第5節 小さな守護の光が、未来を変える
――私には、どうやら秘密があるらしい。
しかも、それは私自身にもよく分からない秘密だ。
「……あぅ」
朝の光が差し込む寝室で、私は小さな手をじっと見つめていた。
ふっくらした指。
小さな爪。
ぎゅっと握れば、可愛らしい拳になる。
……うん。
どこからどう見ても、普通の赤ちゃんの手だ。
なのに、この手には魔力が宿っているらしい。
月鈴花を光らせたり、風を起こしたり。
お兄様が持ってきた魔力に反応する石まで光らせてしまった。
そして昨夜は、月鈴花の光の中に、不思議な紋様が浮かび上がった。
月のような曲線と、小さな星。
……あれは、いったい何だったのだろう。
私は考え込んだ。
けれど、どれだけ思い出そうとしても、ゲームの知識には当てはまらない。
乙女ゲーム『聖女の恋と運命の王子』。
その物語では、悪役令嬢リリアーナは魔法の才能に恵まれず、聖女候補への嫉妬から破滅していった。
少なくとも、こんな不思議な力を持っていたという設定はなかったはずだ。
……もしかして。
ゲームで描かれなかっただけ?
それとも、私が転生したことで何かが変わった?
「リリア様、おはようございます」
考え込んでいると、マリアが入ってきた。
「今日は奥様が、リリア様と一緒に朝のお茶の時間を過ごされるそうですよ」
……お茶の時間!
素敵ですね。
もちろん、私はまだお茶菓子を食べられませんけれど。
「それから、レオンハルト様もご一緒されるそうです」
「あぅ!」
「ふふっ。お兄様が大好きなのですね」
……はい。
大好きです。
でも、それはお父様もお母様も同じです。
私は小さな手を伸ばした。
マリアは嬉しそうに微笑み、私を抱き上げてくれた。
◇
午前のお茶の時間。
お母様の私室には、甘い焼き菓子の香りが広がっていた。
「リリア、今日はご機嫌ね」
お母様――セレーナが、私を膝に抱きながら微笑んだ。
「あー!」
「まあ、元気なお返事」
向かい側には、お兄様のレオンハルトが座っている。
「母上、今日は僕がリリアに本を読んであげてもいいですか?」
「もちろんよ。でも、お茶を飲んでからにしましょうね」
「はい!」
お兄様は嬉しそうに頷いた。
……お兄様。
そんなに急がなくても、本は逃げませんよ。
すると、扉が開いた。
「リリア!」
……あ。
この声は。
「あなた?」
お母様が振り向いた。
そこには、お父様――アレクシスが立っていた。
「仕事はどうなさったの?」
「少し休憩だ」
お父様は当然のように答えた。
「リリアの顔を見に来た」
……でしょうね。
もう驚きません。
「父上、さっきもリリアの部屋に行っていませんでしたか?」
お兄様が不思議そうに尋ねた。
「それとこれとは別だ」
「……そうなんですか?」
「ああ」
お父様は真剣な顔で頷いた。
「娘の成長は、一瞬たりとも見逃せない」
……お父様。
それでは、お仕事が進まないのでは?
「あなた」
お母様がにっこり笑った。
「執事長がお探しになるのではなくて?」
「……少しだけだ」
お父様の声が小さくなった。
……やっぱり、お母様が一番強い。
私は思わず笑ってしまった。
「きゃっ!」
「……!」
お父様が固まった。
「セレーナ」
「どうしました?」
「リリアが笑った」
「ええ、そうね」
「私を見て笑ったぞ」
「ふふっ。嬉しいのね」
お父様は、しばらく私を見つめていた。
そして、満足そうに微笑んだ。
「……今日は、いい日だ」
……お父様。
毎日、同じことを言っていませんか?
◇
お茶の時間が終わると、お兄様が本を開いた。
「リリア、今日は昔の伝説を読んであげるね」
「あぅ!」
「ふふっ。楽しみなのね」
お兄様は嬉しそうに笑った。
「えっと……『はるか昔、月の光を宿す守り手がいた』」
――えっ。
私は思わず目を見開いた。
月の光を宿す守り手?
それって、もしかして……。
「『その者は、剣を持たず、争いを好まず、ただ大切な人々を守るために力を使った』」
お兄様の声が、静かに部屋に響く。
「『守り手の力は、傷ついた者を癒やし、災いから人々を守る光となった』」
……守護と癒やし。
前に読んでもらった本にも、似たことが書いてあった。
「『けれど、その力はあまりにも特別で、多くの者が欲しがるようになった』」
私は息を呑んだ。
「『やがて守り手は姿を消し、その名は伝説となった』」
お兄様は本を閉じた。
「……ちょっと寂しいお話だね」
お母様が優しく頷いた。
「そうね。でも、守り手はきっと、大切な人を守れたのだと思うわ」
……大切な人を守る。
私はその言葉を、心の中で繰り返した。
もし。
もし、私の力が本当に守り手と関係しているのなら。
それは、家族を守るために使えるのだろうか。
「リリア?」
お兄様が顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……あぅ」
「難しかった?」
私は首を横に振りたかった。
でも、まだ上手に動かせない。
「ふふっ。きっと、お話に夢中なのよ」
お母様が微笑んだ。
……はい。
夢中というより、ものすごく気になっています。
◇
その日の午後。
お父様の執務室では、執事長が新たな報告書を差し出していた。
「旦那様。『月の守り手』について、古い記録が見つかりました」
「……何か分かったのか?」
「はい。ただし、内容は断片的です」
執事長は慎重に書類を開いた。
「かつて、守り手の力は王家の危機を救ったと記されています」
「王家を?」
「はい。しかし、その後、守り手の一族は歴史から姿を消しました」
お父様は眉を寄せた。
「理由は?」
「記録には残っておりません」
「……そうか」
執事長は続けた。
「ただ、一つ気になる記述がございます」
「何だ?」
「守り手の力は、強い愛情や守りたいという願いによって目覚めることがある、と」
お父様は黙り込んだ。
そして、静かに呟いた。
「……リリア」
執事長が顔を上げる。
「旦那様?」
「いや、何でもない」
お父様は窓の外を見つめた。
「……あの子は、まだ赤ん坊だ」
「はい」
「何か特別な力があったとしても、それを理由に利用されるようなことは、絶対にさせない」
執事長は深く頷いた。
「もちろんでございます」
「調査は続けろ。ただし、慎重にな」
「かしこまりました」
◇
夕方。
私は、お兄様と一緒に庭園を眺めていた。
「リリア、見てごらん」
お兄様が窓の外を指さす。
「今日は夕焼けが綺麗だよ」
「あぅ」
空は、柔らかな橙色に染まっていた。
遠くの木々が、風に揺れている。
……綺麗。
こうしていると、まるで何も心配することがないように思える。
「リリア」
お兄様が優しく声をかけた。
「昨日のこと、怖かった?」
私はお兄様を見上げた。
その表情は、いつもより少し真剣だった。
「僕、もっと強くなるからね」
……お兄様。
「今はまだ、父上みたいに何でもできるわけじゃないけど」
お兄様は私の小さな手を握った。
「いつか、リリアが困ったときに、すぐ助けられるようになりたいんだ」
私は胸が温かくなった。
……ありがとう。
でも。
私だって、同じです。
お兄様が困ったときは、助けたい。
お父様も、お母様も。
この家族全員を。
「……あぅ!」
私はお兄様の指をぎゅっと握り返した。
「……!」
お兄様が目を見開いた。
「リリア……!」
そして、嬉しそうに笑った。
「約束だよ!」
……はい。
約束です。
◇
その夜。
私は寝台の中で、静かに目を閉じていた。
今日、お兄様が読んでくれた伝説。
月の守り手。
大切な人を守る光。
そして、強い愛情によって目覚める力。
……もし。
私の魔力が、その力と関係しているのなら。
きっと、使い方を間違えてはいけない。
私はゆっくり呼吸した。
胸の奥にある温かな感覚を探す。
……あった。
柔らかな光。
優しい温かさ。
まるで、お母様に抱きしめられているような感覚。
「……あぅ」
私は小さく息を吐いた。
すると。
――ちりん。
窓際の銀色の鈴が、静かに鳴った。
月鈴花が、淡く光り始める。
……まただ。
私は目を開いた。
白い花びらの周りに、小さな光の粒が浮かんでいる。
そして。
その光が、ゆっくりと私の方へ近づいてきた。
……え?
私は驚いた。
光の粒は、まるで小さな蛍のように、ふわふわと漂っている。
そのうちの一つが、私の手のひらに触れた。
――ぽうっ。
温かな感覚が広がった。
「……!」
私は目を見開いた。
痛くない。
怖くもない。
むしろ、とても安心する。
すると。
寝台のそばに置かれていた白い兎のぬいぐるみが、ふわりと浮き上がった。
……ええっ!?
私は思わず声を上げそうになった。
でも、慌てて口を閉じる。
ぬいぐるみは、ほんの少しだけ宙に浮かび、ゆっくりと寝台の上へ戻った。
……今の、私がやったの?
私は小さな手を見つめた。
光の粒は、すでに消えている。
でも。
胸の奥には、温かな感覚が残っていた。
……すごい。
初めて、はっきりと魔法らしいことができた。
私は嬉しくなった。
けれど。
同時に、少しだけ怖くなった。
もし、この力が誰かに知られたら。
あの謎の人物たちは、どうするのだろう。
……だからこそ。
今は、慎重に。
焦らず、少しずつ。
私は小さな拳を握った。
――いつか必ず、この力を使いこなしてみせる。
そして。
大切な家族を守れるようになるんだ。
◇
翌朝。
私は、お母様の腕の中で朝日を浴びていた。
「リリア、今日はとてもご機嫌ね」
「あぅ!」
「ふふっ。いい子ね」
お母様は優しく微笑んだ。
すると。
「リリア!」
お兄様が元気よく部屋に入ってきた。
「おはよう!」
「あぅ!」
「今日はね、リリアに見せたいものがあるんだ!」
……またですか?
お兄様。
今度は何でしょう。
「レオンハルト、今日は何を持ってきたの?」
お母様が尋ねる。
「これです!」
お兄様が差し出したのは、小さな木箱だった。
蓋を開けると、中には綺麗な青い石が入っていた。
……あれ?
この石、どこかで見たような。
「先生がね、これは魔力を安定させる石だって教えてくれたんだ」
お兄様は嬉しそうに言った。
「魔法の練習をするときに使うんだって」
――魔力を安定させる石!?
私は思わず目を見開いた。
それって、今の私に必要なものでは!?
「でも、これは僕の練習用なんだ」
お兄様は少し照れくさそうに笑った。
「リリアが大きくなったら、一緒に使えるように、僕がちゃんと勉強しておくね」
……お兄様。
ありがとうございます。
私は小さな手を伸ばした。
「きゃう!」
「ふふっ。楽しみなんだね」
お兄様は嬉しそうに笑った。
そのときだった。
――こん、こん。
扉が叩かれた。
「奥様」
マリアが入ってくる。
「旦那様から、お知らせがございます」
「何かしら?」
お母様が顔を上げた。
「王宮から、正式な使者が到着されたそうです」
……え?
私は固まった。
王宮から、正式な使者?
まさか。
婚約の話!?
「使者の方は、何と?」
お母様が尋ねる。
マリアは少し緊張した表情で答えた。
「王太子ユリウス殿下に関する、ご連絡とのことです」
――えええっ!?
私は心の中で叫んだ。
ちょっと待ってください!
私、まだ赤ちゃんですよ!?
魔法の練習も、寝返りも、まだ途中なんですけど!?
お母様は私を抱き直し、静かに微笑んだ。
「……そう。では、あなたにお任せしましょう」
お兄様は少し不安そうに私を見つめた。
「リリア、大丈夫だよ」
そして、私の小さな手を握る。
「何があっても、僕が守るからね」
私はお兄様を見上げた。
その優しい瞳を見ていると、不思議と安心できた。
……うん。
大丈夫。
きっと、何とかなる。
でも。
王太子ユリウス。
ゲームでは、私を破滅へ導く運命の相手。
その名前が、こんなにも早く再び現れるなんて。
私は小さな拳を握りしめた。
――どうか、婚約の話ではありませんように!
けれど。
運命は、私の願いを待ってはくれなかった。
王宮から届いた知らせは、リリアーナの未来を大きく動かすものだったのだから。




