第5節 お兄様の、小さな発見
翌朝、私の部屋に来たお兄様は、両手で何かを抱えていた。
絵本にしては、大きい。
お菓子にしては、平たい。
何より、お兄様の歩き方が、いつもよりずっと慎重だった。
「マリア。これ、どこに置いたらリリアから見える?」
「こちらの椅子の横はいかがでしょう。リリア様は今、奥様に抱いていただいていますから」
「うん。じゃあ、ここにする」
お母様の膝の上から、私は首を動かした。
お兄様が抱えていたのは、紙を挟んだ板だった。
その表には、色鉛筆で描いた絵がある。
白い花。
緑の葉。
茶色い鉢。
……月鈴花?
「昨日、お花を見ながら描いたんだ」
お兄様は板を立てかけ、私の方を見た。
「窓のところまで行かなくても、これならリリアに見せられるでしょう」
「まあ。レオンが描いたの?」
「はい。先生に教わった描き方を、少しだけ思い出して」
お母様が絵を覗き込む。
「葉の形まで、よく見ているのね」
「でも、お花が難しくて……」
お兄様は、自分の絵の端を指で押さえた。
「こっちの花びらだけ、少し大きくなってしまいました」
確かに、一枚だけ元気よく横へ広がっていた。
でも、私は知っている。
月鈴花の葉は、ただの細長い葉ではない。
先の方が少し曲がっていて、下の葉ほど外へ開いている。
お兄様は、その違いもちゃんと描いていた。
毎日、同じ部屋で見ていたはずなのに。
私は花が光るかどうかばかり、気にしていた。
「あぅ」
私は絵へ手を伸ばした。
お兄様の顔が、ぱっと明るくなる。
「見てくれる?」
「ええ。とても気になるみたい」
お母様が私を抱き直し、少しだけ絵へ近づけてくれた。
お兄様は板が倒れないように押さえている。
白い花びらの線は、何度か描き直されていた。
薄く残った鉛筆の跡。
紙の隅に、小さく並んだ葉の練習。
これを描くのに、どれほど時間がかかったのだろう。
……見ます。
ちゃんと、見ていますよ。
私は紙の方へ腕を動かした。
「触りたいの?」
お兄様が尋ねる。
そのとおりです。
できれば、お兄様に褒め言葉もお伝えしたいのですが。
「紙の端でお手々を切ってはいけませんから、こちらを」
マリアが、板の下の方へ柔らかな布を掛けた。
いつもの黄色い布だった。
私はそこへ手を伸ばし、端をつかんだ。
「あっ」
お兄様が声を上げる。
「今日は、一回で取れたね」
……あ。
絵に夢中で、難しいことをしているつもりがなかった。
私は布を握った自分の手を見た。
昨日は、あれほど考えて動かしていたのに。
「きっと、お兄様の絵を近くで見たかったのね」
お母様に言われ、お兄様の頬が赤くなった。
「それなら……また描こうかな」
私は黄色い布を握ったまま、小さく声を上げた。
ぜひ、お願いします。
◇
お兄様の絵は、その日から私の部屋に飾られることになった。
寝台からも見える、低い棚の上。
本物の月鈴花とは、少し離れた場所だった。
おかげで私は、花と絵を見比べるという、新しい楽しみを覚えた。
……なるほど。
本物の葉は、もう少し濃い緑。
でも、お兄様が塗った柔らかな緑も、私は好きだった。
昼過ぎ、お父様が部屋へ来たときにも、私はその絵を見ていた。
「これは、レオンが?」
「はい」
お兄様が椅子から立ち上がる。
「リリアに見せたくて描きました」
お父様は棚の前で足を止めた。
すぐには何も言わず、絵を見ている。
お兄様の指が、服の裾をつまんだ。
……お父様。
感想を、お早めに。
こちらまで、どきどきします。
「この葉の重なりは、難しかっただろう」
ようやく、お父様が言った。
お兄様が顔を上げる。
「分かりますか?」
「ああ。手前の葉と、奥の葉を描き分けている」
「最初は、全部つながってしまったんです。それで、もう一度よく見て……」
お兄様は絵へ近づき、葉の付け根を指した。
話し始めると、言葉が次々に出てきた。
鉢の丸みが描けなかったこと。
白い色鉛筆では、白い紙に花びらが見えなかったこと。
それで、周りを薄い青で塗ってみたこと。
お父様は一つずつ聞いていた。
「工夫したんだな」
「……はい」
「よく描けている。父様にも、今度一枚頼めるか」
お兄様が、目を丸くした。
「父上にも?」
「ああ。書斎に飾りたい」
「でも、これは、練習で……」
「練習の絵は、飾ってはいけないのか?」
お父様が少し首を傾げる。
お兄様は困ったように絵を見たあと、小さく笑った。
「……いいと、思います」
「では、楽しみにしている」
私は思わず、手足を動かした。
そうです。
家族の絵画展を開いても、いいくらいです。
ただし、私が描けるようになるまでは。
出品は、お兄様にお任せします。
◇
王妃様から、飾りの絵が届いたのは、それから二日後のことだった。
封筒を持って入ってきたお父様を見て、私はすぐに気づいた。
この前のお返事とは違う。
今日は、封筒の形が大きかった。
「お飾りを描いたものを、送ってくださった」
お父様は、お母様の隣へ腰を下ろした。
「由来の分かる記録は、まだ見つかっていないそうだ。ただ、絵なら先に渡せるだろうと」
「お気遣いいただきましたね」
「ああ。こちらも、確かめたいことを整理しておこう」
お父様が広げた紙に、銀色の飾りが描かれていた。
月のように弧を描く形。
その中央にある、小さな星。
白い石を留める、細い縁。
……これだ。
あの部屋で見たものと、同じだった。
白い石は、絵の中では光っていない。
それでも、私は胸の辺りに意識を向けてしまった。
温かくなるだろうか。
けれど、何も起きなかった。
お母様の腕の温かさと、服の柔らかさがあるだけだった。
「リリアも、覚えているのかしら」
「目に留まる形なのかもしれないな」
お父様は紙を私の手が届かない位置に置き、お母様へもう一枚の小さな便箋を渡した。
お兄様は、その横で絵を覗き込んでいた。
「父上。この飾りは、後ろにも模様があるんですか?」
「今回は、正面を描いていただいたようだ。裏側については、まだ分からない」
「そうなんですね」
お兄様は頷いた。
それから、部屋の隅を振り返った。
棚の上には、お兄様が描いた月鈴花がある。
もう一度、王妃様の飾りを見る。
また、棚を見る。
……お兄様?
「どうしたの、レオン」
お母様が声をかけた。
お兄様は少しためらってから、棚を指した。
「あの絵を、隣に置いてもいいですか」
「お花の絵を?」
「はい。何となく……似ている気がして」
私は、お兄様を見つめた。
小さな胸が、どくんと鳴った。
◇
マリアが棚から絵を下ろし、机の上に並べてくれた。
王妃様の飾り。
お兄様の月鈴花。
二つの絵を前に、お兄様は首を傾げた。
「……あれ」
「何が似ていると思ったんだ?」
お父様が尋ねる。
「真ん中の形です。でも、僕の絵だと、よく分からなくて」
お兄様は花の中央を見つめた。
そこには、小さな丸が描いてある。
本物の花にある、細かな紋様までは描かれていなかった。
「描いたときは、花びらばかり見ていました」
お兄様の声が、小さくなった。
「思い違いかもしれません」
……違います。
そこです。
私は本物の月鈴花へ目を向けた。
窓辺。
白い花。
あの中心にある、細い模様。
「あぅ……!」
腕を動かす。
お母様が私の視線を追った。
「リリアも、お花が気になるの?」
私はもう一度、花へ向かって手を伸ばした。
お父様が椅子から立つ。
「少し、見てみようか」
マリアが鉢を動かし、花の中心が見える向きにしてくれた。
お父様とお兄様が、その前に並ぶ。
お母様も私を抱いて、ゆっくり近づいた。
誰も花には触れなかった。
ただ、窓から入る明るい光の中で、白い花を見つめた。
「……ここか」
お父様の声がした。
「はい。花びらの下の、小さな線です」
お兄様が、触れないように指を浮かせる。
「月みたいに曲がっていて、その中に……」
「星のような形が、あるわね」
お母様が言った。
私は、息を止めていたことに気づいた。
……見つけてくれた。
私が王宮で、どうしても言えなかったこと。
何度も頭の中で並べることしかできなかった、二つの形。
それが今、私だけの気づきではなくなった。
「レオン。よく気づいたな」
お父様が言う。
お兄様は花を見たまま、瞬きをした。
「似ていますよね?」
「ああ。少なくとも、見比べる価値はある」
「僕の勘違いじゃ、なかったんですね」
その言葉を聞いた途端、私はお兄様へ手を伸ばしていた。
「あぅ!」
「リリア?」
お兄様が振り返る。
私は手を開き、閉じた。
ありがとう。
見つけてくれて、ありがとう。
お兄様がそっと差し出した指を、私はつかんだ。
今日は、布よりも簡単だった。
「……リリアも、同じことを考えていたの?」
私は答えられない。
けれど、指を握ることならできた。
◇
お父様は、その場で何かを決めつけはしなかった。
飾りと花の模様が似ていること。
花が光ったことがあること。
王宮では、飾りの白い石が光ったこと。
それぞれを、お兄様と一緒に紙へ書き留めた。
「同じ形でも、同じ由来とは限らない。ただ、王妃殿下にもお伝えした方がよさそうだ」
「お花をお送りするのですか?」
お母様が尋ねる。
「まずは、模様を正確に写したものを。鉢を動かす必要があるかどうかは、その後で考えよう」
「父上。今度は、真ん中もよく見て描きます」
お兄様が言った。
お父様は頷いた。
「頼む。ただし、細かな部分は私も一緒に確かめよう」
「はい」
お兄様は嬉しそうに、紙を持ち直した。
私はお母様の肩に頬を寄せた。
少し、疲れた。
さっきまで、ずっと手に力が入っていたらしい。
「リリアも、ありがとう」
お母様が小さな声で言った。
「お花の方を、教えてくれたのね」
……はい。
どこまで伝わったのかは、分からない。
たまたま花を見たと思われているのかもしれない。
それでも、今日はそれで十分だった。
「僕も、リリアが見てくれなかったら、絵を描かなかったかもしれません」
机の前で、お兄様が言った。
「昨日、いっぱい見てくれたから。もう一度、お花をよく見てみようと思ったんです」
私は顔を上げた。
お兄様は少し照れて、色鉛筆を並べ直している。
……そうだったんですか。
家族を救うために、何かしなければ。
ずっと、そう思っていた。
けれど、今日の私は。
お兄様の絵を見て、嬉しくなって。
もっと見たいと、手を伸ばしただけだった。
その続きを、お兄様が見つけてくれた。
私は机の方へ、もう一度手を動かした。
「今、描くところだよ」
お兄様が笑う。
「できたら、最初にリリアに見せるね」
お父様が隣の椅子を引き、お母様は私を抱いたまま腰を下ろした。
マリアが、机に落ちる影を見て椅子の位置を少し直す。
紙の上を、鉛筆がゆっくり動き始めた。
私はその音を聞きながら、今度はお兄様の手を見ていた。
あの手が描く、小さな月と星。
見落とさないように。
できあがったら、すぐに喜べるように。
眠くなるまで、もう少しだけ。
私は、お兄様の隣で見守ることにした。




