第10節 はじめての先生と、光をしまう練習
魔法の先生が来る日の朝、お父様は私より落ち着きがなかった。
「椅子は、もう少し窓から離した方がいいのではないか」
「先ほど、ご自分で窓辺へ運ばれたでしょう?」
「光が眩しくないか、気になってな」
「それでしたら、薄いカーテンを引きましょう」
お母様がそう言うと、マリアが静かに窓辺へ向かった。
私は小さな椅子に座って、お父様を見上げる。
先生にお会いするのは私なのに、どうしてお父様の方が緊張しているのでしょう。
お兄様が隣へしゃがみ、小さな声で教えてくれた。
「父上、先生にお渡しするお手紙を三枚も書いていたんだよ」
「さんまい?」
「リリアが好きなことと、苦手なこと。それから、眠くなる時間」
……魔法の先生へお渡しするものですよね。
私のお世話をお願いするわけではないはずですが。
「大切なことだ」
聞こえていたらしいお父様が、真面目な顔で言った。
「初めて教わるのだから、不安は少ない方がいい」
その気遣いは嬉しい。
嬉しいけれど、お父様が何度も椅子を動かすので、そろそろ床の方が不安になってきました。
私は肘掛けを握って、そっと足を揃えた。
◇
やがて部屋へ入ってきたのは、灰色の髪をきれいに結った女性だった。
落ち着いた茶色の服に、小さな革の鞄。
杖も、大きな宝石も持っていない。
物語に出てくる魔法使いとは少し違っていたけれど、微笑んだ目元が優しそうだった。
「初めまして、リリアーナ様。エルナ・ベルクと申します」
先生は少し離れたところで膝を折り、私と目の高さを合わせた。
「これから、魔法のお勉強をお手伝いしますね」
「……リリア、です」
「では、リリア様とお呼びしても?」
私は頷いた。
先生の手には、小さな布袋があった。
「今日は、こちらを持ってまいりました」
中から出てきたのは、丸く磨かれた石だった。
薄い蜂蜜色をしていて、中央に白い筋が通っている。
私は思わず身を乗り出した。
「きれい」
「魔力を調べるための石です。ただし、最初は見るだけですよ」
伸ばしかけた手が止まる。
先生はすぐに私へ渡さず、まず自分の手のひらへ載せた。
蜂蜜色の石に、細い光の輪が一つ浮かぶ。
「このように、触れた人の魔力に反応します」
お兄様が目を輝かせた。
「魔力量も分かるのですか?」
「おおよその目安になります。ただ、小さなお子様は魔力の流れが安定しませんから、一度で決めつけるものではありません」
先生は石を布の上へ戻した。
「それより先に、お話をしましょう。リリア様は、どんなときに光を出したくなりましたか?」
私は少し考えた。
最初は、積み木が積めて嬉しかったとき。
それから、お兄様の足元が暗かったとき。
「あかるく、したい」
「暗いところを?」
「うん。おにいさま、みえない」
先生は私の言葉を急かさずに聞いた。
「誰かが見やすくなるように、と思ったのですね」
私は頷いた。
「では、光を出したあと、どうなりましたか?」
「……ねむい」
「ほかには?」
「ふらって」
お父様の眉が寄った。
先生は静かに頷き、今度はお母様やマリアから、そのときの様子を聞いた。
昨日までにお医者様にも診ていただき、今朝はよく眠れて、朝食も食べている。
それを一つずつ確かめてから、先生は私へ向き直った。
「今日は、たくさん光らせる練習はしません」
……やはり、そうですか。
少し残念で、膝の上の手を見下ろす。
すると先生は、柔らかな声で続けた。
「光を出すことと同じくらい、大切な練習をします」
「なあに?」
「使わないで、お休みさせる練習です」
◇
その前に、石へ触れてみることになった。
先生が布の上へ置いた石に、指先を一つだけ載せる。
「光を出そうとしなくてよいですよ。ただ、触れていてください」
私は小さく息を吐いた。
蜂蜜色の石の中に、光の輪が浮かぶ。
一つ。
それから、もう一つ。
お兄様が小さく息をのんだ。
輪は重なるように増えて、石の端まで広がっていく。
私は驚いて、指を引っ込めた。
光はすぐに薄れた。
部屋の中が静かになる。
……何か、間違えたのでしょうか。
先生の顔を見る。
先ほどと同じ穏やかな表情だったけれど、石を確かめる目は真剣だった。
「熱くありませんでしたか?」
「ない」
「疲れましたか?」
私は首を横に振った。
先生は石を鞄へ戻し、お父様へ顔を向けた。
「この年齢では、かなり珍しい反応です。大きな魔力を持っている可能性があります」
「身体への負担は?」
お父様がすぐに尋ねる。
「持っている魔力の多さと、上手に使えることは別です。先日のふらつきも、力を一度に流しすぎた可能性があります。ただ、今日の反応だけですべては判断できません」
先生は私の手を見た。
「しばらくは、光を大きくするより、出す量を少なくすること。そして、やめたいときにやめられることを大切にしましょう」
私は自分の胸へ手を当てた。
ここにある温かさ。
少し使っただけで眠くなるから、私は魔力が少ないのだと思っていた。
けれど、そうとは限らないらしい。
大きな水差しを持っていても、小さな杯へ上手に注げるとは限らない。
そんなことなのだろうか。
「まほう、へた?」
尋ねると、先生は首を横に振った。
「まだ、習っていないのですもの」
それが当たり前だという顔で、先生は言った。
「初めて匙を持った日から、こぼさずに食べられましたか?」
……今も、ときどきこぼします。
思わずマリアを見ると、微笑んで頷かれた。
私の食事事情は、しっかり把握されているようです。
◇
先生は、私の前へ柔らかな布玉を置いた。
「今日は、これを使いましょう」
片手でも包める、小さな丸い玉だった。
中に綿が入っているらしく、握ると少しへこむ。
「まず、手の中の感触を確かめます」
私は布玉を握った。
「やわらかい」
「ええ。次に、ゆっくり息を吐いてみましょう」
言われたとおりにする。
胸の奥の温かさを探そうとしたところで、先生が言った。
「光を呼ばなくて大丈夫です。今は、その玉を持っている手のことだけ考えましょう」
布が指に触れている。
縫い目が一つ。
親指の下には、小さなくぼみ。
それを確かめていると、強く意識していた胸の温かさが、少し遠くなった。
「では、手を開きましょう」
指を伸ばす。
布玉が膝へ落ちた。
「はい。今日は、これができれば十分です」
私は先生を見上げた。
「これだけ?」
「これだけです」
魔法の授業なのに、光は一度も出していない。
石を光らせたことは別として、私は布玉を握って放しただけだ。
拍子抜けしていると、お兄様が隣で同じように息を吐いた。
「僕もやってみたけれど、ほかのことを考えないのは難しいですね」
「レオンハルト様は、何を考えましたか?」
「リリアが上手にできているか、と」
お母様が笑った。
私は少し照れて、布玉を拾い直した。
もう一度。
今度は、手の中の柔らかさが、先ほどよりよく分かった。
◇
授業が終わりに近づいたころ、廊下から物音がした。
銀器が触れ合う、軽い音。
扉の近くにいた侍女が、小さく声を上げた。
お茶の盆が傾きかけたらしい。
危ない。
そう思った途端、胸の温かさが指先へ動いた。
手のひらに、淡い光がにじむ。
先生がすぐに気づいた。
「リリア様。手の中には、何がありますか?」
私は息を止めかけた。
布玉。
まだ、握っている。
「たま」
「どんな玉でしょう」
「……やわらかい」
「はい。ゆっくり、息を吐きましょう」
お父様が私へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
お兄様も動かない。
皆が待っている。
私は布の感触を確かめた。
縫い目。
柔らかな綿。
指の間に挟まった、少し余った布。
息を吐く。
手のひらの光が、薄くなった。
もう一度、吐く。
今度は、消えた。
「……きえた」
「ええ。自分で落ち着けることができましたね」
先生の言葉に、私は手を開いた。
布玉は、ただの布玉のままだ。
焦げてもいない。
光ってもいない。
廊下の侍女も、盆を持ち直していた。
「申し訳ございません、お騒がせいたしました」
「怪我はないか?」
お父様が尋ねる。
「はい。何も落としておりません」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
助けなければと思った。
けれど、私が何かをする前に、侍女は自分で盆を支えていた。
先生が私の顔を覗き込む。
「びっくりしましたね」
「うん」
「教えてくださって、ありがとうございます」
私は瞬きをした。
光を出してしまったことより、驚いたと伝えたことを受け止めてもらえた。
それが嬉しくて、布玉をそっと撫でた。
◇
「次にいらっしゃるのは、いつになりますか?」
授業のあと、お父様が先生へ尋ねた。
「数日後に、今日のご様子を伺いにまいります。しばらくは短い時間で進めましょう」
「必要なものがあれば、すべて用意する」
「では、この布玉と、普段どおりに休める時間を」
お父様が一瞬、黙った。
もっと大きな買い物をするつもりだったのでしょうか。
お母様が、私の髪を撫でながら微笑む。
「それなら、もう用意できていますね」
「……ああ」
先生は鞄を閉じ、最後に私へ尋ねた。
「また、一緒にお勉強してくださいますか?」
私は頷いた。
「せんせい、またね」
「はい。また、お会いしましょう」
扉が閉まると、お父様が私の前へしゃがんだ。
「疲れていないか?」
「すこし」
今度は、正直に答えた。
お父様の表情が和らぐ。
「では、休もう」
私は両手を伸ばしかけて、ふと思い出した。
窓辺の絵。
青い小鳥。
「そのまえ、かく」
「絵を?」
お兄様が尋ねる。
「ルゥ。おへんじ」
ずっと約束していた、私の絵。
今日なら、少し描ける気がした。
お母様とマリアが顔を見合わせる。
「では、線を三本だけにしましょうか」
「さんぼん」
私は頷いた。
お兄様が紙を押さえてくれる。
太い青の色鉛筆を握り、ゆっくり動かした。
一本目は、曲がった線。
二本目は、短い線。
三本目は、少し丸くなった。
……鳥には、見えませんね。
自分でもそう思っていると、お兄様が真剣に紙を眺めた。
「ここが羽かな?」
「……うん」
違うと言うほどの自信もなかったので、頷いた。
お父様が後ろから覗き込む。
「よく描けている」
「あなた。まだ何を描いたのか、お伝えしていませんよ」
「リリアが考えて描いたことは分かる」
私は色鉛筆を置いた。
もう少し描きたい。
丸を足せば、鳥らしくなるかもしれない。
けれど、指先は少しくたびれていた。
約束も、三本だった。
「……おしまい」
そう言うと、お兄様が紙から手を離した。
「うん。続きは、また今度にしよう」
私はお父様へ両手を伸ばした。
抱き上げられた身体が、いつもの胸元へ収まる。
「殿下には、この絵と一緒にお手紙を書こうか」
お兄様の問いに、私は頷いた。
「何を伝えたい?」
少し考えた。
魔法のことは、まだ先生とお父様たちに相談しなければいけない。
けれど、今日できたことなら、伝えてもいいだろう。
「じぶんで……おしまい、できた」
お兄様が、ゆっくり言葉を繰り返す。
「自分で、おしまいにできました」
「うん」
「分かった。そのまま書くね」
私は安心して、お父様の肩へ頬をつけた。
もっと大きな光を出すことも。
難しい魔法を覚えることも。
今の私には、まだ先の話だ。
今日は、小さな光を消せた。
疲れたと言えた。
色鉛筆を、自分で置けた。
眠くなった目で手のひらを見つめると、そこには青い色が少しついていた。
「おとうさま。あお」
「ああ。よく頑張った手だな」
お父様は汚れた指を避けず、そのまま包んでくれた。
私はもう片方の手に、布玉を握った。
次の授業にも、持っていこう。
そう考えながら、今度こそ静かに目を閉じた。




