第7節 月鈴花がやってきた日
翌朝、目を覚ますと、最初に見えたのは二枚の月鈴花だった。
一枚は、お兄様が初めて描いてくれた、柔らかな緑色の葉と白い花。
もう一枚は、王妃様へ送った清書を作る前に、何度も線を重ねた練習の絵だ。
寝台から見える低い棚の上に、二枚が仲よく並んでいる。
……約束どおりです。
お兄様は、私が眠っている間に飾ってくれたらしい。
昨日のことを思い出しながら、私は右手を持ち上げた。
握る。
開く。
もう一度、握る。
昨日は、お兄様の袖を放すだけで、ずいぶん苦労した。
けれど、今朝の私の手は、何もつかんでいないせいか素直に動いてくれる。
……本番に弱いのでしょうか、私の指は。
「リリア様、お目覚めですか?」
寝台のそばで布を畳んでいたマリアが、すぐに気づいた。
「おはようございます。ずいぶん熱心に、お手々を動かしていらっしゃいますね」
「あぅ」
「昨日、お兄様のお袖をお放しになれたことが嬉しかったのでしょうか」
……もう、ご存じなのですね。
お母様から聞いたのか。
それとも、あの場にいたマリア自身が、お屋敷中へ広めたのか。
どちらにしても、お父様のお耳にも届いている気がする。
私が少しだけ不安になっていると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「リリアは起きた?」
扉が開く前に、お兄様の声がした。
「レオンハルト様。お入りになる前に、まず扉をお叩きくださいませ」
「あっ……ごめんなさい」
素直な謝罪のあと、今度は控えめな音が二度響く。
「どうぞ」とマリアが答えると、お兄様がそっと顔を覗かせた。
「おはよう、リリア」
「あぅ!」
「昨日のお袖のこと、父上にお話ししてもいい?」
朝一番に確認することが、それなのですか。
私は返事の代わりに手を動かした。
すると、お兄様は嬉しそうに寝台へ近づいてくる。
「もう練習しているの?」
「先ほどから、何度もお手々を開いたり閉じたりなさっています」
「じゃあ、今日もできるかもしれないね」
お兄様が指を差し出した。
私は反射的に、それを握る。
「つかめた」
お兄様が笑った。
しかし、昨日の大切な発見は、つかむことではない。
放すことだ。
私は指先から力を抜こうとした。
けれど、お兄様の指は温かくて、ちょうど握りやすい太さをしている。
……困りました。
放す必要性を、私の手が感じていません。
「ゆっくりでいいよ」
昨日と同じ声がする。
急かさず、引っ張らず、ただ待ってくれる声。
私は息を吐いた。
一本ずつ指を開くように意識する。
ほんの少し、お兄様の指から手のひらが離れた。
あと少し。
最後まで残っていた小指が、ようやく離れる。
「できた!」
お兄様の明るい声が、部屋に響いた。
「昨日よりお早くできましたね」
マリアも微笑んでいる。
私は開いた手を見た。
……できました。
放しても、お兄様の指はなくならない。
昨日、教えてもらったとおりだった。
「父上にお話ししてくる!」
「レオンハルト様、廊下は走らないでくださいませ」
「走らないよ。少し急ぐだけ!」
それを走るというのではないでしょうか。
お兄様の足音が遠ざかって間もなく、今度はもっと落ち着いた足音が聞こえてきた。
「リリアが、昨日より早く指を放せたと聞いた」
お父様です。
……早いです。
お兄様は、いったいどこでお父様を捕まえたのでしょう。
「あなた、おはようございますが先でしょう?」
後ろから入ってきたお母様が、困ったように笑っている。
「ああ。そうだったな。おはよう、リリア」
お父様は寝台の横へ来ると、真剣な顔で私の手を見た。
「父様の指でも、見せてくれるか?」
私はお父様の指を握った。
お父様の手は、お兄様よりずっと大きい。
温かい指を握り、すぐに放そうとする。
けれど、今度は先ほどより難しかった。
指の大きさが違うからだろうか。
それとも、皆に見られているせいだろうか。
お父様。
あまり真剣に見つめられると、緊張してしまいます。
「あなた。リリアが困っていますよ」
「……見すぎただろうか」
「少しだけ、離れて見守りましょう」
お父様が顔を遠ざける。
お兄様も、私の手元を覗き込むのをやめてくれた。
すると、指先から余計な力が抜けた。
するりと、お父様の指が離れる。
「放した」
「放せたね、リリア!」
「ええ。上手にできました」
三人から一斉に褒められ、私は手を掛け物の下へ隠したくなった。
指を放しただけなのに。
公爵家の朝が、まるで祝い事のようになっている。
……少し恥ずかしいです。
けれど、嫌ではありません。
◇
朝食を終えたころ、年配の庭師がお父様に連れられて部屋へやってきた。
日に焼けた顔に、白いものの混じった髪。
庭師は扉のそばで深く頭を下げた。
「お呼びと伺い、参りました」
「急にすまない。月鈴花について、覚えていることを聞きたい」
「こちらのお部屋の鉢でございますか?」
「ああ。この屋敷へ来た経緯が分かるか」
庭師は窓辺の月鈴花を見た。
すぐには答えず、記憶をたどるように目を細めている。
「わたくしが苗を受け取ったのは、七年ほど前でございます」
「七年前……レオンが生まれるよりも前か」
「はい。先代の旦那様のご存命中でございました」
先代。
私にとっては、お祖父様にあたる方だろう。
けれど、お父様の表情がわずかに硬くなったことに、私は気づいた。
「父が、この花を?」
「いいえ。お持ちになったのは、旅の薬草商でございます」
「薬草商?」
「東の街道で馬車を壊し、こちらの領内にしばらく滞在していた者です。屋敷から修理の職人を紹介した礼にと、いくつかの苗を置いていきました」
私は月鈴花を見た。
王宮からでも、古い神殿からでもない。
旅の薬草商が運んできた花。
思っていたよりも、ごく普通の来歴に聞こえる。
「苗は、これ一つだけだったのか?」
「三つございました。ただ、月鈴花はこの土地の冬が合わなかったようで、二つは翌年まで持ちませんでした。残った一株を温室で育て、株分けしたものが、この鉢でございます」
「では、元の株は温室に?」
「いいえ。それが……」
庭師が眉を下げた。
「三年前の寒波で、元の株も枯れてしまいました。今残っておりますのは、こちらの鉢と、庭師小屋で育てております小さな株だけでございます」
「もう一株、あるのか」
「はい。ただ、まだ花をつけたことはございません」
私は胸の中で息を吐いた。
月鈴花が、この一鉢しかないわけではない。
そのことに少し安心する。
「この花の中心にある紋様について、何か聞いているか?」
お父様が、お兄様の描いた絵を庭師へ見せた。
庭師は絵と本物の花を見比べた。
「月と星のような模様でございますね。わたくしも、花が咲くたび目にはしておりましたが……特別な意味があるとは聞いておりません」
「薬草商の名は残っているだろうか」
「当時の出入りの記録を調べれば、分かるかもしれません。ただ、苗を置いていったあと、同じ商人が再び領内へ来たという話は聞いておりません」
「記録を探してほしい。無理に急ぐ必要はないが、見つけたものは、どれほど小さなことでも知らせてくれ」
「かしこまりました」
庭師が再び頭を下げたとき、お兄様が遠慮がちに口を開いた。
「あの、僕も聞いていいですか?」
「もちろんでございます、レオンハルト様」
「庭師小屋にある月鈴花の葉にも、同じ模様がありますか?」
「葉には模様がございません。月と星の形が現れるのは、花の中心だけでございます」
「では、花が咲くまで、同じ月鈴花か分からないのですか?」
庭師は少し考えた。
「葉の形や育ち方は同じでございますから、月鈴花で間違いはございません。ただ、花の紋様まで同じかどうかは、咲いてみなければ分かりません」
「いつごろ咲きますか?」
「順調に育てば、次の春には」
「春……」
お兄様は窓の外を見た。
次の春は、まだ遠い。
「それまで、元気に育てられますか?」
「はい。大切に世話をいたします」
庭師の答えを聞いて、お兄様はほっとしたように頷いた。
私も同じ気持ちだった。
今すぐ答えが分からなくても。
春まで大切に育てれば、新しいことが分かるかもしれない。
◇
庭師が退出したあと、お父様は聞いたことを紙へ書き留め始めた。
お兄様は、その隣で指を折っている。
「三つの苗があって、二つが枯れて、残った一つを分けて……その元の花も枯れてしまったから、今は二つですか?」
「そうだ。リリアの部屋の鉢と、庭師小屋の若い株だな」
「薬草商の人は、どこで見つけたのでしょう」
「記録に出身地や仕入れ先が残っていれば、手掛かりになるかもしれない」
「見つからなかったら?」
お兄様の問いに、お父様のペンが止まった。
「そのときは、今分かっていることから考える」
「でも、ずっと分からないかもしれません」
「ああ。その可能性もある」
お父様は、ごまかさなかった。
お兄様の顔が、少し曇る。
私はお母様の膝の上から、お兄様へ手を伸ばした。
届かない距離だったけれど、お兄様はすぐに気づいて近づいてくる。
「どうしたの、リリア」
差し出された指を握る。
今度は、すぐに放した。
「あ……」
お兄様が目を丸くする。
もう一度、私はその指を握った。
そして、もう一度放す。
「リリア、さっきより上手になってる」
お兄様の曇っていた顔が、明るくなった。
……そうです。
すぐにできなくても、少しずつです。
もちろん、私の指の練習と、月鈴花の謎を同じにするのは無理があるかもしれません。
けれど、お兄様には伝わったらしい。
「春まで待っている間に、僕たちも、もっといろいろ調べられますよね」
「ああ。王妃殿下からのお返事も待っている。王宮に残る記録と、こちらの記録。両方を確かめればいい」
「僕も手伝えますか?」
「もちろんだ。ただし、勉強や休む時間までなくしてはいけない」
「はい!」
元気に返事をしたお兄様の指を、私はもう一度つかんだ。
今度は、少しだけ長く握る。
放すことができるようになったからといって。
ずっと、つないでいてはいけないわけではない。
「リリアは、今度は放さないの?」
お兄様が尋ねる。
……はい。
今は、まだこのままで。
私が握っている間、お兄様は手を引かなかった。
◇
昼を過ぎたころ、王宮から早くも返事が届いた。
王妃様の印が押された封筒と、その隣に、もう一つ小さな封筒がある。
「こちらは、ユリウス殿下からレオンへだそうだ」
「僕にですか?」
お兄様が驚いて、自分を指さした。
「王妃殿下のお手紙によると、殿下がお前の描いた絵をご覧になり、お返事を書きたいとおっしゃったらしい」
「僕が先に開けてもいいのですか?」
「お前宛ての手紙だからな」
お兄様は緊張した手つきで封を開いた。
中から出てきた紙には、大きさの揃わない文字が、ゆっくり丁寧に並んでいる。
お兄様が声に出して読んでくれた。
「レオンハルトへ。花の絵を、ありがとう。母上の飾りと、本当によく似ています。リリアーナが元気だと聞いて、安心しました。今度は僕の小鳥も描いて送ります。ユリウス」
読み終えたお兄様は、嬉しそうに紙を見つめた。
「殿下も、絵を描いてくださるそうです」
「よかったわね」
お母様が微笑む。
私は、ユリウス殿下の顔を思い出した。
王宮で会った、穏やかな男の子。
婚約者としてではなく。
まだ、ただ知り合ったばかりの相手として。
小鳥の話をしてくれたことが、私は嬉しかった。
……楽しみにしています、ユリウス殿下。
「王妃殿下からの手紙には、何と?」
お母様が尋ねると、お父様は大きな便箋へ目を戻した。
「飾りの由来について、古い宝物目録を調べてくださるそうだ。それから……白い石が光ったのは、王妃殿下が飾りを受け継いでから初めてのことだと」
部屋が静かになった。
私は胸元へ意識を向けた。
あのとき感じた、温かさ。
月鈴花が光ったときと、よく似ていた。
「もう一つ。飾りの裏側にも、模様が刻まれていたそうだ」
「どのような模様ですか?」
お兄様が身を乗り出す。
「まだ、写しを作らせているところらしい。ただ……」
お父様の表情が、わずかに険しくなった。
「欠けた円の中に、黒い小さな印がある、と書かれている」
黒い印。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に、あの指輪が浮かんだ。
黒い紋章の指輪をはめた人物。
月の守り手かもしれないと、お父様たちが王宮警備を調べている相手。
私の手に、思わず力が入った。
「リリア?」
握られた指の変化に、お兄様が気づく。
私は慌てて放そうとした。
けれど、今度はうまくいかない。
「大丈夫だよ」
お兄様が、私のそばへ椅子を寄せた。
「放せるまで、ここにいるから」
……お兄様。
黒い印が、指輪と同じものかは、まだ分からない。
飾りと月鈴花の紋様が似ていても、同じ由来とは限らなかったように。
今は、決めつけてはいけない。
分からないことは、分からないまま書き留める。
お父様とお兄様が、昨日教えてくれたことだ。
私は息をゆっくり吐いた。
指先の力が、少しずつ抜けていく。
お兄様の指を、ようやく放す。
「できたね」
「あぅ」
けれど、手が空になると、急に心細くなった。
私はもう一度、お兄様へ手を伸ばす。
お兄様は何も尋ねず、指を差し出してくれた。
今度は、つかむために。
怖いから、離れられないのではない。
放せると知ったうえで、もう一度つなぐ。
それもきっと、昨日までの私にはできなかった、小さな成長なのだ。
「飾りの裏側の写しが届けば、指輪の紋章と比較できる」
お父様が静かに言った。
「警備記録の調査も続ける。ただし、相手に気づかれないよう慎重にだ」
「何か分かりましたら、私にも教えてくださいね」
お母様の声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
「ああ。一人で抱え込まないと約束する」
お父様はそう答え、お母様の手へ自分の手を重ねた。
お兄様は私のそばにいる。
マリアも、すぐ後ろで見守ってくれている。
私は皆の顔を順番に見た。
前の人生では、一人で何とかしなければならないと思っていた。
家族を救う方法を、私だけで探し出さなければならないと。
けれど今は。
月鈴花の小さな紋様を、お兄様が見つけてくれた。
花の来歴を、お父様が調べてくれている。
お母様は不安を隠さず、一緒に考えようとしてくれる。
マリアは、私の小さな動きを見逃さない。
遠い王宮では、王妃様とユリウス殿下まで力を貸してくれている。
私はお兄様の指を握ったまま、窓辺の月鈴花を見た。
白い花は光っていない。
それでも、その中心にある月と星は、昨日よりはっきり見える気がした。
春まで待たなければ分からないこと。
次の手紙が届くまで、確かめられないこと。
まだ、たくさんある。
けれど、待つことは何もしないことではない。
見て。
聞いて。
覚えて。
小さな手で、できることを一つずつ増やしていく。
私は握っていたお兄様の指を、ゆっくり放した。
そして、開いた手を、今度は家族の方へ伸ばす。
「あぅ!」
「リリアが、みんなを呼んでいるみたい」
お兄様が笑った。
お母様が私を抱き直し、お父様が頬へ触れる。
マリアもそばへ来て、掛け物を整えてくれた。
伸ばした手の周りに、家族の手が集まる。
今の私の手では、全員を一度につかむことはできない。
だから私は、誰もつかまず、手のひらを開いたままにした。
それでも、温かさは離れていかなかった。




