第1節 今度は、私の足で会いにいきます
三歳になった朝、私は寝台の上で指を三本立てていた。
人差し指。
中指。
それから、薬指。
今度は、小指まで一緒についてこない。
「……できました」
小さく呟くと、カーテンを開けていたマリアが振り返った。
「まあ。何がおできになったのですか?」
「さんさい、です」
胸を張って手を見せる。
マリアは私の前へ来ると、膝を折って微笑んだ。
「はい。お誕生日、おめでとうございます」
私はもう一度、自分の指を見た。
一年前には、二本を立てるだけでも苦労していた。
それが今では、三本。
……ずいぶん小さな進歩だと思われるかもしれませんが。
私にとっては、立派な成長なのです。
言葉も、以前より長く続くようになった。
急ぐと舌がもつれるし、難しい言葉は途中で別の音になる。
けれど、伝えたいことを短く言い換えるのは、少し上手になったと思う。
寝台を下りると、マリアが服を用意してくれた。
淡い青色のワンピース。
襟には、小さな白い花が縫いつけられている。
「今日は、こちらを着ましょうね」
「お花」
「奥様がお選びになりました。お気に召しましたか?」
私は頷いた。
袖へ腕を通し、鏡の前へ立つ。
そこには、少し得意そうな顔をした小さな女の子がいた。
前世の私とは違う顔。
けれど、もう見慣れた顔だった。
「リリア様。お父様たちがお待ちですよ」
「はい」
私は鏡へ小さく頷いてから、マリアの手を取った。
◇
居間の扉を開けると、お父様が立ち上がった。
「リリア。誕生日、おめでとう」
お母様も、お兄様も。
三人の笑顔を見た途端、嬉しくて足が速くなる。
「走らなくてよいぞ」
言いながら、お父様の方がこちらへ歩いてきた。
私はその前で止まり、両手を伸ばす。
抱き上げられるのは、まだ好きだ。
……三歳になったからといって、何もかも自分でしなければならないわけではありません。
「大きくなったな」
「きのうと、おんなじです」
「昨日も大きくなっていた」
それでは、毎日同じことが言えてしまいます。
お母様が笑いながら、私の髪を整えた。
「今日は、殿下からもお祝いが届いていますよ」
「ユリウスでんか?」
お兄様が、小さな箱と封筒を持ってきた。
箱の中には、木でできた小鳥の栞が入っていた。
丸い身体に、小さなくちばし。
羽だけが青く塗られている。
「ルゥです!」
「うん。よく似ているね」
お兄様が手紙を開く。
「『リリアーナへ。三歳のお誕生日、おめでとうございます。レオンハルトと一緒に、また庭へ遊びに来てください。今度こそ、ルゥを紹介できたら嬉しいです』」
私は栞を両手に載せた。
紙へ描かれた小鳥を見ていた頃には、本物を見る約束をしても、自分では何も答えられなかった。
今なら、言える。
「会いたいです」
お父様の腕の中から、皆を見回す。
「ルゥにも。でんかにも」
お父様が、お母様と目を合わせた。
「実は、王妃殿下からもお招きをいただいている」
「庭のお花がきれいなうちに、いかがですかと」
私は思わず身を乗り出した。
お父様の腕が、すぐに背中を支える。
「行けますか?」
「体調がよければ、数日後にな」
私は何度も頷いた。
それから、慌てて付け加える。
「おへんじ、書きます」
「もちろん。何と書こうか?」
お兄様の問いに、私は少し考えた。
嬉しいことはたくさんある。
けれど、今、一番伝えたいのは。
「こんどは、歩いていきます」
お兄様が微笑んだ。
「うん。そう書こう」
◇
約束の日まで、私は何度も木の小鳥を眺めた。
絵本へ挟むと、青い羽がページの上から覗く。
そのたびに、王宮へ持っていくものを考えた。
お返しの絵。
ハンカチ。
それから、小さな布玉。
エルナ先生にいただいた布玉は、この一年で少し柔らかくなった。
縫い目が緩んだところは、マリアが繕ってくれた。
今では、手の感触を思い出すだけで落ち着けることもある。
魔法の授業も、少しずつ進んでいた。
先生が見ているところで、小さな光を一つ出す。
三つ数えて、自分で消す。
たったそれだけでも、最初は明るくなりすぎたり、消したつもりが指先に残ったりした。
最近は、ふらつく前にやめられる。
大きな魔力を持っているらしい、という先生の見立ても変わらなかった。
だからこそ、急いで使おうとしないこと。
それは何度も教わった。
「王宮で、お見せしなくてもよいのですよ」
出発前日、先生はそう言った。
「はい」
「上手になったところを見てほしくなるかもしれませんが、初めての場所では疲れ方も違いますから」
初めてではないけれど、自分で歩いて過ごす王宮は初めてだ。
私は布玉を握った。
「まほうは、お休みです」
「ええ。それで結構です」
先生が頷く。
「楽しんでいらしてください」
私はその言葉に、少し驚いた。
王宮。
銀の飾りが光った場所。
黒い紋章の指輪の人物が出入りしていたかもしれない場所。
考え始めれば、不安はいくらでも見つかった。
けれど、今日はユリウス殿下に会いにいく。
ルゥを見せてもらって、絵のお礼を言う。
そういう一日を、楽しみにしてもよいのだ。
「はい。いってきます」
◇
王宮の玄関は、記憶よりも大きかった。
いえ。
きっと、前に来たときは抱かれていたので、床の広さを知らなかったのだ。
磨かれた石の上へ、私の靴が小さな音を立てる。
お父様はすぐ隣にいた。
お母様とマリアも、少し後ろにいる。
私はお兄様の手を握り、長い廊下を見つめた。
……歩いていくと、お手紙に書きましたが。
これは、なかなかの距離なのではないでしょうか。
「抱こうか?」
お父様の声が、早速降ってきた。
「まだ、だいじょうぶです」
「疲れる前でもよいぞ」
「あなた。リリアは歩きたいのですよ」
お母様が言う。
お父様は頷いたものの、私の歩幅に合わせたまま、いつでも抱き上げられる距離を保っていた。
廊下を曲がった先に、庭へ続く扉が見えた。
そこから明るい光が差し込んでいる。
案内の侍従が足を止めた。
「こちらで、殿下がお待ちでございます」
私は思わず、お兄様の手を強く握った。
緊張している。
何度も絵や手紙をいただいた相手なのに。
お兄様がしゃがんだ。
「大丈夫。急がなくていいよ」
私は小さく頷く。
それから、扉の向こうへ一歩を踏み出した。
◇
「リリアーナ」
庭の木陰から、声がした。
振り返った先に、ユリウス殿下が立っていた。
最後に近くでお会いした頃より、背が伸びている。
服装も、顔立ちも、少し大人びて見えた。
けれど、私を見つけて笑った顔には、覚えがあった。
絵を描いて送ってくれた、小鳥の好きな男の子。
「本当に、歩いて来てくれたんだね」
その言葉で、用意していた挨拶が頭から飛んだ。
私は自分の靴を見て、それから殿下を見上げる。
「……はい」
まずは、それだけ。
殿下は近づいてくると、私の前で膝を折った。
「来てくれて、ありがとう」
目の高さが近くなる。
私は慌てて、もう一度口を開いた。
「ユリウスでんか。おまねき、ありがとう、ございます」
途中で少しつかえた。
けれど、最後まで言えた。
殿下は真剣に聞いてから、にっこり笑った。
「どういたしまして」
胸の奥が、ふっと緩む。
私はマリアから預かっていた小さな包みを、両手で差し出した。
「これ。え、です」
「僕に?」
「はい。ルゥを、かきました」
殿下が丁寧に包みを開く。
中には、青い小鳥と緑色の木を描いた紙が入っていた。
三本の線だった鳥は、一年かけて丸い身体になった。
羽の大きさは左右で違うし、足は片方だけ長い。
それでも、今度は鳥に見えると思う。
たぶん。
「ルゥの羽、よく見てくれたんだね」
殿下が青い部分を指さした。
「ここ。少し濃い色なんだ」
私は顔を上げた。
送ってもらった絵を見比べながら、何度も塗り直したところだった。
「……おなじ、ですか?」
「うん。よく似ている」
嬉しくて、返事が遅れた。
お父様とお兄様が後ろで何か言いかけたけれど、お母様が小さく咳払いをした。
たぶん、額のお話はあとにしてくださったのだと思う。
◇
ルゥは、庭に面した明るい部屋にいた。
風の直接当たらない場所に鳥籠が置かれ、その中で青い小鳥が枝へ止まっている。
扉を開けたまま近づかないこと。
籠を叩かないこと。
急に手を伸ばさないこと。
殿下は一つずつ、私に教えてくれた。
「大きな声も、少し苦手なんだ」
私は口元へ手を当てた。
「しずかに、ですね」
「そう」
殿下が頷く。
私は籠から少し離れたところで止まり、小鳥を見た。
絵よりも、小さい。
そして、よく動く。
丸い目がこちらを向き、首がこてんと傾いた。
「……ルゥ」
小さく呼んでみる。
青い羽が震えた。
それだけなのに、胸がいっぱいになった。
うまく名前を言えなかった頃から、窓辺で見ていた小鳥。
本物のルゥが、私の目の前にいる。
「こんにちは」
ルゥは返事の代わりに、短く鳴いた。
私は殿下を見た。
殿下も、私を見ていた。
「会えたね」
「はい」
私は何度も頷いた。
◇
小鳥の部屋を出たあと、庭の椅子へ案内された。
歩いたせいか、足が少し重い。
椅子へ座るときに、つい息が漏れた。
殿下がすぐに気づく。
「疲れた?」
「すこし」
「じゃあ、ここで休もう。庭の奥は、また今度でもいいから」
私は庭へ目を向けた。
道の先には、白い花がたくさん咲いている。
見にいきたい。
せっかく来たのだから、もっと一緒に過ごしたい。
でも、膝の上へ載せた足は、正直だった。
「……ここで、おはなしが、いいです」
「うん。僕も聞きたいことがある」
殿下は隣の椅子へ座った。
「手紙にあった、花の絵本は読めた?」
「おにいさまが、読んでくれました」
「好きな花は?」
「月鈴花です」
答えてから、私は少し息をのんだ。
銀の飾り。
月の曲線の中央にある星と、白い石。
あの光のことを、殿下は覚えているだろうか。
けれど、殿下はただ嬉しそうに頷いた。
「レオンハルトが描いていた花だね」
「はい。おへやにも、あります」
「僕も、咲いているところを見てみたいな」
私は殿下の顔を見た。
ゲームで知っている顔へ、少しずつ近づいていく男の子。
いつか私の婚約者となり、最後には断罪するはずだった人。
そのことを、忘れたわけではない。
けれど、今、目の前にいる殿下は、疲れた私に歩くことを求めなかった。
拙い絵を丁寧に受け取ってくれた。
小鳥を驚かせないように、声を落として話してくれた。
私は膝の上で、ハンカチの端を整えた。
「でんか」
「何?」
「今度、お花の絵も、かきます」
「嬉しいな」
「でも……ゆっくり、です」
殿下は笑った。
「うん。待っている」
それから、受け取ったばかりの絵を、もう一度広げる。
「その間は、このルゥがいてくれるから」
私は紙の中の小鳥を見た。
片方だけ長い足。
少しはみ出した青い色。
それを隠さずに眺めてもらえることが、こんなに嬉しいとは知らなかった。
未来のことは、まだ怖い。
分からないことも、たくさんある。
それでも私は今日、自分の足でここまで来た。
また会いたいと思ってくれた人へ、会いに来られた。
「リリア。お茶を少し飲もうか」
お兄様が、私の前へ小さな杯を置く。
隣ではお母様が微笑み、お父様が椅子の位置を確かめていた。
私は皆の顔を見てから、殿下へ向き直った。
「また、いっしょに、ルゥを見てもいいですか?」
「もちろん」
殿下が答える。
「次も、一緒に見よう」
私は両手で杯を持った。
ほんのり温かいお茶を、一口。
それから、もう一度だけ。
「はい。やくそくです」
今度は、つかえずに言えた。




