第2節 はじめまして、未来の王太子殿下
王宮へ向かう朝。
私の部屋には、いつも以上に真剣な顔をした家族が集まっていた。
「襟元は苦しくないか?」
「あなた。先ほども確かめましたよ」
「だが、馬車の中で窮屈になるかもしれん」
「柔らかい生地ですから、大丈夫です」
お母様にそう言われても、お父様はまだ心配そうに私を見つめている。
私は、例の薄紫のドレスを着せられていた。
胸元には小さな白い花の刺繍。裾には控えめなレース。
見た目は可愛らしいけれど、肌に触れるところは柔らかく、思っていたよりずっと着心地がいい。
……仕立ててくださった方、ありがとうございます。
赤ちゃんの着心地まで考えてくださるとは。
「リリア、僕の指、握れる?」
お兄様が、そっと人差し指を差し出した。
「あぅ」
いつものように握ると、お兄様はほっとしたように笑う。
「よかった。元気だね」
「レオン。王宮でも、リリアの顔の近くで急に大きな声を出してはいけませんよ」
「分かっています、母上」
そう答えたお兄様は、一呼吸置いてから、小さな声で私に囁いた。
「何か嫌だったら、僕の指をぎゅっと握ってね」
……お兄様。
それだと、ずっと握ってしまいそうです。
何しろ本日の目的地は、私の破滅に深く関わる王宮なのだから。
◇
馬車の揺れは、思っていたより穏やかだった。
お母様の腕に抱かれた私は、窓から差し込む光を眺めていた。
向かいには、お父様とお兄様。
必要な着替えやおくるみを用意したマリアも、一緒に来てくれている。
「眠ってしまっても構わないからね」
お母様が、私の頬を撫でる。
「着いてからも眠っていたら、そのままにしていただきましょう」
「当然だ。挨拶のために起こす必要はない」
お父様が即座に頷いた。
……なるほど。
寝てしまえば、顔合わせを穏便にやり過ごせるのでは?
私は、そっと目を閉じてみた。
けれど。
「父上。殿下も、今日は緊張していらっしゃるでしょうか」
お兄様の言葉に、耳が勝手に反応した。
「そうかもしれんな」
「赤ちゃんとお話しするのは、初めてでしょうか」
「それは分からんが……お前も、初めてリリアを抱いたときは随分と緊張していた」
「だ、だって、小さかったから」
「今も小さいぞ」
「今は、抱き方を覚えました」
お兄様の少し誇らしげな声に、私は思わず目を開けた。
目が合うと、お兄様は嬉しそうに身を乗り出す。
「あ、リリア。起きていたの?」
「あぅ」
「王宮に着いたら、僕もそばにいるからね」
……はい。
ありがとうございます。
寝たふり作戦は、あっさり失敗した。
◇
王宮で私たちが案内されたのは、大勢の貴族が並ぶ広間ではなかった。
庭に面した、明るい小部屋。
窓辺には季節の花が飾られ、椅子の近くには、赤ちゃんを寝かせられる小さな寝台まで用意されている。
「お部屋が暑すぎるようでしたら、お申しつけください」
案内してくれた侍女が、お母様に静かに告げた。
「ありがとうございます。ちょうどよいようですわ」
お母様の返事を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
……本当に、私に合わせてくれているんだ。
お父様が伝えた条件は、言葉だけの約束ではなかったらしい。
それでも、扉の向こうから足音が聞こえると、胸がどきりとした。
いよいよだ。
ユリウス・アストレア。
ゲームの中で何度も見た、あの王子様。
美しく成長した彼が、冷たい目でリリアーナに婚約破棄を告げる場面を、私は覚えている。
――君との婚約を、ここに破棄する。
あの声が、記憶の奥で蘇りかけた。
けれど。
「……こちらで、よろしいのですか」
扉の向こうから聞こえたのは、まだ幼い男の子の声だった。
「ええ。皆様、お待ちですよ」
大人の女性に促され、扉が開く。
入ってきたのは、上品な微笑みを浮かべた王妃様。
そして、その少し後ろを歩く小さな男の子だった。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。
背筋をぴんと伸ばしているけれど、胸元で重ねた指先には、ぎゅっと力が入っている。
……この子が、ユリウス殿下?
もちろん、面影はある。
でも。
私の記憶の中にいる青年より、ずっと小さかった。
「本日は、よく来てくださいました」
王妃様の言葉に、お父様たちが挨拶を返す。
私はお母様の腕の中で、なるべく大人しくしていた。
王妃様は、すぐに私へ目を向けた。
「この子が、リリアーナね」
「はい、王妃殿下」
「まあ……お話に聞いていたとおり、愛らしいこと」
「ありがとうございます」
お母様の腕が、ほんの少しだけ私を抱き直す。
その動きに安心していると、王妃様が隣を振り返った。
「ユリウス。ご挨拶を」
「はい」
殿下は一歩前へ進み出た。
「ユリウス・アストレアです。本日は、わた……」
そこで、小さく言葉が止まる。
殿下の頬が、うっすら赤くなった。
「私に会いに来てくださって、ありがとうございます」
……今、言い直しましたね。
きっと、何度も練習した挨拶なのだろう。
小さな手が、またぎゅっと握られる。
「リリアーナです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
お母様が私の代わりに挨拶した。
私は殿下を見つめながら、ゆっくり口を開く。
「あぅ」
途端に、殿下が困ったように王妃様を見上げた。
「……今のは、何と?」
「ご挨拶してくれたのでしょうね」
「そう、なのですか」
殿下は真剣な顔で私に向き直った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
……律儀。
赤ちゃんの「あぅ」にまで、きちんと返してくださるとは。
思っていた出会いと、だいぶ違います。
◇
椅子に腰を下ろしてからも、殿下の背筋はまっすぐだった。
お茶もお菓子も用意されているのに、手を伸ばそうとしない。
その代わり、ちらちらと私を見ている。
「ユリウス。もう少し近くでお顔を見せていただいたら?」
王妃様が勧めると、殿下は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「ですが、驚かせてしまうかもしれません」
「ゆっくりでしたら、大丈夫だと思います」
お母様が優しく答えた。
殿下は椅子を降り、慎重に近づいてくる。
お兄様は私の隣に立ったまま、その様子を見守っていた。
「……小さいのですね」
殿下が呟く。
「はい。でも、指を握る力は強いんです」
お兄様が答えた。
なぜか、少し得意そうだった。
「指を?」
「こうして、そっと出すと」
お兄様が私に人差し指を差し出す。
私は、慣れた指を握った。
すると殿下の瞳が、ぱっと見開かれる。
「自分で、握るのですか」
「はい。殿下も、よろしければ」
「……よいのでしょうか」
殿下は、まずお母様を見た。
次に、お父様を見る。
お父様は厳かな顔で頷いた。
「そっと触れていただければ」
……お父様。
まるで、大切な宝物を預けるときのようなお顔ですね。
殿下は少し迷ってから、私の前に指を差し出した。
お兄様とは違う、知らない指。
私は、その指先と殿下の顔を交互に見た。
青い瞳が、じっと私を見つめている。
怖い顔ではなかった。
むしろ、私に泣かれないか心配しているような顔だった。
……この子は、まだ何もしていない。
そのことが、不意に胸に落ちた。
私を断罪したのは、ゲームの中の、ずっと先の彼だ。
目の前にいるのは、赤ちゃんへの触れ方も分からずに緊張している男の子。
未来を恐れるあまり、今のこの子まで怖がってしまうのは。
少し、違うのかもしれない。
私は小さな手を伸ばした。
殿下の指に触れ、きゅっと握る。
「……っ」
殿下の肩が小さく揺れた。
「痛くないですか?」
お兄様が尋ねる。
「いいえ」
殿下は首を横に振った。
それから、私の手を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……温かい」
その声は、先ほどの挨拶よりもずっと柔らかかった。
私は思わず、口元を緩めた。
「あぅ」
「母上」
殿下が、指を動かさないようにしたまま王妃様を振り返る。
「笑いました」
「ええ。あなたのお顔を見ているわね」
「……はい」
殿下は再び私を見る。
今度は、その口元にも小さな笑みが浮かんでいた。
◇
それからしばらく、殿下は私のそばにいた。
お兄様が、私の好きな遊びを教えている。
「布を顔の前に出して、隠れるんです。それから、こうして」
お兄様は自分のハンカチで顔を隠し、すぐに下ろした。
「ばあ」
「あぅ!」
つい声を上げると、お兄様が笑った。
「ほら」
「……私にも、できるでしょうか」
「できますよ」
殿下は自分のハンカチを取り出した。
とても真剣な顔で位置を確かめ、顔を隠す。
そして。
「……ばあ」
小さな声だった。
私は、じっと見つめた。
殿下の顔に、少しずつ不安が広がっていく。
……あっ。
違います。
面白くないわけではなくて。
王太子殿下が真剣に「ばあ」をしているという状況に、頭が追いつかなかっただけで。
「今のは……」
殿下がハンカチを下ろしかける。
私は慌てて手を動かした。
「あぅ! きゃぅ!」
「ほら、喜んでいます」
お兄様が言うと、殿下はほっと息をついた。
「もう一度、しても?」
……はい。
ぜひ。
二度目の「ばあ」は、最初より少しだけ大きな声だった。
王妃様がお母様と顔を見合わせ、微笑んでいる。
お父様も、お茶の器を持ったまま、静かにこちらを眺めていた。
私は殿下の笑顔を見上げた。
ゲームには、こんな場面はなかった。
少なくとも、私が知っている物語の中には。
◇
穏やかな時間が過ぎるうち、瞼が重くなってきた。
初めての馬車。
初めての場所。
初めて会う人たち。
赤ちゃんの体には、それだけでも大仕事だったらしい。
「……そろそろ、お暇いたしましょう」
私が目をこすろうとしたのを見て、お母様が言った。
王妃様はすぐに頷く。
「ええ。今日は来てくださって、ありがとう」
殿下が、はっとしたように私を見た。
「もう、帰るのですか」
「リリアは、まだ長く起きていられないんです」
お兄様が答える。
「……そうでした」
殿下は、手元のハンカチを丁寧に畳んだ。
少し寂しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。
「眠る前に、たくさん遊ばせてしまいました」
「殿下のおかげで、楽しく過ごせたようですわ」
お母様が言うと、殿下は私の顔を覗き込んだ。
「リリアーナ」
私は、どうにか目を開ける。
「……また、会いに来てくれますか」
胸が、きゅっとした。
婚約。
破滅。
そんな言葉が、一瞬頭をよぎる。
けれど、殿下は続けた。
「次は、庭の小鳥を見せたいです。窓の近くまで来るのです」
……小鳥。
それが、この子の誘う理由なのだ。
私は眠気に負けながら、小さく声を返した。
「あぅ……」
「お約束は、リリアがもう少し大きくなってからにいたしましょう」
お母様が穏やかに言った。
「ですが、今日は殿下にお会いできて、嬉しかったと思います」
殿下は私を見つめ、それから頷いた。
「私も、嬉しかったです」
◇
帰り支度をしていた、そのときだった。
王妃様が立ち上がった拍子に、胸元の飾りが光を受けた。
銀色の、小さな飾り。
月のような曲線。
その中央に、星。
――え?
眠気が、一瞬で遠のいた。
あの紋様だ。
月鈴花の光の中に浮かんだものと、よく似ている。
私は、思わず手を伸ばした。
「あぅ!」
「リリア?」
お母様が私の顔を見る。
同時に、胸の奥がぽっと温かくなった。
あの夜と同じ感覚。
けれど、今回はすぐそばに、何かがある。
私は銀色の飾りから目を離せなかった。
「まあ。こちらが気になるの?」
王妃様が微笑み、飾りに指を添えた。
その瞬間。
中央にはめ込まれた小さな白い石が、淡く光った。
ほんの一瞬だった。
窓から差す光の反射だと思っても、不思議ではないほど。
けれど。
王妃様の指が、止まった。
「……今のは」
かすかな呟き。
先ほどまで微笑んでいたその顔から、ゆっくりと笑みが消える。
「王妃殿下?」
お母様が声をかけると、王妃様は私を見た。
驚きと、戸惑い。
そして、何かを確かめようとするような眼差しだった。
お父様が、静かに椅子から立ち上がる。
「何か、ございましたか」
その声で、王妃様は我に返ったように瞬きをした。
「……いいえ。少し、昔のことを思い出しただけです」
飾りを包むように、そっと手を重ねる。
もう、光は見えなかった。
私の胸に広がっていた温かさも、ゆっくり薄れていく。
……あれは、何?
月鈴花と、王家の飾り。
どうして、同じ紋様があるの?
尋ねたい。
今すぐ、聞いてみたい。
けれど、私の口から出てくるのは、意味を持たない幼い声だけだった。
「リリア。帰ろう」
お父様が、私の小さな手を包んだ。
大きくて、温かい手。
私はその指を握りながら、王妃様を見つめた。
王妃様はもう、穏やかな微笑みを取り戻している。
けれど、銀色の飾りを押さえた手だけは。
私たちが部屋を出るまで、一度も離されなかった。




