第1節 王太子殿下との顔合わせなんて、聞いていません!
――嫌な予感ほど、よく当たる。
前世でも、そんなことを聞いた覚えがある。
でも、まさか。
赤ちゃんになってからも、その言葉を実感することになるなんて。
「……あぅ」
私は、お母様の腕の中で固まっていた。
目の前には、お父様。
そして、王宮から届いた一通の書状。
金色の封蝋には、王家の紋章が刻まれている。
……ああ。
見覚えがあります。
ゲームの中でも、何度か登場した王家の紋章。
これを見るたびに、悪役令嬢リリアーナの運命が動き始めていた。
できれば、一生見たくなかったんですけど。
「あなた」
お母様――セレーナが、静かに口を開いた。
「王宮からのお知らせというのは?」
お父様――アレクシスは、少しだけ眉を寄せた。
「……ユリウス殿下に関するものだ」
――やっぱり!
私は心の中で叫んだ。
王太子ユリウス・アストレア。
乙女ゲーム『聖女の恋と運命の王子』の主要攻略対象。
そして、悪役令嬢リリアーナの婚約者となる人物。
ゲームでは、彼との婚約が私の破滅への第一歩だった。
だからこそ。
私は、できるだけ関わらないようにしたかった。
なのに。
「王宮では、近いうちに王太子殿下のお披露目に合わせ、貴族家との交流の場を設けるそうだ」
お父様が続けた。
「その際、リリアを殿下に紹介したいという意向がある」
――えええっ!?
私は思わず声を上げた。
「ふぇっ!」
「リリア?」
お母様が驚いて私を見つめる。
「どうしたの?」
どうしたもこうしたもありません!
紹介!?
王太子殿下に!?
私を!?
まだ赤ちゃんですよ!?
「……やはり、早すぎるな」
お父様が低い声で呟いた。
「私も、そう思います」
お母様が静かに頷く。
「リリアは、まだこんなに小さいのですから」
……そうです!
お母様、もっと言ってください!
「父上!」
それまで黙っていたお兄様――レオンハルトが、勢いよく口を開いた。
「リリアを王宮に連れていくんですか?」
「まだ決まったわけではない」
「でも、王太子殿下に会わせるんですよね?」
「王宮からは、そう希望されている」
お兄様は、私を見つめた。
「……リリア、怖くない?」
……怖いです。
ものすごく怖いです。
でも。
お兄様に心配をかけたくない。
私は小さな手を伸ばした。
「あぅ……」
「……!」
お兄様は、すぐに私の指を握ってくれた。
「大丈夫だよ」
その声は、とても優しかった。
「僕も一緒に行くからね」
……お兄様。
ありがとうございます。
でも、できれば。
行かない方向でお願いしたいです。
◇
その日の午後。
お父様の執務室では、王宮からの書状を前に話し合いが続いていた。
「……正式な婚約の申し入れではないのだな?」
お父様が、王宮の使者に確認した。
「はい、公爵閣下」
使者は深く頭を下げた。
「現段階では、あくまで王太子殿下との顔合わせをお願いするものでございます」
「顔合わせ、か」
「はい。王家としては、将来を見据えた交流の機会を設けたいとのお考えです」
お父様の表情が険しくなる。
「リリアは、まだ赤ん坊だ」
「承知しております」
「その年齢で、将来を決める必要があるとは思えん」
使者は少し困ったように微笑んだ。
「陛下も、今すぐ婚約を決めるおつもりではございません」
「……そうか」
お父様は、しばらく考え込んだ。
そして、静かに言った。
「では、一つ条件がある」
「何でございましょう?」
「リリアに負担をかけないことだ」
使者が顔を上げる。
「長時間の儀式や、形式ばかりの挨拶はさせない」
「もちろんでございます」
「それから」
お父様は、さらに続けた。
「この顔合わせを、婚約の内定として扱うことは認めない」
使者は一瞬だけ驚いた表情を見せた。
しかし、すぐに深く頭を下げた。
「承知いたしました。陛下に、そのようにお伝えいたします」
お父様は静かに頷いた。
「……ならば、検討しよう」
◇
夕方。
私は、お母様の腕の中で窓の外を眺めていた。
……顔合わせ。
婚約ではない。
それは、少しだけ安心できる知らせだった。
でも。
王太子ユリウスに会うということは、ゲームの運命に近づくということでもある。
……どうしよう。
私は考え込んだ。
ゲームのリリアーナは、幼い頃から王太子に強い憧れを抱いていた。
そして、婚約者という立場に執着するようになっていった。
でも、今の私は違う。
王太子殿下と婚約したいなんて、これっぽっちも思っていない。
むしろ、できれば遠くから眺めているだけで十分だ。
「リリア?」
お母様が顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「あぅ……」
「ふふっ。難しいお顔ね」
お母様は優しく微笑んだ。
「王宮のお話が気になるのかしら?」
――はい!
ものすごく気になります!
私は思わず手を伸ばした。
すると、お母様は私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫よ」
その声は、とても温かかった。
「あなたが嫌がることは、無理にさせないわ」
……お母様。
私は胸がいっぱいになった。
でも。
王宮からの招待を断るのは、簡単なことではないはず。
公爵家には、公爵家の立場がある。
お父様だって、きっと悩んでいる。
……だからこそ。
私も、少しは頑張らなきゃ。
そう思ったときだった。
「リリア!」
扉が開き、お兄様が入ってきた。
「今日はね、王宮について教えてあげようと思って!」
……お兄様。
準備が早いですね。
「王宮は、とても広いんだよ」
お兄様は楽しそうに話し始めた。
「大きな庭園もあるし、綺麗な噴水もあるんだ」
私は静かに耳を傾けた。
「それから、王太子殿下は僕より少し年下なんだ」
……そうでしたね。
ゲームでも、そんな設定だったはず。
「殿下は、とても勉強熱心なんだって」
お兄様は嬉しそうに続けた。
「でも、ちょっと真面目すぎるところもあるらしいよ」
……なるほど。
それも、ゲームと同じ。
ユリウス殿下は、幼い頃から王太子として厳しく育てられていた。
だから、感情を表に出すのが苦手だった。
そして。
その不器用さが、悪役令嬢リリアーナとのすれ違いを生んだ。
……でも。
今の私は、まだ赤ちゃん。
すれ違う以前に、まともに会話すらできません。
「リリア?」
お兄様が首を傾げた。
「眠くなっちゃった?」
「あぅ!」
「ふふっ。まだ元気みたいだね」
お兄様は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度は王宮の図書室のお話をしてあげるね」
……お兄様。
王宮より、そちらの方が気になります!
◇
数日後。
王宮から、正式な返事が届いた。
お父様が出した条件は、すべて受け入れられたらしい。
顔合わせは、短時間。
リリアに負担をかけない。
そして、婚約については何も決めない。
……よかった。
私は、ようやく少しだけ安心した。
けれど。
その安心は、長く続かなかった。
「リリア、今日はお洋服を選びましょうね」
お母様が、楽しそうに微笑んだ。
……え?
お洋服?
「王宮へ行くのだから、可愛らしいドレスを用意しないと」
――ドレス!?
私は目を見開いた。
まだ赤ちゃんですよ!?
「マリア、淡い水色はどうかしら?」
「とてもお似合いになると思います」
「それとも、薄紫も素敵ね」
「リリア様は、どちらもお似合いになりますよ」
……あの。
皆さん。
私の意見は?
「リリア、どちらが好き?」
お母様が二着の小さなドレスを見せてくれた。
淡い水色。
そして、柔らかな薄紫。
……うーん。
どちらも可愛い。
でも。
薄紫の方が、少し落ち着いていて好きかもしれない。
「……あぅ!」
私は薄紫のドレスへ手を伸ばした。
「まあ!」
お母様が嬉しそうに笑った。
「リリアは、こちらが好きなのね!」
……はい。
たぶん。
「では、こちらにしましょう」
マリアが微笑んだ。
……よかった。
ちゃんと、私の意見が通りました。
すると。
「リリア!」
お父様が部屋へ入ってきた。
「ドレスを選んでいるのか?」
「ええ」
お母様が微笑む。
「この薄紫に決めたところです」
お父様はドレスを見つめた。
そして、真剣な顔で頷いた。
「……素晴らしい」
……お父様。
まだ着ていませんけど。
「リリアに、よく似合うだろう」
「ふふっ。そうでしょう?」
お母様が嬉しそうに笑った。
「王宮でも、きっと可愛らしいでしょうね」
……お母様。
王宮では、できれば目立ちたくないんです。
でも。
そんな私の願いとは裏腹に、家族はどんどん盛り上がっていった。
◇
その夜。
私は寝台の中で、静かに考えていた。
王宮。
王太子ユリウス。
そして、婚約者候補。
……いよいよ、運命が動き始める。
ゲームでは、リリアーナが王太子に出会ったことが、すべての始まりだった。
でも。
今の私は、ゲームのリリアーナとは違う。
家族を大切にしたい。
誰かを傷つけたくない。
そして、悲しい未来を変えたい。
私は小さな拳を握りしめた。
――絶対に、同じ結末にはしない。
そのとき。
――ちりん。
窓際の銀色の鈴が、静かに鳴った。
月鈴花が、淡く光り始める。
……まただ。
私は花を見つめた。
白い花びら。
柔らかな光。
そして、胸の奥に広がる温かな感覚。
……不思議。
王宮のことを考えていたら、急に反応した。
まるで、何かを知らせようとしているみたい。
「……あぅ」
私は小さく声を漏らした。
すると。
月鈴花の光の中に、あの紋様が浮かび上がった。
月のような曲線。
その中央に、小さな星。
……!
私は息を呑んだ。
やっぱり、この紋様。
何か意味があるんだ。
でも。
まだ分からない。
私は、そっと目を閉じた。
……大丈夫。
焦らない。
少しずつ、調べていけばいい。
そう思ったとき。
胸の奥に、ほんの少しだけ違和感が走った。
……え?
まるで、遠くから誰かに呼ばれたような。
私は目を開いた。
月鈴花は、静かに光っている。
けれど。
その光は、いつもより少しだけ強かった。
◇
同じ頃。
王都の一室。
黒い紋章の指輪をはめた人物が、静かに報告書を読んでいた。
「……王宮での顔合わせが決まったか」
黒い外套の男が頭を下げる。
「はい。数日後に行われる予定です」
「そうか」
指輪の人物は、しばらく黙っていた。
「……やはり、運命は動き始める」
「次の指示は?」
男が尋ねた。
指輪の人物は、ゆっくりと目を細めた。
「王宮の警備を調べろ」
「……警備を、ですか?」
「ああ」
その声は、静かだった。
「今度こそ、確かめなければならない」
「何を、でございますか?」
指輪の人物は、低く呟いた。
「……あの子が、本当に『月の守り手』なのかを」
窓の外では、月が静かに輝いていた。
そして。
リリアーナは、まだ知らない。
王宮での顔合わせが、ただの挨拶では終わらないことを。
自分の中に眠る力が、王家の秘密と深く関わっていることを。
そして、運命の相手である王太子ユリウスとの出会いが、ゲームとは違う未来への扉を開くことになることを。
赤ちゃん悪役令嬢リリアーナの未来改変計画は、こうして新たな舞台へと進み始めたのだった。




