第9節 小さな手に灯る、守りたい光
初めて「ルゥ」に近い音を出せた翌日、私は同じことを三度も求められた。
一度目は、お兄様に。
二度目は、お父様に。
三度目は、二人を止めに来たお母様に。
「……私までお願いしてしまいましたね」
お母様が、少し恥ずかしそうに笑う。
私は寝台の上から、三人の顔を順番に見た。
期待してくださるのは嬉しい。
けれど、昨日できたことが、今日もできるとは限らないのです。
「うー」
精いっぱい声を出すと、お父様が真剣な顔で頷いた。
「昨日より、声に力がある」
「あなた。毎回、何か褒めるところを探さなくてもよいのですよ」
「探してなどいない。自然と見つかるだけだ」
……それを聞いている私が、一番恥ずかしいのですが。
お兄様は笑いながら、窓辺の絵へ目を向けた。
「ルゥは逃げないから、ゆっくりでいいよ」
額に収められた青い小鳥は、今日も丸い目でこちらを見ている。
その隣には、お兄様が描いた月鈴花。
私は二枚の絵を見上げながら、口をもごもごと動かした。
いつか、ちゃんと言いたい。
小鳥の名前だけではなく。
お父様、お母様、お兄様。
それから。
大好きです、と。
◇
その「いつか」は、一度にやってきたわけではなかった。
寝返りができて、見える景色が変わった。
床の上を少し進めるようになると、お父様が部屋中の家具の角を確かめ始めた。
つかまり立ちをした日には、お兄様が両手を広げたまま、私のそばから離れなくなった。
「レオン。あなたがそこで待っていたら、リリアが動けないでしょう」
「でも、転んだら……」
「転ぶこともございますよ。敷物もございますし、私もそばにおりますから」
マリアにそう言われても、お兄様はなかなか手を下ろさなかった。
そして、初めて一歩を踏み出した日。
私は前へ進めたことより、受け止めたお父様が泣きそうな顔をしたことに驚いた。
「……歩いた」
「ええ。見ておりましたよ」
「私のところまで、自分で」
「一歩ですけれどね」
お母様の声も、少しだけ震えていた。
どうやら私は、一歩進むたびに家族の心臓へ負担をかけているらしい。
今後は、できるだけ予告してから歩こう。
そう決めたものの、歩くことに夢中になると、そんな配慮はすっかり忘れてしまった。
季節はゆっくり巡った。
庭の木が葉を落とし、新しい芽をつけ、また色を変える。
月鈴花には花のない時期もあったけれど、庭師が大切に世話を続けてくれた。
窓辺の絵は、いつも同じ場所にあった。
そして私は、二歳になった。
◇
「リリア。何歳になったの?」
朝の居間で、お兄様が尋ねる。
私は胸を張って、指を二本立てようとした。
人差し指は伸びる。
けれど、中指まで伸ばそうとすると、薬指も一緒についてくる。
……なぜですか。
頭では分かっているのに、手が相談に応じてくれない。
「にさい」
仕方がないので、言葉を先に出した。
「うん。二歳だね」
お兄様が私の隣へ座り、自分の指を二本立てる。
「こうすると、少しやりやすいかな」
真似をする。
今度は、なんとか二本になった。
「できた!」
「できたね」
お兄様と指を並べていると、背後から低い声がした。
「そのままでいてくれ」
振り返れば、お父様が扉のところに立っていた。
手には紙。
隣には、困った顔の執事。
「あなた。今日は家族でゆっくり過ごすのでしょう?」
お母様が穏やかに尋ねる。
「ああ。だから、画家は呼ばない」
呼ぶことも検討していたのですね。
「私が覚えておく」
お父様はそう言って、真剣に私たちを見つめた。
私は立てていた指を下ろし、代わりに両手を伸ばした。
「おとうさま。こっち」
お父様が、すぐに来た。
紙は執事へ預けられ、私はあっという間に抱き上げられる。
「どうした、リリア」
「いっしょ」
お兄様だけではなく、お父様も。
そう伝えるために、お兄様の袖を引いた。
大きな手と、少し細い手。
その間へ、私の小さな手を重ねる。
お父様はしばらく黙っていた。
それから、私の指先を包むように握った。
「ああ。一緒だ」
言える言葉は、まだ少ない。
長い言葉は途中で舌がもつれるし、急ぐと自分でも何を言っているのか分からなくなる。
それでも、伝わることは増えていた。
あの日、木の輪を放すだけで精いっぱいだった手で、今は家族の手をつなげる。
それが、少し誇らしかった。
◇
変わったのは、身体だけではなかった。
私は最近、不思議なものを感じるようになっていた。
最初は、暖炉のそばにいるような温かさだった。
胸の奥に、小さな熱がある。
走ったあととも違う。
眠くなったときとも違う。
特に、何かを強く願ったとき。
その温かさが、指先まで流れてくる気がするのだ。
……魔力、なのでしょうか。
前世で遊んだ乙女ゲームにも、魔法はあった。
ただし、私は魔法の使い方を教わったことがない。
画面の中で選択肢を押すことと、実際に自分の身体で使うことは、まるで違う。
それに、ゲームの物語が、すべてを教えてくれていたわけではない。
銀の飾りの由来も。
黒い紋章の指輪の持ち主も。
お父様たちの調査は続いているけれど、まだ分からないことが多かった。
薬草商のセドリック・ノルンについても、古い取引の記録が少し見つかっただけだという。
月鈴花を運んだ人だからといって、指輪の人物と関わりがあるとは限らない。
まして、私の身体に起きている変化と結びつけるのは早すぎる。
私は敷物の上へ座り、手のひらを見下ろした。
まずは、確かめるだけ。
熱いものを出そうとは思わない。
何かを飛ばそうともしない。
ほんの少し、温かさを指先へ動かしてみるだけだ。
「リリア様。積み木はこちらでよろしいですか?」
マリアの声に、私は慌てて顔を上げた。
「うん。ありがと」
運ばれてきた籠には、角を丸く削った積み木が入っている。
私は一つを取り出して、膝の前へ置いた。
その上へ、もう一つ。
三つ目を載せようとすると、塔はあっけなく崩れた。
「……むずかしい」
「下に大きなものを置いてみましょうか」
マリアが隣へ座る。
私は頷いて、積み直した。
今度は三つ。
それから、四つ。
できあがった小さな塔を見ているうちに、胸の奥がふわりと温かくなる。
嬉しい、と思った。
次の瞬間。
私の指先に、淡い光が灯った。
「……あ」
光は、積み木へ届く前に消えた。
ほんの一瞬だった。
けれど、見間違いではない。
私は目を丸くして、自分の手を見た。
「リリア様?」
マリアが顔を覗き込む。
私は思わず、両手を膝の上へ伏せた。
「なんでも、ない」
そう答えてから、胸がちくりとした。
何でもないわけではない。
でも、まだ説明できなかった。
魔法だと決まったわけではないし、どうすればもう一度できるのかも分からない。
お父様に知られたら、お医者様と魔法の先生と、念のための護衛まで集まりそうだ。
……少しだけ。
もう少し自分で確かめてから、お話ししよう。
私はそう決めて、積み木へ手を伸ばした。
◇
それから私は、ときどき秘密の練習をするようになった。
といっても、一人きりになるわけではない。
私のそばには、たいてい誰かがいる。
マリアが縫い物をしている間や、お兄様が同じ部屋で本を読んでいる間。
私は膝の上で手を開き、胸の温かさをそっと意識した。
出ない日もあった。
頑張って眉間へ力を入れたら、マリアにお腹の具合を心配された日もあった。
……そこに力を入れるのではなかったようです。
何度か試すうちに、強く命じるより、ゆっくり息を吐いた方がよいと分かった。
光は小さい。
昼間には、ほとんど見えない。
それでも、確かに私の指から生まれていた。
困ったのは、そのあとだった。
少し光らせただけなのに、ひどく眠くなる。
ある午後、私は絵本を開いたまま、こくりと頭を揺らした。
「リリア。眠い?」
「ねむく、ない」
お兄様へ答えながら、もう一度、頭が揺れる。
説得力がありませんでした。
「続きは、起きてから読もうか」
「あと、ちょっと……」
「小鳥が巣へ帰るところまで?」
私は頷いた。
お兄様は私を膝へ乗せ直し、ゆっくりページをめくる。
その手が温かくて、安心して。
気づけば、絵本の続きを聞く前に眠ってしまっていた。
◇
秘密が見つかったのは、その数日後の夕方だった。
お兄様と並んで、窓辺の絵を見ていた。
新しい花をつけた月鈴花。
お兄様が幼い頃に描いた、その花の絵。
そして、ユリウス殿下の青い小鳥。
「今度のお返事には、リリアも何か描いてみる?」
「とり?」
「鳥でもいいし、好きな色を塗るだけでもいいよ」
私は頷いた。
ユリウス殿下からは、その後もときどき絵が届いていた。
ルゥが水浴びをした絵。
庭に落ちた木の実の絵。
お兄様がお返事を書くとき、私は横から覗き込んで、ときどき紙の端へ線を引かせてもらっていた。
次は、青を使おう。
そう考えて手を伸ばしたとき、足元で積み木が転がった。
「あ」
お兄様が屈んで拾おうとする。
机の陰で、床が暗い。
見えにくそう、と思った。
もう少し明るければ。
その願いに応えるように、手のひらへ光が集まった。
今までより、大きい。
丸い光が、私の手からふわりと浮いた。
机の脚と、落ちた積み木。
それから、お兄様の驚いた顔が、淡く照らされる。
「……リリア?」
私は息を止めた。
光が揺れる。
隠さなければと思った途端、胸の奥から何かが引き出されるような感覚がした。
足元がふらつく。
光が消えるより先に、お兄様の腕が私を支えた。
「マリア!」
呼ぶ声が、いつもより高かった。
私はその袖をつかむ。
「だいじょうぶ」
「うん。でも、座ろう。ここに」
お兄様は私を敷物の上へ座らせ、自分も隣へ膝をついた。
マリアが駆け寄ってくる。
ほどなくして、お父様とお母様まで部屋へ入ってきた。
……やはり、こうなりますよね。
私は膝の上で、小さく手を握った。
◇
「どこか痛むか?」
お父様の問いに、私は首を横に振った。
「怖かった?」
お母様にも、首を横に振る。
けれど、次の言葉は、すぐには出なかった。
「……ないしょ、した」
お兄様が、私の手を見た。
「前にも、光ったことがあったの?」
「ちょっと」
「何回くらい?」
私は指を折ろうとして、途中で分からなくなった。
お母様が私の背中へ手を添える。
「何度か、試していたのですね」
私は頷いた。
お父様は叱らなかった。
ただ、私と目の高さを合わせて尋ねる。
「どうして、光を出そうと思った?」
「……まもる」
言葉が短すぎる。
これでは、伝わらないかもしれない。
私は焦って、続きを探した。
「おとうさま。おかあさま。おにいさまも」
前世で見たゲームの結末。
私を守ろうとして、破滅する家族。
あの未来を変えるために、できることを増やしたかった。
「リリア、できること……」
うまく続かなくて、唇を結ぶ。
お兄様が、私の握った手へ指を添えた。
「僕たちを守れるようになりたかったの?」
私は頷いた。
お父様が、深く息を吐いた。
それから、私の小さな手を両手で包む。
「その気持ちは、嬉しい」
低い声が、ゆっくり耳へ届いた。
「だが、リリアが疲れて倒れてしまったら、私は悲しい」
「……ごめん、なさい」
「謝ってほしくて言ったのではない。一緒に考えたいんだ」
お母様の手が、背中を優しく撫でる。
「どのくらいなら疲れないのか。どうすれば安全に使えるのか。私たちも知りませんもの。分かる方に教えていただきましょう」
先生。
その言葉に、私は顔を上げた。
「まほう?」
「ええ。ただ、まずは身体に無理がないか、確かめてからですよ」
お兄様が、ほっとしたように笑った。
「僕も一緒に勉強していいですか?」
「もちろんだ」
お父様が答える。
「リリアが話しにくいことは、私たちが聞けばいい」
私は皆を見回した。
秘密にして、一人でできるようになろうとしていた。
でも、木の輪を放す練習だって、お兄様たちが待ってくれたからできたのだ。
魔法も、同じなのかもしれない。
「いっしょに?」
「ああ。一緒に」
お父様の返事を聞いて、握っていた手が少し緩んだ。
今度は隠すためではなく、皆に見てもらうために、手のひらを上へ向ける。
けれど、お母様がそっとその手を包んだ。
「今日は、もうおしまいです」
「……ちょっとも?」
「ちょっとも、です」
マリアが毛布を持ってきた。
お兄様は絵本を取ってくる。
お父様は私を抱き上げて、長椅子へ座った。
どうやら本日の私は、完全に休ませてもらうらしい。
私はお父様の胸へ頬を寄せた。
自分の手から生まれた光は、まだ頼りない。
部屋を明るくすることさえできず、落ちた積み木を照らしただけ。
それでも、お兄様の役には少し立った。
明日は、今日より上手に。
そのために、今日は休もう。
「おとうさま」
「どうした?」
「せんせい……こわくない、ひと」
頭の上で、お父様が小さく笑った。
「分かった。優しく教えてくれる者を探そう」
「お父様より怖くない方ですね」
お母様が付け加える。
「私は怖くないだろう」
お兄様が絵本で口元を隠した。
マリアまで、視線をそらしている。
私は少し考えてから、お父様の服をつかんだ。
「リリアには、やさしい」
お父様の腕に、ほんの少し力がこもった。
「これからも、そうする」
その声を聞きながら、私は目を閉じた。
守りたい人たちに、今日も守られている。
いつか私も、この人たちを安心させられるだろうか。
まずは先生のお話を、きちんと聞くところから。
眠りに落ちる前、私はそう決めた。




