第8節 王子様から届いた小鳥
王妃様からのお手紙が届いてから、三日が過ぎた。
窓辺の月鈴花は、今日も静かに咲いている。
月と星に似た紋様も、白い花びらも、何ひとつ変わっていない。
けれど私は、以前よりも花を眺める時間が増えていた。
見ているうちに、また光るかもしれない。
そんな期待がないと言えば、嘘になる。
けれど、それだけではなかった。
「リリア様。そろそろ、お手々をお休めになりませんか?」
マリアの声に、私は自分の手元へ視線を戻した。
掛け物の上には、小さな木の輪が置かれている。
赤ちゃんの手でも握りやすいように、角を丸く削った玩具だ。
お兄様の指をつかんだり放したりする練習をしていると知ったお父様が、職人へ頼んで作らせたらしい。
……仕事が早すぎませんか、お父様。
しかも、ただの木の輪ではない。
表面には月鈴花が彫られ、私の名前まで入っている。
練習用の玩具にしては、ずいぶん立派だ。
「もう一度だけなさいますか?」
「あぅ」
私は木の輪へ手を伸ばした。
指先が表面へ触れる。
少しだけ腕を動かし、輪の内側へ指を入れる。
握ることは、もう難しくない。
問題は、ここからだ。
力を抜こうと意識すると、なぜか指先へ余計な力が入る。
……落としてはいけないと思うからでしょうか。
でも今は、落とす練習なのです。
私はゆっくり息を吐いた。
一本ずつ指を開く。
木の輪が傾き、掛け物の上へ転がった。
「まあ。できましたね」
マリアが微笑む。
私は空になった手を見つめた。
今日は、昨日より少しだけ早く放せた。
嬉しくなって、もう一度輪へ手を伸ばす。
「リリア様。お休みになるお約束でございましたよ」
……覚えていらっしゃいましたか。
「頑張ることは大切ですが、頑張りすぎないことも大切でございます」
マリアは木の輪を拾うと、寝台の脇にある籠へ戻した。
私は名残惜しくて、そちらへ手を伸ばす。
「あとで、お兄様にもご覧いただきましょう。それまで、お手々はお休みです」
お兄様。
その言葉を聞いて、私は手を下ろした。
朝の勉強を終えたら、こちらへ来てくれると約束していた。
昨日より上手になったところを見せたい。
できれば一度で成功させたいけれど、皆に見られると緊張してしまう。
……練習ではできていたのに、ということにならなければいいのですが。
私が真剣に考えていると、廊下から足音が聞こえた。
お兄様にしては、少しゆっくりだ。
足音は扉の前で止まり、控えめな音が二度響いた。
「どうぞ」
マリアが答える。
扉から顔を覗かせたのは、やはりお兄様だった。
ただし、その隣にはお父様もいる。
「リリア、起きてる?」
「あぅ!」
「起きているな」
お父様まで、ほっとしたような顔をした。
眠っていたとしても、あとで来ればよいだけではないでしょうか。
二人とも、何かを大切そうに持っている。
お父様の手には、王家の印が押された封筒。
お兄様の手には、それよりも少し小さな包みがあった。
「王宮から届いたものだ」
お父様が、寝台のそばへ椅子を寄せる。
「飾りの裏側にあった紋様の写しが届いた。それから、こちらはユリウス殿下から、レオンとリリアへ」
お兄様が持つ包みを掲げた。
「僕だけではなく、リリアにもだそうです」
……私にも?
私は思わず両手を伸ばした。
「待ってね。今、開けるから」
お兄様が紐を解く。
中から出てきたのは、折り畳まれた一枚の紙だった。
お兄様が慎重に紙を開いた瞬間、鮮やかな青色が目に入る。
大きな木。
その枝に止まる、小さな青い鳥。
空の色はところどころ紙からはみ出し、木の幹は少し曲がっている。
けれど、鳥の丸い目や小さなくちばしは、とても丁寧に描かれていた。
「これが、ユリウス殿下の小鳥……」
お兄様の声が弾む。
紙の端には、短い言葉も添えられている。
「レオンハルトと、リリアーナへ。約束の小鳥です。名前はルゥです。今度会ったら、本物も見てください」
お兄様が読み終えると、私は絵へ手を伸ばした。
「触りたい?」
「あぅ」
「では、破れないように、僕も持っているね」
お兄様が紙の両端を支えてくれる。
私は絵の中央ではなく、余白へ指先を触れさせた。
少しざらついた紙の感触。
青い小鳥は、こちらを向いているように見える。
王宮で、ユリウス殿下が話してくれた鳥。
話したことを覚えていて、本当に描いてくれたのだ。
……ありがとうございます、ユリウス殿下。
次に会うときまで、私も小鳥の名前を覚えておきます。
「リリアは、鳥が気に入ったみたい」
お兄様が嬉しそうに言う。
「あぅ、う」
「ルゥだよ」
「うぅ」
「もう一度。ルゥ」
「うー」
音をまねしようとしても、うまく舌が動かない。
けれど、お兄様は目を輝かせた。
「父上。リリアが、ルゥと言おうとしました」
「確かに聞こえた」
お父様まで大きく頷いている。
……いえ。
今のは、どう考えても「うー」です。
お二人とも、私の言葉を理解したいあまり、聞き取り方が都合よくなっていませんか。
「もう一度、言える?」
期待に満ちた顔で、お兄様が尋ねる。
私は少し困った。
言いたい。
けれど、頑張ってもうまく言えないかもしれない。
失敗したら、お兄様はがっかりするだろうか。
迷っていると、お兄様はすぐに表情を和らげた。
「今度でいいよ。ルゥの絵は、ここに置いておくから」
急かさずに待ってくれる。
指を放す練習のときと同じだ。
私は絵から手を離し、代わりにお兄様へ腕を伸ばした。
お兄様が指を差し出してくれる。
握る。
少しだけ待つ。
そして、ゆっくり放す。
「できたね」
「あぅ!」
「昨日より早いですか?」
お兄様がマリアへ尋ねる。
「ええ。先ほども、お一人で木の輪を上手にお放しになりました」
「一人で?」
お兄様が私を見る。
お父様も見る。
二人の視線が、私の手へ集まった。
……これは、もう一度お見せする流れでしょうか。
マリアが籠から木の輪を取り出し、私の前へ置いた。
「ご無理はなさらなくてもよろしいのですよ」
そう言われると、少し気持ちが楽になる。
私は木の輪へ手を伸ばした。
握る。
皆が見ている。
先ほどより指先へ力が入ってしまう。
やはり、本番に弱いようだ。
私はお兄様を見た。
「ゆっくりでいいよ」
いつもの声がする。
お父様も、今度は顔を近づけすぎず、椅子へ座ったまま待っている。
私は息を吐いた。
手を開く。
木の輪が、ころん、と掛け物の上へ落ちた。
「できた!」
お兄様が歓声を上げる。
「上手だったぞ、リリア」
お父様の大きな手が、私の頭を優しく撫でた。
褒められるのは、やはり少し恥ずかしい。
けれど、昨日までできなかったことが、今日はできる。
その小さな変化を一緒に喜んでもらえるのは、温かかった。
◇
お母様も部屋へ来ると、お父様は王妃様から届いた封筒を開いた。
中には、手紙と一枚の厚い紙が入っている。
厚紙には、銀の飾りの表と裏が、同じ大きさで丁寧に写し取られていた。
表側は、私たちが王宮で見たとおりだ。
月の曲線。
その中央にある星。
そして、白い石。
裏側には、王妃様のお手紙にあった欠けた円が描かれている。
円の一部が途切れ、その内側に小さな黒い印があった。
「こちらが、指輪の紋章ですか?」
お母様が尋ねる。
お父様は机の上へ、もう一枚の紙を並べた。
黒い紋章の指輪を目撃した者から聞き取り、描かせたものらしい。
お兄様も椅子から身を乗り出す。
「似ています。でも……同じでしょうか」
私も二つの絵を見比べた。
どちらにも、欠けた円がある。
内側には、黒い小さな印。
一見すると、よく似ている。
けれど、指輪の紋章にある黒い印は、細長い。
飾りの裏側にあるものは、星のように四方へ角が伸びている。
「黒い部分の形が違うな」
お父様が指先で示した。
「写した者の見間違いという可能性はありますか?」
「ある。指輪を近くで確かめたわけではないからな。だが、違う印である可能性も考えた方がいい」
お父様は二枚の紙を重ねず、少し離して並べた。
似ているからといって、一つのものだと決めてはいけない。
月鈴花と銀の飾りを見比べたときにも、そう教わった。
「月の守り手の印ではないのですか?」
お兄様が尋ねる。
「まだ分からない。王妃殿下も、飾りの由来を調べてくださっている。ただ、古い宝物目録には『夜を導く者へ贈られた銀飾り』としか記されていなかったそうだ」
「夜を導く者……」
お母様が静かに繰り返す。
私は胸の中で、その言葉を何度もなぞった。
月の守り手。
夜を導く者。
似ているようにも思える。
けれど、同じだとは限らない。
「王宮警備の記録は?」
お母様の問いに、お父様の表情が少しだけ険しくなる。
「候補は絞られてきた。あの日、黒い指輪を身につけて王宮へ入ることができた者は多くない。ただし、正式な紋章として届け出られた指輪は見つかっていない」
「隠して持ち込んだのでしょうか」
「その可能性はある。あるいは、出入りの記録に残らない立場の者か」
部屋に重い沈黙が落ちる。
私は掛け物の上にある木の輪を握った。
黒い紋章の人物。
前の人生で家族に起きたことと、何か関係があるかもしれない。
そう思うと、指先に力が入る。
木の輪が、手の中から離れなくなった。
「リリア?」
お兄様がすぐに気づく。
私は放そうとした。
けれど、焦るほど指が固くなる。
「大丈夫だよ。落とさなくてもいいんだよ」
お兄様の言葉に、私は顔を上げた。
「放す練習をしているけれど、ずっと持っていたいときは、持っていてもいいんでしょう?」
お兄様はお父様へ尋ねた。
「ああ。もちろんだ」
お父様が頷く。
「自分で放せることと、すぐに放さなければならないことは違うからな」
私は握った木の輪を見た。
放せなくて困っているのか。
今は放したくないのか。
同じように見えても、違う。
怖さを消すことは、まだできない。
けれど、無理に手放さなくてもいいのだ。
私は木の輪を握ったまま、お兄様へ反対の手を伸ばした。
差し出された指をつかむ。
右手には、お父様が作ってくれた木の輪。
左手には、お兄様の指。
「両方、持てたね」
お兄様が笑った。
……はい。
今の私の手でも、二つまでなら持てるようです。
◇
その日の午後、庭師が古い記録を持ってきた。
七年前、月鈴花の苗を置いていった薬草商の名が見つかったらしい。
「セドリック・ノルンという者でございました」
庭師から紙を受け取ったお父様が、名前を読み上げる。
「出身地は?」
「記録には、北東のルナリア地方とございます。ただ、仕入れ先については書かれておりません」
「ルナリア……月の古い呼び名と同じですね」
お母様が言った。
お父様はすぐには答えず、紙を確かめている。
「偶然かもしれない。地名としては、昔からあるものだ」
「でも、調べるところが一つ増えましたね」
お兄様が嬉しそうに言う。
「ああ。ルナリア地方の植物記録と、薬草商の名を調べよう」
「僕にもできることはありますか?」
「地図でルナリア地方を探してみるか」
「はい!」
お兄様はすぐに地図を取りに行こうとして、途中で立ち止まった。
そして、私の方を振り返る。
「リリアも、一緒に見る?」
「あぅ!」
もちろんです。
今の私には、文字を読むことも、地図の場所を指さすことも難しい。
けれど、見届け役ならできる。
お兄様が広げる地図を見て。
お父様たちの話を聞いて。
大切なことを覚えておく。
それも、家族を救うために私ができることだ。
お兄様が地図を取りに部屋を出ると、お父様はユリウス殿下の絵へ視線を向けた。
「この絵は、どこへ飾ろうか」
私は窓辺の方へ顔を向けた。
月鈴花が見える場所。
お兄様が描いてくれた二枚の花の隣。
「窓辺がよいようですね」
マリアが私の視線に気づいた。
「では、額を用意させよう」
お父様が答える。
……また、額まで作るのですか。
紙を傷めないためには必要なのかもしれないけれど、お父様に任せると、王宮へ飾れるほど立派な額が届きそうだ。
「お兄様の絵と同じような、優しいものにしてくださいね」
お母様が釘を刺す。
「分かっている」
お父様が少し残念そうに見えたのは、気のせいでしょうか。
やがて戻ってきたお兄様が、大きな地図を机いっぱいに広げた。
「ルナリア地方は……ここです!」
指さしたのは、王都からずっと北東。
深い森と、山に囲まれた小さな地方だった。
「遠いですね」
「ああ。馬車なら、十日以上はかかる」
今すぐ行ける場所ではない。
けれど、そこから旅をしてきた薬草商がいた。
そして月鈴花は、遠い土地からこの屋敷へ運ばれ、今も私の窓辺で咲いている。
私はユリウス殿下が描いた小鳥を見た。
青い小鳥のルゥ。
月鈴花。
銀の飾り。
欠けた円と、黒い印。
ばらばらに見えるものが、少しずつ私たちの周りへ集まってきている。
まだ、どれとどれがつながるのかは分からない。
無理につなげてはいけない。
でも、一つずつ大切に覚えていけば、いつか本当の形が見えてくるかもしれない。
「リリア。ここが、ルナリア地方だよ」
お兄様が私にも地図を見せてくれる。
私は手を伸ばした。
けれど、紙をつかめば皺にしてしまう。
少し考えてから、指先をお兄様の手の甲へ載せた。
お兄様の指が示す場所を、一緒に見る。
今は、自分一人で指させなくてもいい。
お兄様の手を借りれば、同じ場所を見ることができる。
「いつか、行けるといいね」
お兄様が小さく言った。
お父様はすぐに約束しなかった。
遠い場所へ幼い子どもたちを連れていくのは、簡単ではないからだろう。
「安全が確かめられたら、いつかな」
「はい」
いつか。
その言葉を、私は胸の中へしまった。
そのころには、自分で歩けるだろうか。
言葉を話し、皆へ伝えたいことを伝えられるようになっているだろうか。
今はまだ、木の輪を放せただけ。
小鳥の名前も、うまく言えない。
それでも。
「うー……」
私は窓辺の絵を見ながら、もう一度声を出した。
お兄様が振り返る。
「リリア?」
青い小鳥を思い浮かべる。
ルゥ。
舌を動かし、息を吐く。
「る……ぅ」
部屋が静かになった。
お兄様の目が、これ以上ないほど大きく開く。
「今、ルゥって言った?」
私は自分でも驚いていた。
完璧な音ではなかった。
けれど、先ほどよりは近かったと思う。
「リリア、もう一度言える?」
お兄様が期待に満ちた顔で尋ねる。
私は口を開いた。
けれど、今度は息しか出ない。
「無理をさせてはいけないわ」
お母様が笑いながら、お兄様の肩へ手を置いた。
「でも、確かに聞こえましたよ」
マリアが目元を和らげる。
「王妃殿下とユリウス殿下へ、お知らせしなければ」
お父様は、もう手紙を書くつもりらしい。
……お父様。
また長いお手紙になりませんか。
「リリアが初めて名前を呼んだのは、ユリウス殿下の小鳥だったと、詳しくお伝えしよう」
「あなた。まずは、本当に言葉だったのか、少し様子を見てからにしましょうね」
「しかし、今のは確かに――」
「リリアが緊張してしまいます」
お父様が口を閉じる。
お兄様は、私のそばへ来て指を差し出した。
「大丈夫。次に言えるまで、待っているから」
私はその指を握った。
今は、まだ放さない。
窓辺には、お兄様の描いた月鈴花と、ユリウス殿下の描いた小鳥が並んでいる。
遠く離れた王宮と、この屋敷。
言葉をうまく話せない私と、会えない間も絵を届けてくれる人たち。
離れていても、つながる方法はある。
私はお兄様の指を握ったまま、もう一度、青い小鳥を見た。
次こそは、もっと上手に呼んでみせます。
それまで、どうかそこで待っていてくださいね。
ルゥ。




