べる場所の目印らしい。
私はその手元をじっと見た。
「リリアも、しるし、したいです」
お父様が私を見る。
「帳簿にか?」
私は慌てて首を振った。
「かくの、じゃなくて。はさむの」
古い本へ色鉛筆を使ってはいけないことは、ちゃんと知っています。
お兄様が笑いながら、白い紙を細く折ってくれた。
「これを、ここへ挟んでみる?」
差し出された紙を、指でつまむ。
お兄様が開いてくれたページへ、ゆっくり差し込んだ。
端が少し曲がった。
直そうとすると、お父様が帳簿を支えてくれた。
「そのままで大丈夫だ。目印になっている」
私は手を離した。
白い紙が、本の上から少しだけ覗いている。
殿下からいただいた、小鳥の栞を思い出した。
本を読むだけではなく、また確かめたい場所を覚えておくためにも使えるのだ。
◇
庭師が記録を探しに戻ると、お母様が部屋へ入ってきた。
「皆さん。そろそろ休憩にしませんか?」
マリアがお茶を運んでくる。
私は窓辺から移された月鈴花を見た。
もう少し、葉を見ておきたい。
でも、朝からずっと目の前にあるので、形はかなり覚えた気がする。
「リリアは、お花を描く?」
お兄様が尋ねた。
私は頷いた。
「でんかにも、教えたいです」
白灯花と月鈴花は、違うらしいこと。
葉を見ると、分かりやすいこと。
それから、一緒に描いた絵のおかげで、よく見るのが楽しくなったこと。
伝えたいことを並べると、また長くなりそうだった。
お父様が手紙用の紙へ手を伸ばす。
「では、私が王妃殿下へ書く手紙に――」
「リリアのお手紙も、別に用意しましょうね」
お母様が、そっと別の紙を置いた。
「あなたが全部書いてしまったら、リリアの言葉がなくなってしまいます」
「なくすつもりはない」
「ええ。詳しく付け足しているうちに、長くなるだけですね」
お父様が黙った。
私は口元を押さえた。
笑ってしまったら、少し申し訳ない。
けれど、お兄様まで同じように口元を隠していたので、つい小さな声が漏れた。
◇
お兄様が手紙を書いてくれる間、私は葉を二枚描いた。
丸い葉。
細い葉。
丸い方には、小さな花を一つ。
細い方の花は、王宮の写しを見ながら描いた。
上手ではない。
けれど、昨日よりは違いが分かる絵になったと思う。
「何と書こうか?」
お兄様がペンを持つ。
私は言葉を考えた。
「お花は、ちがいました」
お兄様が、そのまま繰り返す。
「お花は、違いました」
「でも……」
私は紙の上の葉を指さした。
「よく見たら、分かりました」
ペンが、ゆっくり動く。
文字になっていく自分の言葉を見ていると、不思議な気持ちになった。
声は、話し終わると消えてしまう。
けれど、紙へ書いてもらえば、あとから殿下も読める。
私が眠っている間にも。
遠くの部屋にいる間にも。
「それから?」
お兄様に尋ねられて、私は顔を上げた。
「こんどは、でんかにも、見てほしいです」
「月鈴花を?」
「はい。ほんもの」
お兄様のペンが止まった。
私は慌てて、お父様とお母様を見た。
殿下を勝手にお招きしてよいわけではない。
王宮へ行くときも、大人たちが話をしてくれていた。
「……だめですか?」
お父様は、すぐには答えなかった。
手元の書類を揃えてから、私を見る。
「来ていただくには、先方のご予定もある。こちらも準備が必要だ」
私は頷いた。
「だが、お誘いすることはできる」
顔が上がる。
「いいですか?」
「ああ。王妃殿下へ、お伺いしよう」
「そうですね。リリアのお部屋なら、少し疲れたときにも休めますし」
お母様が微笑む。
私は窓辺を振り返った。
お兄様が描いてくれた花。
ユリウス殿下が描いてくれたルゥ。
その隣へ、今は王宮にある二人の絵を置く。
殿下が本物の月鈴花を見て、絵と比べる。
そう考えると、胸が弾んだ。
「では、そのお気持ちも書こうか」
お兄様がペンを持ち直す。
私は、今度はゆっくり言った。
「よかったら、お花を見にきてください」
一文字ずつ、紙へ言葉が並んでいく。
「……僕も一緒にいていい?」
お兄様が、書き終えてから尋ねた。
私は目を丸くした。
「もちろんです」
「よかった」
「おにいさまの、お花も、あるので」
窓辺の絵を指さす。
お兄様はそちらを見て、少し照れたように笑った。
「小さい頃の絵だから、今見ると恥ずかしいな」
「わたし、すきです」
それは迷わずに言えた。
花の形を覚えるよりも、ずっと前から。
私はあの絵が好きだった。
◇
手紙の最後には、私も自分で印をつけることになった。
名前はまだ、一人では書けない。
お兄様が薄く書いてくれた文字を、色鉛筆でなぞってみる。
一つ目の線で、早速はみ出した。
「……むずかしい」
「全部なぞらなくてもいいよ。今日は最初の一文字だけにする?」
私は少し考えて、頷いた。
最初の一文字。
お兄様の手本を見て、もう一度、紙へ目を戻す。
ゆっくり。
曲がっても、途中で投げ出さずに。
最後の線まで描いて、色鉛筆を置いた。
「できました」
お父様がすぐに覗き込んだ。
お母様も。
マリアも。
……一文字に対して、見てくださる人が多すぎませんか。
「リリアの文字だな」
お父様が言う。
私は紙を見た。
大きさも傾きも、手本とは違う。
でも、確かに私が書いた線だった。
「でんか、読めますか?」
「きっと。お手紙には、僕が名前も書いておくから」
お兄様の返事に、ほっとする。
封筒へ入れる前に、もう一度だけ手紙を見せてもらった。
丸い葉と、細い葉。
お兄様が書いてくれた、私の言葉。
最後に添えた、少し曲がった一文字。
殿下は、どこから見てくれるだろう。
葉の違いに気づいてくれるだろうか。
返事を待つのが、早くも楽しみになっていた。
お父様が封筒を受け取り、届ける手配をしてくれる。
私はその横で、帳簿から覗く白い目印を見た。
調べたいことは、まだそこにある。
けれど今日は、殿下をお招きするために、部屋のどこへ椅子を置くか考えてもよいだろう。
「マリア」
「はい、リリア様」
「お花、よく見えるところが、いいです」
私が窓辺を指さすと、マリアはすぐに分かってくれた。
「では、お日様が眩しくない場所を、一緒に探しましょう」
私は頷いて、差し出された手を取った。




